第8話「城壁の外の世界」
その日の午後、私はガルド王の執務室に呼び出された。
マリアが迎えに来てくれたのだが、彼女の表情はどこか楽しげで、いたずらを企む子供のようだった。
「陛下がお呼びです、リアン殿下。今日は少し、準備運動をしておいた方がいいかもしれませんよ」
「準備運動……?」
意味が分からず首をかしげながら、私は重厚な扉をくぐった。
執務室では、ガルド王が書類の山と格闘していた。
眉間に深いしわを寄せ、ペンを武器のように握りしめている姿は、戦場にいる時よりも険しいかもしれない。
私が部屋に入ると、彼はパッと顔を上げ、救世主を見たかのような表情をした。
「来たか」
彼はペンを放り出し、立ち上がった。
その格好を見て、私は目を丸くした。
いつもの軍服や、王としての正装ではない。
地味な色の厚手のコートに、毛皮の帽子、そして首にはマフラーをぐるぐると巻いている。
まるで、街の猟師か、商人のような恰好だ。
「へ、陛下? そのお姿は……」
「ガルドでいい」
彼は帽子を目深にかぶり直し、私の前にも同じような外套を差し出した。
「お前も着ろ。これから出かけるぞ」
「出かけるって……どこへ?」
「街だ。城にばかりいては気が詰まるだろう。それに……俺も少し、息抜きがしたい」
街へ。
私は驚きと期待で胸が高鳴った。
人質として来て以来、城の外へ出ることなど許されないと思っていたからだ。
マリアの手伝いで変装を済ませると、私たちは裏門からこっそりと城を抜け出した。
護衛はマリア一人だけ。
それも、少し離れた場所から見守るという、ほとんど二人きりの外出だ。
一歩、街へ足を踏み入れると、そこには活気が溢れていた。
サウスの華やかさとは違う、力強い生活の匂い。
石造りの家々の煙突からは白い煙が立ち上り、通りには雪かきをする人々や、厚着をして走り回る子供たちの姿があった。
市場には、見たこともない魚や獣肉、根菜類が山積みにされている。
「すごい……」
私はキョロキョロと辺りを見回した。
寒いけれど、人々の表情は明るい。
厳しい冬を生き抜くための知恵と、互いに助け合う温かさが、街全体に満ちている。
「寒いか?」
隣を歩くガルドが、私を気遣って覗き込んでくる。
変装していても、その巨体と鋭い眼光は隠しきれていないが、街の人々は彼を見ても恐れる様子はなかった。
むしろ、すれ違うたびに軽く会釈をしたり、親しげに手を振ったりしている。
彼らが気づいているのか、いないのかは分からない。
ただ、この街には、王への恐怖ではなく、信頼があるように感じられた。
「平気です。皆、元気そうですね」
「ああ。今年の冬は厳しいが、備蓄は十分だ。誰も飢えさせはしない」
ガルドの言葉には、確固たる自信と責任感が宿っていた。
彼はただの暴君ではない。
民の生活を第一に考え、そのために剣を取り、傷つきながらも国を守ってきた名君なのだ。
私たちは市場を抜け、広場に出た。
そこには屋台が立ち並び、香ばしい匂いが漂っていた。
「腹は減ったか」
ガルドがある屋台の前で足を止めた。
鉄板の上で、肉の串焼きがジュージューと音を立てて焼かれている。
「これ、二つくれ」
彼は無造作に硬貨を放り投げ、店主から熱々の串焼きを受け取った。
一つを私に手渡してくれる。
「食ってみろ。羊の肉だ」
私は恐る恐る口をつけた。
スパイスの効いたタレと、肉の脂が口の中に広がる。
臭みはなく、噛みしめるほどに旨味が溢れてくる。
「……美味しい!」
「だろう。城の料理人が作る上品な味もいいが、こういうのが一番体が温まる」
ガルドは豪快に肉を頬張り、満足げに笑った。
その笑顔を見て、私はまた胸がときめいた。
城にいる時の張り詰めた表情とは違う、リラックスした素顔。
口元についたタレを、親指で拭ってあげたくなる衝動に駆られる。
その時、小さな子供たちが走り寄ってきた。
「あ! 大きいお兄ちゃん!」
「遊んでー!」
子供たちはガルドの足元にまとわりつき、彼のコートを引っ張った。
私は慌てた。
無礼打ちにされるのではないか、と。
しかし、ガルドは怒るどころか、しゃがみ込んで子供たちの目線に合わせ、その大きな手で一人一人の頭を撫でた。
「今日は遊べん。大事な連れがいるんでな」
「えー、つまんない!」
「連れって、この綺麗なお兄ちゃん?」
子供たちが私を見て、キラキラした目を向けた。
「うん、綺麗!」
「お嫁さん?」
その無邪気な質問に、私の顔は一気に沸騰した。
お嫁さん。
否定しなければ。私は男だし、人質だし……。
しかし、ガルドは否定しなかった。
彼はニヤリと笑い、私の方を見て言った。
「……さあな。だが、誰よりも大切な客だ。手出しは無用だぞ」
子供たちはキャッキャと笑いながら去っていった。
残された私たちは、微妙な空気の中で立ち尽くした。
大切な客。
お嫁さんとは言わなかったけれど、否定もしなかった。
それが、今の私たちの距離感なのだろうか。
「……行くぞ」
ガルドが歩き出した。
ふと、私の手に温かいものが触れた。
彼の手だった。
彼は何も言わず、私の手を包み込むように握りしめた。
手袋越しの感触。
けれど、その温もりは心臓までダイレクトに伝わってきた。
私は驚いて彼の顔を見上げたが、彼は前を向いたままだった。
ただ、その耳はやはり赤く染まっている。
私は、握り返した。
強く、ぎゅっと。
彼は一瞬だけ指に力を込め、私の意思に応えてくれた。
雪がちらつき始めた街の中を、私たちは手をつないで歩いた。
王と人質。
アルファとオメガ。
敵国の人間同士。
そんな肩書きなど、この瞬間だけはどうでもよかった。
ただ、隣にいるこの人の温もりが、私にとっての世界の全てだった。
幸せだと思った。
生まれて初めて、私は自分の居場所を見つけたような気がした。
けれど、この穏やかな時間は、城に戻った瞬間に脆くも崩れ去ることになる。




