第7話「凍解の紫花」
窓を開けると、猛吹雪の音が部屋の中に流れ込んできた。
凍てつく風と共に、雪の欠片が舞い込み、床の絨毯を濡らす。
けれど、そんな寒さなど気にならないほど、私の視線は目の前の男に釘付けになっていた。
ガルド王は、バルコニーの手すりを軽々と乗り越え、無言で部屋の中へと入ってきた。
その体躯は、月明かりを背負って巨大な影となり、私を飲み込むような威圧感を放っている。
だが、その手には、不釣り合いなほど可憐な紫色の花が一輪、握られていた。
「へ、陛下……どうして、ここへ?」
私は震える声で尋ねた。
ここは三階だ。
外壁をよじ登ってきたのだろうか。
王たる者が、正規の入り口を使わず、まるで泥棒のように窓から侵入するなんて。
ガルド王は、雪をかぶった黒髪を乱暴に払い、バツが悪そうに視線を逸らした。
その頬は寒さで赤くなっているのか、それとも別の理由なのか、暗がりでは判別できない。
「……警備兵に見つかると、面倒だからだ」
低い声が、言い訳のように響く。
彼は部屋の真ん中まで進むと、濡れたブーツで絨毯を汚すことを気にしたのか、そこで立ち止まった。
そして、持っていた花を、無造作に私の方へ突き出した。
「これを」
「え?」
「やる」
あまりにぶっきらぼうな渡し方だった。
私は戸惑いながら、その花を受け取った。
茎は折れそうに細く、花弁は雪の冷たさを帯びている。
けれど、その中心からは、微かに甘い香りが漂っていた。
「あの温室の花……ですね」
「……そうだ。お前が、気に入っていたようだったから」
ガルド王は、私と目を合わせようとせず、あさっての方向を見ている。
その横顔には、あの大きな傷跡が刻まれているが、今の私にはそれが恐ろしいものには見えなかった。
むしろ、不器用な彼の内面を映し出すかのように、どこか愛おしくさえ感じられた。
「ありがとうございます。でも、こんな夜中に、わざわざ……」
「……昼間は、渡せなかった」
「え?」
「マリアや、他の兵士たちが見ている前では……その、なんだ」
彼は言葉を詰まらせ、太い首筋をガシガシと掻いた。
耳まで赤くなっているのが、はっきりと分かった。
恥ずかしかったのだ。
王としての威厳を保たなければならない彼が、人質のオメガに花を贈るなどという、感傷的な行動を見られるのが。
だから、誰も見ていない夜中に、こっそりと届けに来た。
そのためだけに、この極寒の中を。
私は、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
この人は、なんて不器用で、なんて誠実な人なのだろう。
「それに……」
ガルド王が、さらに小さな声でつぶやいた。
「謝りたかった」
「謝る、ですか?」
「先日の夜……看病してくれたお前を、怒鳴りつけて追い出したことだ」
彼の拳が、強く握りしめられた。
「あれは……取り乱していただけだ。お前を拒絶したかったわけではない。ただ、自分の弱さを……誰かに見られるのが、怖かった」
魔王と恐れられる男の口から出た、「怖い」という言葉。
それは、彼の人間らしさを何よりも雄弁に物語っていた。
彼は常に強くあらねばならない。
国を守る盾として、敵を倒す剣として。
弱みを見せれば、それは即ち死を意味する世界で生きてきたのだ。
そんな彼が、私に対してだけは、その鎧を少しだけ脱いでくれた。
私は花を胸に抱きしめ、一歩彼に近づいた。
「気にしていません、陛下。私の方こそ、出過ぎた真似をして申し訳ありませんでした」
「いや、お前が悪くはない。……助かった。あの夜、お前がいなければ、俺は……」
彼は言葉を切り、深く息を吐いた。
そして、ようやく私と目を合わせた。
金色の瞳が、揺れていた。
そこには、これまで見たことのないような、柔らかな光が宿っていた。
「それから、この部屋のことだが」
彼は部屋を見回し、眉を寄せた。
「気に入らんか?」
「いえ、とても立派なお部屋で……ただ、少し広すぎて、寂しいというか」
「……そうか」
彼は納得したように頷いた。
「前の部屋は狭かっただろう。ここは一番広い。それに、ここなら誰も勝手に入ってこない。静かに過ごせると思ったんだが……配慮が足りなかったか」
私は目を見開いた。
後宮へ移されたのは、私を遠ざけるためではなかった。
むしろ、私を気遣い、より良い環境を与えようとしてくれた結果だったのだ。
ただ、その「気遣い」の方向性が、少しずれていただけ。
孤独を愛する彼にとっての「快適」が、私にとっては「孤独」だっただけなのだ。
なんて、愛おしいすれ違いだろう。
私は思わず、くすりと笑ってしまった。
「陛下」
「なんだ」
「笑って、すみません。ただ……嬉しくて」
「……何がだ」
「陛下が、私のことを考えてくださっていたことが、です。私はてっきり、飽きられて捨てられたのかと思っていました」
「馬鹿な」
ガルド王は即座に否定した。
「飽きるも何も、まだ何も始まっていないだろう。それに……俺は一度懐に入れたものを、そう簡単に手放したりはしない」
その言葉に、心臓が大きく跳ねた。
懐に入れたもの。
それは、私のことを指しているのだろうか。
彼は私の瞳をじっと見つめ、一歩距離を詰めてきた。
近い。
彼の熱が、冷え切った空気を伝って肌に触れる。
「リアン」
初めて、名前を呼ばれた気がした。
低く、甘い響き。
それは命令ではなく、呼びかけだった。
「寒くないか」
「……少し、だけ」
嘘だった。
窓が開いたままだから、体は凍えるように冷たい。
けれど、心だけは、暖炉の火にあたっているかのように熱かった。
ガルド王は無言で窓の方へ歩き、力強くそれを閉めた。
吹雪の音が遮断され、部屋に静寂が戻る。
彼は再び私の前に戻ってくると、大きな手で、私の肩にかかっていたショールを直し、首元までしっかりと包んでくれた。
その手が、ふと私の頬に触れた。
分厚いタコのある、硬い指先。
けれど、そのタッチは驚くほど優しく、壊れ物を扱うようだった。
「……暖かくして寝ろ」
それだけ言い残し、彼は背を向けた。
バルコニーからではなく、今度はちゃんと扉から出て行こうとする背中に、私は声をかけた。
「陛下!」
彼は立ち止まり、振り返った。
「あの……この花、大切にします。枯れても、ずっと」
ガルド王は、一瞬だけ驚いたような顔をし、すぐにふっと小さく笑った。
その笑顔は、顔の傷さえも魅力的に見せるほど、男らしく、そして少年のような無邪気さをはらんでいた。
「……また、持ってくる」
扉が閉まる。
私はその場にへたり込み、胸の花に顔を埋めた。
いい匂い。
そして、彼の匂い。
恐怖の対象だった「魔王」が、今夜、ただの不器用な「ガルド」という一人の男性に変わった。
私は知ってしまったのだ。
凍てつく氷の城壁の内側に、誰よりも熱く、優しい炎が燃えていることを。
この夜、私は初めて、この北国で安らかな眠りにつくことができた。
夢の中で、紫色の花が一面に咲き乱れていた。




