15 飲まれないように
オレは、長い廊下を帆沼さんについて歩いていた。視界に映るのは、埃の溜まった不潔そうな床と左右に揺れる帆沼さんの背中。不穏な光景なのに、なんだか優しい香りがしていて、不思議と心は落ち着いていた。
「……こんな話は聞いたことないかな。今この世界にいる人間は、神によって二つに分かたれた内の片割れに過ぎないという」
冷たい空間に、抑揚の無い帆沼さんの声が響く。
「もともと人は、二人で一体だった。腕も足も四本あって、頭も二つ。そんな人間には、男と男、女と女、男と女という三つの種がいた。けれどある時、人はその傲慢故に神の怒りを買ってね。全ての人の体は真っ二つに引き裂かれ、元より持ち得た強大な力を失ってしまったんだ」
つまり、同じ人であるオレの身も既に分断されたあとの体だというのだ。少しよろけた足を踏みしめ、耳を傾けていた。
「だから今でも人は、神によって分かたれた己の半身を探している。そしてその半身に出会った時、人は強い衝動でもってまた一つに戻ろうとするんだ。……どうしようもなく惹かれ合う、その体と同化しようとね」
「同化、しようと……」
「哲学者プラトンの著した『饗宴』に出てくるアリストパネスの唱えた説さ。喜劇作家らしい、愉快でロマンチックな話だろ」
プラトンという名は、高校の授業で聞いたことがあった。確かソクラテスの弟子の一人だったと思う。
「けれどもし、人がまた愚かにも神の怒りに触れるようなことがあれば。また人は分断されるだろうとアリストパネスは述べている」
「……」
「だけど、その話がされたのは二千年以上前。更に人類が生まれたのなんてもっとずっと昔だ。……ねぇ慎太郎。果たしてその間、人は罪を犯さずにいられたのだろうか」
不規則だった足音が止まる。立ち止まった帆沼さんは、目の前のドアに鍵を差し込んでいた。
「俺は、そうは思わない。ざっと歴史の教科書を開いても分かる通り、人は途方もない罪を重ねてきた生き物だ。全てではなくても、中には神の怒りに触れて再び分かたれた人がいたのではないかと思う」
「それが、オレと帆沼さんだって言うんですか?」
「ふふ、察しが良いな」
……なんとなく、彼が何を言いたいのか分かってきた。帆沼さんとオレは、かつて何らかの罪を犯し再び二つに裂かれた人。そしてオレ達が一つになった時、更に元の人間となる為求めるのが……。
「檜山正樹」
カチリ、と鍵が開く。
「故に俺達は、自分の為にも檜山サンの為にも一つにならなければならない。彼も俺もお前もこれまでずっも苦しんできたのは、分かたれた不完全な存在だったからだ」
「それが元通りになれば――完璧な存在になれば、オレ達は満たされて、苦しむことは無くなる」
「その通り」
檜山さんが時折見せる、酷く切羽詰まったような表情を思い返す。そしてこの数日で見た、帆沼さんの苦しそうな顔も。彼らがオレに話さない全ての苦しみも、一つになることで救われるのだろうか。
自分が今、ここで身を差し出すことで。
「……俺と慎太郎は不思議と惹かれ合い、だけど一方で強烈に檜山正樹に魅了されていた。その答えが、ここにあるんだと思う」
帆沼さんの話は、心地良かった。その声、抑揚、調子を耳で聞いていると、まるで淡い色合いの膜に抱かれているようで。
なんとなく、謎解きをする時の檜山さんに似ている。そう思った。
「さぁ入って」
帆沼さんに促される。無機質なドアの中は、オレのいた部屋よりもずいぶん広かった。部屋の真ん中には、物々しい機械と二台のベッドが置かれている。
……なんだか、頭がぼんやりとしていた。この部屋に立ち込めている、甘ったるい香のせいだろうか。
「この部屋で次に目が覚める時は、俺と慎太郎が同化した後だ」
帆沼さんが、オレの肩に手を置く。舌に開けられたピアスが歯に触れたのか、カチリと小さく音を立てた。
「……怖がらなくていい。ただ混ざり合うだけじゃない、慎太郎の記憶だってちゃんと残るんだよ」
「オレの……記憶も?」
「そう。記憶転移といって、臓器移植をしたレシピエントにドナーの記憶やクセが移る現象を聞いたことはないかな。その現象の多くは心臓移植らしいんだけど、あの臓器の細胞の半分は生まれた時のまま過ごす。生涯入れ替わらないその細胞に記憶されたDNAが、レシピエントのDNAに影響を及ぼすと考える学者もいるんだ」
「……」
「慎太郎の心臓は俺の心臓となって生き続ける。そしていずれ、檜山サンとすら一つになれるんだよ」
甘美な響きだった。もはや思考能力は極限まで落ちて、さっきまで自分が何を考えていたのかさえも分からない。
ただ、この部屋に入れば、檜山さんと一つになれると。帆沼さんだって救われると。そればかりがぐるぐると頭の中を渦巻いていた。
緩く背中を押される。しかしその踏み出した弾みで、肌に何か冷たいものが触れた。
(……あれ)
視線は向けず、手で押さえて確認する。……なんだっけ、これ。硬くて、ごつごつしてて、物騒な重みを持ったもの。確か……そうだ。
(――スタンガンだ)
それは檜山さんが落とし、オレが拾って隠していたもの。あの時の檜山さんは、勝ち目すら無いのに男に飛びかかっていた。その注意を引く行動から察するに、わざとそうしたのだろう。
「……」
肌に触れた無機質な冷たさに、急速に思考がクリアになっていく。オレは甘ったるい匂いを振り払い、それを強く体に押し付けた。
(しっかりしろ、オレ)
現実的な感触に支えられ、もう一度自分に喝を入れる。
(目的を果たせ。帆沼さんの世界に飲まれるな)
それから、ドアを閉めようとした帆沼さんを振り返った。
「……帆沼さん」
「何?」
そしてオレは、スタンガンを突きつけた。
「……! 慎太郎、なんだそれ……!」
「スタンガンです。檜山さんが護身用に持って来ていた」
「……それを、どうするつもりだ?」
「こ、こうします」
オレは腕を後ろに引くと、アンダースローの要領で薄く開いたドアの隙間に向けてスタンガンを放り投げる。それは帆沼さんの横を抜け、部屋の外へと追い出された。
「――え?」
ガタッ、カラカラカラとスタンガンが転がる音がする。……できるだけ優しく投げたつもりだけど、壊してたらどうしよう。あれ檜山さんのなのに。
でも、やってしまったものは仕方ない。オレはむいっと胸を張った。
「さあ、これでオレは完全に丸腰です。帆沼さんが怖がるようなものは、もうマジで何も持ってません。安心してください」
「……え? え、どういうこと?」
「帆沼さん、さっきオレを試す為にわざと睡眠薬を飲んだふりをしてたって言ってましたよね? ずっと起きてたんなら、トイレの個室での会話だって聞いてると思います。……その、オレの望みも」
「……」
「オレ、帆沼さんと話がしたいんです」
驚きすぎて動けない帆沼さんに近づく。それから彼の分厚い前髪に手を当て、優しくかき上げた。
睫毛の長い目と、視線が合う。
「……だから、帆沼さんもちゃんとオレを見てください。誰かの空想の世界になんか行かないで。帆沼さんの作り上げた世界を盾にして、目を逸らさないで」
大きく見開かれた帆沼さんの目に向かって、言う。
「ここにいる目の前のオレと、話してください」




