21 前世の記憶
ベアトリクスさんがこちらに気を取られた僅かな隙を見て
シンシアが手を振りほどき、こちらに駆け寄って来た。
「クラリス!」
「大丈夫ですよ。怖かったですよね。…もう絶対、この手を放しませんから」
わたしはそう言ってシンシアを抱き留めてあげると
目を潤ませながら苦しいと思うほど強く抱きしめ返してきた。
けれど、わたしはまだ安心はできなかった。
周囲にはいつの間にかベアトリクスさんと同じデザインの白いローブを
目深に纏った十五人程の人々が、まばらにこちらの様子を伺って居る。
どの人もわたしよりも圧倒的な魔力を持っている。
おそらく潜んでいた塔の人々なのだろう。
「私の睡眠魔法からこんなに早く抜け出すなんて、驚きました。
さすが公爵家のご令嬢ですね」
ベアトリクスさんはシンシアを逃しても慌てた様子はなく
こちらをじっと見つめながら、静かに語り掛けて来る。
「…随分手荒な事をするんですね」
「塔の方針なのです。無駄な時間をかけるな。
躊躇わず魔法を使い速やかに任務を達成せよ、とね」
彼女は自分自身も不本意である、とでも言いたそうに溜息をついた。
「領内で無断で攻撃魔法を行使し、わたしの大事な友人に危害を与えるような人達に
シンシアを引き渡す事は出来ません。
どうか、このままお引き取り頂けないでしょうか?」
「残念ですが、こちらも王命にも等しい塔からの命で動いています。
何も持たずに帰るという訳にはいかないのです」
ベアトリクスさんの言葉に応じる様に、周囲の白いローブの人々がわたし達を取り囲んでいく。
屋敷の方からレクが飛び降りて来る気配はない。
抱きしめているシンシアは、まだ顔を真っ青にして震えている。
わたしが、この状況を何とかしなければいけないのだ。
ゆっくりと大きく深呼吸したあと、意を決してベアトリクスさんに語り掛ける。
「シンシアは引き渡せません。
…これ以上近づくのなら、わたしがお相手いたします」
「その重力魔法で、ですか」
「わたしのこの魔法が、何か知っているのですか?」
「先ほど私が受けた魔法は拘束魔法や幻覚魔法にも無い特徴がありました。
なら重量魔法と推察するのはそんな特別なことではありません。
何せ、予言されていた魔法ですから」
「…予言?」
「240年前、アインハルト・ヒックスという元素魔法学の研究者が、
重力も力の一種ならその属性を持つ魔法使いが現れるだろうと予言しました。
けれど、誰一人として現れる事は無かった。
重力というものがどんな現象なのか、理解する事が誰にも出来なかったので
発見する手だてが無い、というのが理由だと言われています」
「…なるほど」
わたしも前世の記憶が蘇る前は、ちょっと特殊な風魔法としてしか考えてなかったので
今までもそういう人達が沢山居たのかもしれない。
「クラリスさん、あなたはその魔法がどんなものなのか理解しているのですね。
とても興味深いですし強力な事は分かります。
けどその正体さえ分かれば対処出来ないわけではありませんよ。
…貴族のご令嬢にお怪我をさせたくはありません」
「…そうでしょうね。でも、シンシアを渡すくらいなら
傷だらけになってでも戦った方がマシです」
シンシアを抱き留めながら、わたしがそう答えると
ベアトリクスさんが目を細めた。
「クラリスさんは、お優しいんですね。
お二人の関係が羨ましいです」
「えっ?」
彼女が片手を上げると
それに反応するように周囲の白いローブの人々が一斉にこちらに襲い掛かって来た。
不意に、あんたの戦い今はここから始まるんだ
という昨日のレクの言葉が頭のなかに浮かんでくる。
戦いはもう始まっている。
でも、戦うという事は相手を傷つけるという事だ。
相手がレクなら、全て避け切るという確信があったし
なによりもあくまでも訓練だったから全力を出せた。
けれど、これは実戦なのだ。
相手を傷つけ否定し、自分の意見を押し通す覚悟をしなければならないのだ。
その覚悟が出来ないまま、わたしは反射的に魔法を繰り出していた。
「風よ、吹きすさべ!」
先手を打ってわたしが魔法を唱えると、周囲を穏やかな風が取り囲む。
白いローブの人々は、一瞬警戒して足を止めるけれど、
ただの風だと気づいたのか気を取り直して
わたしたちを取り押さえるべく、取り囲んでいる風の中に足を踏み入れた。
その瞬間、彼らの意識は途切れた。
「なっ…!?」
襲い掛かった五人が一斉に地に伏したのをみて
思わず声が出たベアトリクスさん達が
慌てて距離を取る。
けれど、わたしは既に魔法を発動済みだ。
こちらの行動の方が圧倒的に早い。
風を操作して、残りの人々の意識も刈り取っていく。
とても繊細な魔法操作ではあったけれど
自分を風属性だと思っていたわたしは以前から風魔法を中心に学んできたし、
更にヘザーさんの元で魔力操作を学んだわたしには
対して難しい魔法ではなかった。
魔力消費も、そよ風をおこす程度のものなので
驚くほど少ない。
昨日のレクとの戦いでも使った、
空気の一部の成分だけを風で飛ばし、
高濃度の窒素ガスを作るという魔法は
白の塔の人々にも、完璧に効果を発揮した。
高濃度の窒素ガスを吸うと、一呼吸で人は失神する。
知識の上では知っていた。
けれど実際にこの目で見ると、ここまで恐ろしい光景になるとは思わなかった。
行使した魔法で人々が何の抵抗も、叫び声さえ無く
人形の糸がぷつんと切れる様に静かに意識を失っていく。
わたしたちの目の前には、ピクリとも動かない人々の身体がいたるところに転がっていて
濃い霧も相まって、まるで悪夢の中にいるような気分だった。
ゆっくりと、わたしの中に実感が湧いていく。
…わたしは、この世界で初めて毒ガス戦を行ったのだ。
自分の手が、どす黒く染まっていくような感覚を覚え
シンシアが誘拐されかけ熱くなっていた頭が、急に冷めて行く。
こんな事をして良かったのだろうか?
ただ目の前の事を解決する為に、何も考えずにこの力と前世の知識を行使して
本当に大丈夫なのだろうか?
「一体何をされたのですか?
この風は状態異常防御も、魔法防御も全く作用していない。
…こんなの、魔法じゃない」
一人残されたベアトリクスさんが辺りに倒れた人の山を見て、愕然とした表情で語り掛けてきた。
「そんなに強力な魔法ではないので、すぐに救護処置を施せば危険はありません。
どうか…退いては頂けないでしょうか」
落ち着き払った口調でわたしは語り掛けるけれど、
内心はかなり焦っていた。
詠唱なしで暗闇魔法を放ち、重力魔法を看破した様な彼女なら恐らくすぐに
この窒素ガス精製魔法の対処方法を思いつくだろう。
不意打ちで無ければこの状況に持ち込めたか分からない。
レクの忠告を聞いていて良かった。
…こちらも不意打ちを突かれて危うくシンシアを攫われそうになってしまったけれど。
ベアトリクスさんが返答するべく口を開いた瞬間、
レクが空から落ちてきた。
その体は何故か傷だらけだ。
「レッレク!一体どこから現れたの!?」
「クラリス!ヤツだ!!」
レクが倒れている人々の方向を指す。
その途端、黒い何かがベシャっと落ちてきた。
驚いて落ちてきた場所を凝視すると、黒い水たまりからゆっくりと黒い人型の何かが形作られていく。
「影の魔物…」
それはわたしの左腕を切り落としシンシアを殺そうとしたあの影の魔物だった。
わたしの怒りの感情に反応して、虚空剣が活性化し禍々しい魔力を帯びていく。
「あっあれは、一体何なのですか?」
わたしが即座に臨戦態勢に入ったのを見て、ベアトリクスさんが戸惑ったように声をかけてきた。
「…一応聞きますけれど、ベアトリクスさんがあの魔物を呼んだのではないんですよね?」
「え、ええ」
「なら、一時的にでも良いので加勢してください!」
ベアトリクスさんは同意するようにコクコクと頷いた。
「…何か勘違いしているようだが」
影の魔物がゆっくりとした口調で会話に入って来た。
「わたしは今、戦う気はないのだよ。
少し君と、クラリスと話がしたくてね。そこの彼に少し邪魔をされてしまったが」
「話?…前は一方的に殺そうとしてきたのに
随分心変わりしたのですね。良心にでも目覚めましたか?」
「良心なら、ずっと持っているさ。
私は、人に正しく歴史を歩んで欲しいだけなのだ。
お前はただシンシアを助けただけと思っているかもしれない。
だが、それは破滅を止める手段を失ってしまう」
「シンシアがそんな重要な役割を担っていると?そんな言葉、信じると思いますか?」
「……思い出せ。
因果の外から来たお前なら知っているはずだ。
シンシアが死んだ後の未来を。
シンシアが死ななければいけない理由を」
魔物は、ゆっくりと、言い聞かせる様にわたしに話しかけて来る。
「……未来にこの国で、いやこの地で何が起こるのかを」
その言葉で、わたしは全てを思い出した。
今まで薄い霧の中に居る様にぼんやりとしていた
前世の記憶が、凄まじく鮮明な輪郭を持って溢れ出て来る。
前世での名前、死んだ理由、やり残した夢
そして、この世界と瓜二つの前世で遊んだゲームの細かい内容が。
前世で遊んだゲーム
いや、正式な名前は
”サールベルグの錬金術師”というゲームの中で
隣国のアナヴァスト帝国との間で戦争が勃発する。
そのイベントが起こった時、ある一枚のイラストが表示される。
そこには鉄兜を被り銃を持った兵士たちが
砲撃が雨の様に降り注ぐ中、塹壕から飛び出していく姿が映されている。
前世のわたしはそのイラストを見ても、
戦争が起こった事を端的に
分かりやすく説明する描写なのだろうと思い
特に気にすることは無かった。
けれど、この世界で生きて来たわたしは知っている。
帝国との戦争をして来た、辺境伯の娘であるわたしは知っている。
…そんな戦い方は、この世界に存在しない。
そんな先進的な帝国軍の攻撃を受けた王国側は
ひとたまりもなかったのだろう。
侵略された領地の軍隊は、領主もろとも全滅する事になる。
その一報を学園で聞いた領主の娘が泣き崩れるのを、
主人公のソニアが憐憫の眼差しを送るシーンがある。
名前すら無い、たった一行にしか登場しない可哀想な少女。
…それが、未来のわたしの姿だ。
ゲームでは、どんなルートでも戦争は起こった。
しかも突然始まったその戦いは、作中ではきっかけさえ明らかにされていない。
…それは、未来を知っていても止める手だてが無いという事だ。
前世の記憶が蘇ってからずっと運命に抗う為に頑張って来たつもりだった。
でも、そんな事は全て無駄だった。無意味だったのだ。
記憶が完全に蘇った今、わたしはようやくそれを理解した。
わたしは絶望に全身の力が抜けて、思わず膝をついてしまう。
シンシアが隣で何か声をかけてくれているのに
全く耳に入ってこない。
それなのに、魔物の声だけはハッキリと聞こえて来る。
「思い出してくれたようだな」
「……なぜ、何故それがシンシアの死の必然へと繋がるのですか」
「まだ思い出せないのか?それとも知らないだけか?」
絞り出すようにして出したわたしの問いに、
魔物は嘲笑うかのような声色で語り掛けて来る。
「知り…ません。だって、だって戦争が起こった時、既にシンシアは」
「そのシンシアの遺灰を使った儀式魔法で
この国が戦争に勝利するからだ」




