手の中のスズメ
住み慣れた王都を発ち、愛する人と離れ離れになって五日が過ぎた。
レイラ・アラ・ベリャブスカヤは、旅慣れていないことから、貧血気味の青白い顔を、もはや紫に変えてしまうほどに疲弊していた。
一夜を過ごすために立ち寄った街の宿屋の一室で、ベッドに横たわりふらつく身体を休めていたが、思った以上に肉体と精神に疲労が現れていた。
「うぅ」
情けない。国を代表する魔術師として、カミツレ隊に加わり立派なお勤めをしようと意気込んでいた気力も、まだ現地に到達してもいないのに落ち込んでいた。
これで本当に、想い人であるユーリとのつながりなかったら、レイラは完全に泣きごとを言っていたことだろう。
「……ユーリ」
しかし、レイラは遠く離れたモースコゥヴ王都にいるユーリと繋がっていられる『魔器』を持っていた。
念話魔法の試作品として作った薄い金属板。それは、遠く離れたユーリと連絡を取り合える唯一の手段だ。
毎晩、ユーリとレイラは二人だけに通じる合言葉を、魔器の振動音に乗せて伝いあっていた。
レイラは脇に置いていた眼鏡をちらりと見て、二人だけの合言葉が変わったのだと切なくも思った。
ユーリと会えていた頃の二人の合言葉は、レイラの眼鏡を、ユーリが取ること。
それは、キスをしようという合図で、レイラは眼鏡をユーリに奪われる度、ドキドキと小さな胸が熱く高鳴ってしまうほどだった。
(今は、ユーリに逢えないけど……)
レイラはそっと試作型の念話魔器を取り出し、両手で愛おしそうに包み瞼を閉じる。
これが小さな振動を送って来た時、ユーリが振動を暗号に乗せて愛の囁きを伝えてくれる……。
それが、辛い遠征のなかで力を与えてくれるものになっていた。
ジジジ・ジー・ジジ……。
耳障りな雑音じみた振動が掌の中で儚く震える。
ユーリからの『声』だった。
こうしてユーリと毎晩やりとりをするようになってから分かったが、一度に送れる振動の音は短いもので、せいぜい『単語』を送る程度しかできないと分かった。
そして、念話のやりとりをするのは、二人の距離が離れれば離れる程、時差と遅延が発生することもわかった。
今、レイラの手の中で震える金属板の暗号も、ユーリが数分前に送ったものになる。
送られてきた言葉は、とても短い。
『レイラ』という自分の名前だった。
それでもレイラには、その短くも頼りない信号が、心の支えであり、活きる糧になっていたと言っても過言ではない。
レイラは、ユーリに、すぐ返信する。
『ユーリ』、と。
名前を呼び合うだけで、胸が熱くなった。
そして、同時に切なく、胸を締め付ける。
これが今の二人を繋いでいるものだ。とても細く、千切れてしまいそうな糸で結び合っている。
だからこそ、その糸が、何よりも大切で、レイラはユーリの名前を振動に乗せて届ける時、自分の中にある抱えきれない沢山の気持ちを魔法に伝えていた。
(きちんと、伝わってるかな……ユーリ)
ユーリから、短い念話が届いてきて、自分がどれほど嬉しいか。どれほど、恋しいか。
そして、こんなにも切ないか――。
瞼を下ろし、ユーリの送った振動を全身で受け止めるようにしてレイラは身体の中心でその幽かな振動を感じる。
そして、ユーリの顔や声、体温を思い出しながら、彼の名をそっと呟く。
好きだとか、愛しているとか。
お早うとか、おやすみをやり取りして、その度レイラは言葉を飲み込む。
『逢いたい』というその言葉を。
逢いたい、そうユーリに言ってしまうことだけは、レイラは意識的に避けていた。
そう伝えたところで、逢うことはできない。この不出来な魔器は、耳障りな振動音でしか言葉を送ってくれない。
『逢いたい』という言葉だけを受けたユーリは、レイラの傍に居てやれないことを申し訳なく思うことだろう。
それは、レイラも同じだから。
だから、自然と二人の間には、その言葉を伝えることが禁忌のようになった。
(逢いたい……、ユーリ……)
ほんのりと温かい振動を伝えてくる魔器は、ユーリからの言葉がまた送られて来た。
『元気か?』
『とっても元気』
すぐにそう返した。
本当は、長旅でよれよれなのに、レイラはユーリに心配をさせたくないと念話を送った。
きついとか、大変だとか、泣き言を伝えたくない。
ユーリだって、頑張っているし、そんなユーリに相応しい女性に憧れるレイラは、こんなことで愚痴を零していられない。
(……ほんとだよ。だって、ユーリとこうしてやりとりしていると、元気になるもん)
失敗作だと諦めていた魔器を作って本当に良かった。
何もしていなかったら、こんな幸せすら手にすることができなかったのだから。
きっと、努力は報われる。この大変な遠征だって、やり遂げれば必ず、実りになるはずだと思わせてくれる。
(ユーリ……、大好き……)
ありったけのその気持ちを指先に乗せ、レイラは魔器の金属板をなぞった。
『好きだよ』
なんて短く、単純な言葉だろう。
こんな幽かな振動ではとても伝えきれない。
でも、それが試作念話魔法の限界で、レイラは木枯らしのような吐息を零してしまった。
振動が、来た。金属板を抱きしめる胸を愛撫するように、短く暖かい振動が。
ジジ。
とても短いその振動は、ユーリが作ってくれた暗号にない、言葉になっていない振動だった。
(……?)
レイラは、なんの振動だったのだろうと、はたと閉じていた瞳を開け疑問に思った。
金属板に触れることで振動を発信するその魔器は、長音と単音で言葉を組み立てる暗号をユーリが作ってくれた。
しかし、今、ユーリから送られて来たその振動はあまりにも短く、言葉として組み立てられていない。
ただ、そっと金属板に触れただけ、そんな振動だった。
『なんて言ったの?』
レイラはそう返信を飛ばした。ユーリの言葉の欠片さえ恋しくて、全てを知りたくて仕方なかったのだ。
しかし、そこから暫し返事は途絶えた。
レイラがもどかしさを感じながらもう一度訊ねようかなと、金属板に念話を送ろうとした時。
その魔器がまた振動を伝えた。今度は、きちんと、言葉になっていた。
『キス、した』
そう振動は伝えていた。
レイラは、一瞬きょとんとなって、その言葉の意味に戸惑った。
――そして、胸をくすぐった甘ったるい振動の短さの正体がなんだったのか、理解して、真っ赤になる。
ユーリは、魔器の金属板に、唇を寄せたのだろう。
レイラから送った『好き』の合図に、ユーリは言葉を彷徨わせ、文字を振動で暗号で送っても、その想いの大きさを伝えられずに悶えたのだ。
そして、彼は、レイラの念話に、キスで応えたということだろう。
(ユ、ユーリ……! うぅううっ! そんなのずるい! ユーリ、ずるいよ……)
キスを、振動で送ってくるなんて。
どうしようもなく切なく疼く心へ、そっと心地よく届いた微弱な振動の正体に、レイラは身体をぎゅうっと丸めてユーリの『声』を抱きしめた。
『オレにも欲しい』
続いて、ユーリからそんなおねだりが来て、レイラは目玉をぐりぐりさせて耳の穴から蒸気でも出さん勢いに熱が上がる。
魔器に、くちづけを。
そんなユーリからのおねだりが、また、可愛くて、愛しくて、恋しくて、やっぱりずるいと思った。
恥ずかしいけれど。
それがなんだかとても胸を高鳴らせてくれる。
「ユーリ……」
レイラはまじまじと金属板を見つめた。
なんの装飾もしていない、単なる魔器の試作品。その姿はただの道具に過ぎないが、念話の向こう側には確かに愛しい人が待っている。
それはレイラが思い描いていた念話魔法の本来の姿で間違いなく、レイラはユーリへの愛情を伝えたくて――。
ちゅ、と、少しだけ戸惑いながら、唇を付けた。
「レイラー?」
「ひゃぁい!?」
と、がちゃんと部屋のドアが開き、友人であり、先輩にあたる赤毛の魔術師、ベラが入室してきた。
「な、なに、素っ頓狂な声だして……」
「い、いえ。あはは! なんでもないです……」
真っ赤になった顔を必死に誤魔化して、魔器を懐に隠すと、レイラは引きつった笑顔でベラにペコペコと頭を下げた。
挙動不審なレイラに、ベラは怪訝な顔をしていたが、その手に持っていた薬を見せてにっこりと笑う。
「参ってるかと思って、薬貰って来たけど、平気?」
「あ、ありがとうございます」
長旅でレイラが参ってしまっていることを案じて薬をもって来てくれたベラに、レイラはまだどこかぎこちなく礼を述べる。
「明日からは、旅もマシになると思うから、もうちょっとの辛抱よ」
気遣うようにベラが言ってくれた。
「な、なにかあるんですか?」
「大商連の大富豪が力添えしてくれることになってね。明日からは立派な馬車に乗れるから、この腰とお尻の痛みともおさらばできるわよ」
「そ、そうなんですね、良かったです」
ユーリとのことをばれないように、レイラはベラの話に乗っかって、うんうんとわざとらしいほどに頷いて見せた。
立派な馬車を用意してもらえるなら、旅も快適になることだろう。
「それから、明日の朝、カミツレ隊に加わる騎士の挨拶があるから集合に遅れないようにね」
「ハ、ハイ」
「じゃ、お大事に」
そう言うと、ベラはレイラを安静にさせるためか、すぐに退室していった。
ベラが置いて行ってくれた薬を確認しながら、レイラはまだドキドキと脈打っている心臓を落ち着かせようと、置いていた眼鏡をかけ、薬を飲むための水を用意する。
(騎士が……カミツレ隊に加わるんだ)
カミツレ隊は、その正式名称を『多目的共同開発隊』と銘打っているため、多くの視野を取り入れる部隊になる。
そのため、騎士や錬金術師なども隊に加わってくる予定になっていた。
その騎士の人員がやってくるということだろう。
その騎士がユーリだったら、と思ってしまうが、そんなことはあり得ない。
ユーリは姫就きの親衛隊で、王都から離れることなどないだろう。
新進気鋭のカミツレ隊に配属された騎士が、レイラの苦手な巨漢で荒々しい男性でなければいいなと、独り言ち、レイラは薬を飲み干す。
ペトロツクまでまだ道はある。
カミツレ隊として、レイラは喉を通る冷たい水に背筋を伸ばした。




