第9話「南からの黒い風」
楽しい外出から戻り、心地よい疲れと共に城の門をくぐった私たちを出迎えたのは、険しい顔をした家令だった。
「陛下、一大事です」
その一言で、ガルドのまとっていた柔らかい空気が一瞬にして消え失せた。
彼は私の手を離し、王の顔に戻った。
「何があった」
「サウス国より、使者が参っております。緊急の用件があるとかで、謁見の間でお待ちです」
サウスからの使者。
その言葉を聞いた瞬間、私の背筋に冷たいものが走った。
故国からの連絡。
それは、私にとって吉報であるはずがない。
父や兄たちが、私の安否を気遣ってくれるはずなどないのだから。
「リアン、お前は部屋に戻っていろ」
ガルドが私を制した。
「い、いえ、私も行きます。私の国のことです、私が同席しないわけには……」
「ならん」
強い拒絶だった。
「嫌な予感がする。お前は関わるな」
「でも……!」
「マリア! リアンを部屋へ連れて行け!」
彼の命令は絶対だった。
マリアが申し訳なさそうに私に近づき、背中を押した。
私は後ろ髪を引かれる思いで、遠ざかるガルドの背中を見つめるしかなかった。
部屋に戻った私は、落ち着かずに歩き回っていた。
何が起きているのか。
和平条約の破棄?
それとも、新たな要求?
窓の外を見ると、城門の前に、見慣れたサウスの紋章を掲げた馬車が停まっているのが見えた。
胸騒ぎが止まらない。
しばらくして、廊下から足音が聞こえてきた。
マリアだ。
彼女は青ざめた顔で部屋に入ってきた。
「リアン殿下……」
「マリア、何があったの? 陛下は?」
私が詰め寄ると、マリアは言い淀み、視線を落とした。
「陛下は……激怒されています。今にも使者を斬り捨てんばかりの勢いで……」
「何と言われたのですか」
「……サウス王からの書状には、こうありました。『役立たずのオメガを送ってしまい申し訳ない。代わりの品として、宝石と美女を送る。そのオメガは処分して構わない』と」
頭の中が真っ白になった。
処分して構わない。
実の父からの言葉。
覚悟はしていたつもりだった。
自分は道具だと、生贄だと。
けれど、改めて文字にされたその言葉の刃は、あまりに鋭く、深く私の心をえぐった。
私は、やはり捨てられたのだ。
北国での生活で、少しでも「人間」になれたような気がしていたのは、ただの幻想だった。
ガルドの優しさに触れて、舞い上がっていただけだ。
私は、どこまでいっても、誰からも必要とされない「出来損ない」なのだ。
膝から崩れ落ちそうになった私を、マリアが支えた。
「殿下、聞いてください! 陛下は、その書状をその場で引き裂きました!」
「え……?」
「『ふざけるな』と。『リアンはモノではない。余の伴侶だ。貴様らの薄汚い宝石など、リアンの髪一本の価値もない』と、使者を怒鳴りつけたのです!」
マリアの声が熱を帯びる。
「陛下は、殿下を守ろうとしています。国交断絶も辞さない覚悟で」
ガルドが、私を?
伴侶だと、言ったのか。
私なんかのために、国を危険に晒してまで。
嬉しい。
涙が出るほど嬉しい。
けれど、同時に、恐怖がこみ上げてきた。
私のせいで、戦争になるかもしれない。
あの優しい街の人々が、戦火に巻き込まれるかもしれない。
ガルドが、また傷つくかもしれない。
私がいるだけで、彼は不幸になる。
私が「処分」されれば、全て丸く収まるのではないか。
暗い思考が渦を巻く。
その時、廊下で大きな物音がした。
扉が乱暴に開かれ、ガルドが入ってきた。
彼は肩で息をし、目は血走っていた。
その手には、まだ引き裂かれた書状の切れ端が握られている。
「リアン!」
彼は私を見つけると、大股で近づき、いきなり私を抱きしめた。
強い力。
骨が痛むほどに。
「……誰にも、渡さん」
耳元で、唸るような声がした。
「お前は俺のものだ。サウスの王が何と言おうと、神が何と言おうと、絶対に手放さん」
彼の体は震えていた。
怒りと、そして失うことへの恐怖で。
私は彼の背中に手を回し、しがみついた。
この人の腕の中は、こんなにも温かい。
けれど、この温もりが、私のせいで冷たい骸になってしまうとしたら。
「陛下……」
私は、何を言えばいいのか分からなかった。
ただ涙が溢れて、彼の軍服を濡らすことしかできなかった。
南からの黒い風は、ようやく芽吹き始めた私たちの愛の苗を、無慈悲にも踏み潰そうとしていた。
私たちはまだ、その嵐の中でどう立っていればいいのか、答えを見つけられずにいた。




