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現世堂の奇書鑑定  作者: 長埜 恵
第4章 ラ・マンチャの男は幸福なりや
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14 世界

「来てくれると思っていましたよ、檜山サン。あなたなら、俺の想いを汲み取ってくれると信じてました」

「帆沼君……!」

「でも、薬は避けるべきでしたね。気づいたから良かったものの、あれ慎太郎が飲んでたらどうする気だったんですか」


 ――睡眠薬は、帆沼さんに気づかれていたのか。あれ、じゃあ帆沼さんが眠っていたのって……。


「演技だよ」


 オレの心を読み取ったかのように、彼は補足してくれた。


「そんでついでだから、慎太郎の気持ちも試そうと思ってさ。まったく……俺、お前が漏らすぐらい気にしなかったのに」

「オレが気にしますよ!」

「まあトイレに行くぐらい目を瞑るよ。……もっとも」


 帆沼さんの口角が、ぐっと上がる。


「すぐに帰ってきてくれてたら、だけど」


 激しい音がした瞬間、隣にいた檜山さんがオレを背中に庇った。彼の肩越しに、壊れたドアからこちらを覗き込む目出し帽をかぶった数人の姿を見た。


「帆沼君! これは……!」

「……檜山さんは、少し別室で待機しててもらえます? 手術が終わったら声かけますんで」

「やめろ! あんな無茶苦茶な手術が成功するわけない! 二人とも死ぬだけだぞ!」

「死にませんよ。二人が一人となって生き続けるだけです」


 檜山さんに向かって手が伸ばされる。それを容赦なく振り払った彼だったが、多勢に無勢である。それでも檜山さんは素早く一人の懐に入り込むと、その人を力尽くで押し倒し叫んだ。


「行け、慎太郎君! 僕は大丈夫だ!」


 檜山さんの姿が、どんどん他の人に埋もれて見えなくなる。助けようと足を踏み出しかけたが、彼の言葉がオレを止めた。


「君の望みを果たせ!」


 冷たく固いものがオレの足に当たる。そこにあったのは、檜山さんが持ってきていたスタンガンだった。一瞬考え、手術衣の内側の紐に結びつけて隠す。


「……それじゃあ慎太郎、行こうか」


 いつのまにかドアから顔を出していた帆沼さんが、薄く笑う。


「予定より少し早いけど、いいよね」


 少し迷って、頷く。――もう、後戻りはしない。できない。檜山さんだって、「望みを果たせ」と言ってくれた。

 これが、オレと帆沼さんと話す最後のチャンスなんだ。

 立ち上がる。オレは、帆沼さんに導かれるままその後をついて行った。












 首にナイフを押し付けた青年は、黙したままこちらの動向を窺っていた。……これ以上、距離を詰められない。そう判断した丹波は、歯痒さに拳を握りしめた。

 ――戸田東介は、帆沼呉一に脅迫されている可能性がある。故に強行突破は彼の命を犠牲にする為、説得による確保を目標とする。

 事前に部隊にそう伝えてはいたものの、部下らのジリジリとした焦りは丹波にも伝わっていた。事実、時間がかかり過ぎれば当然慎太郎の身も危険に晒される。それどころか、潜入した檜山にも……。


『あの施設の内部を詳しく知る人間は、僕しかいません』


 せめて他にも数人部隊の者をついて行かせようかと提案した丹波に、檜山はそう返した。


『かつ、人数が多ければ多いほどその思考の共有化は難しくなります。当然見つかる可能性も高くなる。目的は帆沼呉一の目を盗んで慎太郎君を逃がすことのみですし、ここは僕一人で行かせてください』


 ……他にもあれこれ理屈をこねていたが、要するに邪魔なのでついてくるなということらしい。もしかしたら、他に狙いがあるのかもしれないが。


(……打開する手立てを、見つけなければ)


 戸田から目を離さずに、丹波はあえて深呼吸をする。いつだったか、同じ警察官である父から言われたことを思い返す。

 ――満ち足りた人間は、わざわざ進んで犯罪というリスクなど負わない。つまりどんなに残酷な加害者であっても、かつては何らかの理不尽を受けた被害者なのだ。罪を許せずとも、それだけは決して忘れてはならない――。


「戸田君!」


 丹波は大きく振りかぶり、手にしていたものをぶん投げた。一瞬身構えた戸田の足元に転がったのは、拡声器。


「それ、使ってください!」


 元々地声が大きい丹波は、声を張り上げて彼に伝えた。


「私達は、あなたの命と地下に閉じ込められた命を助けたい! その為に、あなたの要求を聞きたいんです!」

「……」

「率直に聞きます! どうすれば、戸田君はナイフを下ろしてこちらに帰ってきてくれますか!?」


 ……いくらなんでも、それは率直過ぎやしないか。

 その場にいた警官全員が思ったが、丹波は大真面目である。部隊の先頭に立ち、腕組みをしてむんと背筋を伸ばしていた。

 対する戸田は、少しためらったものの拡声器を拾い上げた。そして、スイッチを確認してそれを口に当てる。


「……あなた方に要求などありませんよ、丹波刑事」


 一言一言を放り捨てるように、戸田は言う。


「強いて言うなら、彼――帆沼呉一が新たな世界を作るまで、そこで待機していただきたい。それだけです」

「新たな世界を……作る?」

「はい。彼は今、新しい物語を構築しようとしています。そして彼の物語は、僕たち読者にとって世界そのものに他ならない」

「……」

「……あの人は、天才です。僕らのような、当たり前の現実で生きていくには弱過ぎる人間に、物語という答えをくれる」


 彼は、再びナイフを持つ手に力を込めた。


「――僕の命は、彼の世界でのみ生きられる。だから彼の世界を守れるなら、僕はここで命を捨てても構わないんです」

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