必要は法など知らぬ
モースコゥヴ王宮は、暖かい春がやってきたことで、暖房の結界も解除され、風に漂う草花の香りを楽しむことができていた。
麗らかな春。それはまるでこの世界が幸せで形作られているように思えてくるようにも思えてくる。
――しかし。
親衛隊は今、密かに緊迫をしていた。
親衛隊の騎士であるクリアーナは、普段の冷静な表情を変えていなかったが、その口から聞かされた内容に、若い親衛隊のユーリは目を丸くしていた。
「……本当なのですか?」
ユーリの声色は、疑いの色より、驚愕と戸惑いに滲んでいた。信じられないという顔をするユーリに対し、クリアーナは表情を変えず、否定も肯定もしない。
「まだ、はっきりとしたわけではない。妙な動きがある、という情報だけだ」
「まさか……。姫様には……?」
「報告は控えている。真偽を確かめてから、報告をしたい」
「そうですね……」
ユーリも、小さく頷き、クリアーナの言葉をどうにか飲み込もうとしていた。
実際のところ、声を大にして叫びたいほどだった。クリアーナの語ったその話の真相を何かの間違いであればいいとすら願ってしまっていた。
「カミツレ隊へのレジスタンス組織などと……姫様に聞かせたくはありませんね」
「……情報はまだ憶測の域を出てない。何かそういう抵抗組織の存在を示す明確な証拠でもあれば話は別だが……現状は不測の事態が発生しないように、警戒を強めるしかできないな」
「…………」
クリアーナの語ったその情報に、ユーリは彼女ほど冷静でいられない状況にあった。
(レイラ……!)
ユーリの幼馴染であり、恋人であるレイラは、カミツレ隊に出向している。
彼女は遠く離れた辺境の地で、今、まさにカミツレ隊として仕事を始めようとしているのだ。
彼女とは毎晩、短いながらも連絡を取り合っていた。その一日の終わりと、始まりに行われる秘密の交信は、ユーリにとっても、心を安らげてくれるひと時になっていた。
愛らしいレイラの声を思い出しながら、彼女のくれた魔器の振動を感じ取っていると、心臓が制御できないほどに高鳴って、そして、切なくて苦しくなっていた。
レイラを抱きたいと毎日思いながら、彼女の無事を確認するために、おはようとおやすみを伝える。
どれだけ幽かな欠片でも、レイラが送ってくれた想いを塵の一つさえ拾いたくて、ユーリは肌身離さず、念話の魔器を懐にしまい込んでいる。
今もそうだ。
今この瞬間でさえ、ユーリはレイラからの振動を待ち焦がれていた。
(レイラ……なぜ、何も送ってこないんだ)
先日、レイラからの交信が途絶えた。徐々にレイラとのやり取りが難しくなってきているとは思っていたが、完全に魔器の念話が遮断されるとは思っていなかった。
ユーリは、もしやレイラの身に何か遭ったのではないかと嫌な想像をしてしまって、昨晩はまともに寝付けなかったのだ。
そして、今朝、クリアーナから、重要な話があると親衛隊の詰め所でカミツレ隊への抵抗勢力の動きがあると聞かされたのだ。
ユーリは、今すぐにでも、レイラの元に駆けだしたい気持ちにかられ、我を忘れそうになるのをグっと堪えていた。
(ここで感情的に飛び出しては……、以前と何も変わらない……)
ユーリは、奥歯をぎり、と噛みしめ、自制した。
レイラとのやりとりが胸をかすめ、踏みとどまった。彼女は、立派な魔法使いになるために、がんばりたいと言っていた。いつまでも守られるだけの幼馴染ではなく、ユーリの恋人として、堂々と傍に居られるように、と。
だから、ユーリも誓ったのだ。
親衛隊騎士として、気高くありたいと。
(レイラ……! せめて、一言でも届けられたなら……)
妖しい雲行きを感じ取り、カミツレ隊に何らかの脅威が迫っているのだとしたら、それをレイラに伝えてやりたい。それがこの魔器があればできると思ったのに、その手段も今は使えない。
「ユーリ。分かっていると思うが、我らは姫の親衛隊だ。カミツレ隊に危険が迫っているからと、姫の傍を離れることはできない」
釘を刺すようなクリアーナの言葉に、ユーリは「はい」と、努めて冷静に答えた。
「……もし、カミツレ隊に対して反対するような組織が形成されているとしたら、それは姫に対しての反逆行動に移る可能性さえある。我らは姫の警備を強化しなくてはならない。……分かるな」
「はい」
クリアーナの冷たい視線に、ユーリは背筋を伸ばし、神妙に肯定する。
そんなユーリを、クリアーナは暫し、じっと見ていた。
「……成長したな、ユーリ」
「いえ。信頼しているのです」
「……信頼?」
「はい。カミツレ隊をです。仮に何かあったとしても、彼らなら乗り越えられると、私は信じています」
「その通りだな」
カミツレ隊には、レイラがいる。レイラは、儚くて、泣き虫で、弱々しい女の子だと、少し前まで思っていた。
しかし、今は違う。レイラはもう小さな少女ではない。一人の女性として、歩き出しているのだ。その姿勢をユーリは誇りに思っている。
気弱なようで、しっかりしたものを、きちんと持っている。
それに、レイラの周りには頼りになる魔術師もいる。
隊長のアントンは、部下に対して強い責任感を持っているし、自分の身を犠牲にしても若い魔術師を支えようとする男だ。
副隊長のベラは、レイラのことを随分と可愛がってくれている様子だった。あのような女性の魔術師が居れば、レイラも身を任せやすいだろう。
そして、レイラの相棒のレオンという魔術師もまた、強い意思を持った男だと、ユーリは認めている。ユーリが出来ない、レイラを護るという男の役割を、彼なら任せられると、そう思った。
人知れず、彼と誓い合った時、レオンもまた、ユーリに言ったのだ。
姫様を、お願いしますと。
その眼に、ユーリは信頼を持った。彼は、信用に足るべき人物だと。
ろくに会話をした仲ではないが、男同士の熱い気持ちのぶつかり合いが、互いに奇妙な友情関係を築かせたみたいだった。
「姫の警備強化を進める。それから、カミツレ隊へのきな臭さは、私に任せておけ。……私とて、カミツレ隊は気に入っているのだ」
「お願いします」
クリアーナの冷たい仮面のような表情が少しだけ、緩んだ。
レイラへの不安は、拭いきれないものだが、それでも、ユーリは信じることを決めた。
「私は、姫の傍に就きます」
「頼むよ。ユーリ」
ユーリはそう言い、真紅のマントをなびかせ、親衛隊の詰め所から、アナスタシアの警護へと向かう。
クリアーナは、一人、部屋に残り、その背を見送った。
「……今、姫様が最も傍に居て欲しいのは、お前しかいないのだ。ユーリ……」
クリアーナは、小さくそう零した。
クリアーナはユーリの事情を知っている。ユーリの恋人が、カミツレ隊に参加していることを知っている。
赤毛の魔術師。眼鏡の小さな少女、レイラのことを。
きっとユーリは気が気ではないはずだ。
それでも、ユーリはこの場から離れることは許されない。それは親衛隊の役割もあるが、クリアーナは、何よりも優先するべく想いがあった。
「すまない。ユーリ」
アナスタシアのためにも、ユーリは姫の傍にできる限り居てほしかったのだ。
クリアーナは知っていた。
アナスタシア姫の慕情のことも――。
その気持ちが報われることがないと、アナスタシア自身が覚悟をしようとしていることも。
クリアーナは、アナスタシアが幼い頃から、教育係も兼ねて、ずっと傍に居続けた妹のような存在でもある。
だから、分かってしまうのだ。アナスタシアの、ユーリに対する想いも。
その想いは、諦めなくてはならないと自覚していることも。
生まれてすぐに母である王妃を失い、アナスタシアは幼いながらに健気に国政に参加して、政略結婚とも言える婚約に頷いた。
そんなアナスタシアの味方で居続けたいと、クリアーナは一人、誓っている。
いずれ、アナスタシアは、この国を発ち、隣国へと嫁ぎに行く。
せめてそれまで、ユーリにはできるだけ傍に居てあげて欲しいと願わずにいられないのだ。
(親衛隊が、私情を挟むのは、言語道断――)
そんなクリアーナのこの気持ちは、私情になるのだろうか。それとも親衛隊として、姫への敬愛から来るものだろうか。
(私は、姫の味方でありたいのだ。ユーリ……レイラ……)
それが姫にとっていいことなのかどうかは、クリアーナには推し量れない。アナスタシアがユーリを求めているのなら、今はユーリを傍に就けることが、クリアーナにできることだった。
報われない恋だとしても――。
いや、報われずとも、恋をしていることが、アナスタシアには大切なのではないだろうかと、思ってしまう。
仮面のようなクリアーナの、その時の瞳は、雪解けの小川のようにきらきらと揺れていた。




