第1話「凍てつく大地への輿入れ」
登場人物紹介
◆リアン
南の豊かな国「サウス」の第三王子。男性でありながら子供を産めるオメガという性を持つ。美しく儚げな容姿だが、実家では「政治の道具」「出来損ない」として冷遇されてきた。北国へ「人質の生贄」として送られるが、芯は強く、優しさを持っている。
◆ガルド
北の軍事国家「ノース」を統べる若き王。圧倒的な力を持つアルファ。顔の半分に大きな古傷があり、その強面と無口さから「北の魔王」「血に飢えた野獣」と諸国から恐れられている。しかし実際は、口下手で不器用なだけで、誰よりも民と国を想う誠実な青年。
◆マリア
ガルドの側近を務める女性ベータ。サバサバとした性格で、ガルドの不器用さを理解している数少ない人物。リアンの良き理解者となる。
ガタゴトと車輪が凍った地面を噛む音が、何時間も続いている。
窓の外を流れる景色は、いつの間にか見慣れた緑豊かな草原から、色彩を失った白銀の世界へと変わっていた。
吐く息が白い。
馬車の中だというのに、手足の感覚がなくなりそうなほど寒い。
私は……リアンは、かじかんだ指先を自身の腕に食い込ませるようにして抱きしめ、小さく身震いをした。
南国育ちの私にとって、北国「ノース」の寒さは想像を絶するものだった。
けれど、体の芯まで凍えるようなこの寒さよりも、これから待ち受ける運命への恐怖のほうが、私の心を冷たく支配していた。
『……お前はオメガだ。男でありながら女のように腹を痛めるだけの、情けない存在だ』
父である国王の言葉が、耳の奥で呪いのように響く。
『だが、その美しい顔だけは役に立つ。野蛮な北の王にくれてやれ。向こうが飽きるまでの間、我が国は平和を保てるだろう』
兄たちの嘲笑。
母の、どこか憐れむような、けれど決して助けようとはしない冷ややかな視線。
私は、南の国「サウス」の第三王子に生まれながら、一度として人間として扱われた記憶がない。
オメガというだけで、私は王家の恥であり、同時に便利な外交カードでしかなかった。
そして今回、長年敵対していた北国ノースとの和平条約の証として、私は北王ガルドのもとへ嫁ぐことになったのだ。
嫁ぐ、と言えば聞こえはいい。
実態は、人質であり、生贄だ。
「……寒い」
思わず、独り言が口をついて出た。
北王ガルド。
噂に聞く彼は、まさに「魔王」と呼ぶにふさわしい男だという。
戦場では鬼神のごとく暴れ回り、逆らう者の首を容赦なくはねる。
顔には大きな古傷があり、その瞳に見つめられただけで、屈強な兵士さえも震え上がるらしい。
そんな男の夜伽をさせられるのだ。
か細いオメガの体など、彼にとっては脆い玩具のようなものだろう。
きっと、初夜で壊されてしまうに違いない。
あるいは、飽きられたらすぐに、冷たい地下牢に放り込まれるのか。
恐怖で胃が縮み上がるような感覚を覚えながら、私は膝の上で固く手を組んだ。
逃げ道はない。
帰る場所もない。
私にはもう、この凍てつく国で、どのような扱いを受けようとも耐え抜くしか道は残されていないのだった。
やがて、馬車の速度が緩み始めた。
重厚な石造りの門が開く音が、腹の底に響くような重低音となって伝わってくる。
御者が何かを叫び、馬がいなないた。
ついに、着いてしまったのだ。
魔王の棲む城へ。
扉が開かれると、刃物のように鋭い冷気が一気に流れ込んできた。
「降りろ、南の王子」
出迎えの言葉にしてはあまりに素っ気ない、低い男の声がした。
私は震える足に力を込め、ゆっくりと馬車を降りた。
地面に降り立った瞬間、雪を踏みしめる乾いた音がした。
顔を上げると、そこには灰色の石で組まれた巨大な城が、鉛色の空を突き刺すようにそびえ立っていた。
華美な装飾など一切ない、戦うためだけに作られた要塞のような城。
そして、その入り口には、無数の兵士たちが並んでいる。
彼らの視線は鋭く、値踏みするようで、私は思わず身をすくませた。
敵国の王子。
役立たずのオメガ。
彼らの目には、私がそんなふうに映っているのだろう。
「こちらへ」
案内役の老人が、抑揚のない声で言った。
私はうつむいたまま、彼に続いて歩き出した。
城の中は、外よりは幾分マシだったが、やはり寒かった。
石造りの廊下は薄暗く、松明の明かりが揺れるたびに、私の影が壁に長く伸びては消える。
まるで、今にも闇に飲み込まれてしまいそうな、頼りない影。
長い廊下を渡り、いくつもの階段を上り、やがて巨大な扉の前にたどり着いた。
「王がお待ちです」
老人が扉を開け放つ。
私は息を飲み、覚悟を決めて中へと足を踏み入れた。
そこは、謁見の間だった。
南の国のそれとは違い、金銀の装飾はなく、あるのは使い込まれた武具や、巨大な獣の毛皮だけ。
その最奥。
一段高くなった玉座に、その男は座っていた。
北王ガルド。
私は、恐る恐る視線を上げた。
そして、息が止まった。
大きい。
それが第一印象だった。
熊の毛皮を羽織ったその体躯は、岩山のように巨大で、圧倒的な威圧感を放っている。
黒髪は短く刈り込まれ、浅黒い肌には無数の傷跡が刻まれていた。
そして、噂通りだった。
彼の左目の上から頬にかけて、肉をえぐるような大きな傷跡が走っていたのだ。
その傷が、彼の顔をより一層凶悪に見せている。
金色の瞳が、獲物を狙う猛獣のように鋭く光り、私を射抜いた。
「……お前が、リアンか」
地響きのような声だった。
怒っているのだろうか。
それとも、私の貧相な姿に呆れているのだろうか。
私は慌ててその場にひざまずき、頭を垂れた。
南国の礼儀作法通りに、床に額をこすりつける。
「は、はい……サウス国第三王子、リアンと申します……この度は、和平の証として参りました……」
声が震えてしまった。
情けない。
こんな声では、また「出来損ない」と罵られてしまう。
しかし、頭上から降ってきたのは、罵声ではなかった。
「……顔を上げろ」
短く、それだけ。
私はおずおずと顔を上げた。
ガルド王は、玉座から立ち上がり、ゆっくりと階段を降りてきた。
一歩、また一歩と近づいてくるたびに、彼の巨大さが際立つ。
心臓が早鐘を打つ。
殺される。
あるいは、ここで乱暴に扱われる。
本能が警鐘を鳴らし、逃げ出したい衝動に駆られるが、足がすくんで動かない。
彼は私の目の前で立ち止まった。
見上げると、首が痛くなるほどの身長差がある。
彼は無言で私を見下ろしている。
その金色の瞳には、何の感情も浮かんでいないように見えた。
ただ、冷たく、静かに、私という存在を観察している。
沈黙が痛い。
何か言わなければ。
気に入られなければ、私の命だけでなく、故国の平和さえも脅かされるのだから。
「あ、あの……至らない点も多いかと思いますが、どうか……」
「……痩せすぎだ」
「え?」
唐突な言葉に、私は言葉を詰まらせた。
ガルド王は、太い眉間に深いしわを寄せ、いかにも不機嫌そうに舌打ちをした。
「サウスの王は、息子に飯も食わせていないのか。まるで折れそうな枝だ」
「も、申し訳ありません……」
やはり、貧相な体が気に入らなかったのだ。
オメガならば、もう少しふくよかで、子供を産みやすそうな体つきが好まれる。
私は男でありながら、筋肉もつかず、かといって女性のような柔らかさもない。
本当に、誰からも望まれない体だ。
「謝るな」
低い声が、私の思考を遮った。
彼は乱暴に頭をかくと、背後に控えていた兵士に顎で合図をした。
「連れていけ。一番奥の部屋だ」
一番奥の部屋。
その言葉に、私は血の気が引く思いがした。
城の奥深く。光の届かない場所。
それはつまり、牢獄か、あるいは誰も寄り付かないような隔離部屋のことではないだろうか。
初対面で失格の烙印を押されたのだ。
もはや、妻として扱われることすらないのだ。
「……はい」
私は絶望を飲み込み、小さく返事をした。
ガルド王は、そんな私少しも見ないで、背を向けて去っていった。
その背中は、拒絶の壁のように冷たく、遠かった。
***
兵士に連れられて歩く廊下は、先ほどよりもさらに深く、城の心臓部へと向かっているようだった。
すれ違う使用人たちは、誰もが私に同情的な、あるいは好奇の視線を向けてくる。
これから「処分」される王子。
そんなささやき声が聞こえてきそうで、私は耳を塞ぎたくなった。
やがて、重厚な扉の前で兵士が足を止めた。
「ここです」
兵士は扉を開け、私に入るように促した。
私は覚悟を決めて、中へと足を踏み入れた。
冷たい石の床、カビ臭い空気、鉄格子……そんな光景を想像していた。
けれど。
「……え?」
目の前に広がっていたのは、想像とは正反対の光景だった。
部屋の中は、驚くほど暖かかった。
壁際には大きな暖炉があり、赤々とした炎が燃え盛っている。
床には、足首まで埋まるほどの分厚い絨毯が敷き詰められていた。
家具はどれも上質で、磨き上げられた木の温もりが感じられる。
広いベッドには、これでもかというほど大量の毛皮と羽毛布団が重ねられていた。
牢獄どころか、私が故国で与えられていた部屋よりも、はるかに豪華で、快適そうな部屋だったのだ。
「こ、ここは……?」
振り返って兵士に尋ねようとしたが、扉はすでに静かに閉ざされていた。
カチャリ、と鍵のかかる音がしなかったことに、私はまた驚いた。
閉じ込められたわけではない?
私は呆然と部屋の中を見渡した。
テーブルの上には、湯気を立てる温かいスープと、焼き立てのパン、そして見たこともない果物が並べられている。
部屋の隅には、湯を張った木製の浴槽まで用意されていた。
『一番奥の部屋だ』
ガルド王の言葉が蘇る。
これは、どういうことなのだろう。
最後の晩餐なのだろうか。
それとも、風邪を引かせて死なれては困るという、道具としての管理なのだろうか。
どちらにせよ、この暖かさは、凍え切った私の体にはあまりに甘美で、残酷だった。
私はふらふらと暖炉の前まで歩き、その場へ崩れ落ちるように座り込んだ。
炎の熱が、冷え切った頬をなでる。
その優しさに、張り詰めていた糸がふっと緩んだ。
わけがわからない。
あの恐ろしい魔王が、なぜこんな部屋を用意したのか。
考えれば考えるほど、混乱の渦に飲み込まれていく。
けれど、一つだけ確かなことは、今夜だけは凍えずに眠れるということだった。
私は膝を抱え、パチパチとはぜる炎を見つめながら、深い溜息をついた。
北国での最初の一日は、こうして静かに、けれど不穏な予感をはらんだまま更けていった。




