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第七話: 『絶対に当たる「予言の詩集」』

 

 雨上がりの午後、私立青蘭学院の図書館は、湿った空気と古い紙の匂いが混ざり合った独特の沈黙に包まれていました。

 私たち、片倉桜と皐月にとって、この場所は聖域であり、同時に世界を覗き見るための窓でもあります。背中合わせに座り、それぞれが好む物語に没頭する時間は、誰にも邪魔されない至福のひととき。

 しかし、その静寂は、最近広まり始めた「奇妙な噂」によって、少しずつ蝕まれ始めていました。

 

「ねえ、本当に当たるの?」

「静かにしてよ、ここ図書室だよ。……でも、本当。三年生の新田先輩、この詩集に『赤に染まる路』って予言されて、その日の放課後に鼻血を出して倒れたんだって」

「うわ、地味に怖い……」

 

 書架の影から聞こえてくるのは、クラスメイトたちのひそひそ話です。

 姉の桜は、手に持っていたドストエフスキーの『白夜』から視線を上げ、少しだけ眉をひそめました。言葉そのものに宿る情緒を重んじる彼女にとって、詩を「占い」や「予言」の道具として扱う風潮は、少しだけ悲しいことに思えた。

 一方、妹の皐月は、エラリー・クイーンのミステリーのページを捲る手を止め、鋭い眼光を噂の主たちに向ける。

 

「予言、ね。統計学的な偶然か、それとも心理的な誘導か……」

 

 皐月の低い呟きは、隣に座る桜にしか聞こえない。

 噂の標的となっているのは、図書室の最奥、窓際から最も離れた「閉架に近い開架」の棚にひっそりと置かれた一冊の詩集だった

 

 タイトルは『渡り鳥の航路(L’Oiseau de Passage)』。

 

 革装の表紙は擦り切れ、作者の名前すら定かではない古い本です。いつからそこにあるのか、誰が寄贈したのかもわからないその本には、いつしか奇妙な儀式が付随するようになっていました。

 

「目を閉じて、心を無にしてページを捲る。そして、指で止めた行が、あなたの近い未来になる」

 

 それは、思春期の少年少女たちにとって、あまりに魅惑的で不吉な「遊び」だった。

 

 その日の放課後、私たちは偶然にも「予言」が生まれる瞬間を目撃することになりました。

 騒ぎの中心にいたのは、二年生の男子生徒、速水はやみくんでした。彼は運動神経は良いものの、お調子者で注意力が散漫なことで知られています。

 

「よーし、俺の運勢、見てやろうじゃん」

 

 速水くんが目を閉じ、大げさな動作で『渡り鳥の航路』を捲ります。彼の周囲には、期待と不安の入り混じった顔の生徒たちが群がっていました。

 彼の指が、ある一頁の中ほどで止まりました。

 

「えーっと……なになに?『冷たい大地の抱擁が、急ぎ足の旅人を止めるだろう』……?」

 

 速水くんは首を傾げました。

 

「なんだよ、意味わかんねーの。旅人なんてどこにもいねーよ」

 

 周囲からも「なんだ、外れか」という溜息が漏れました。しかし、その様子を少し離れた席から観察していた私たち二人の印象は、少し異なりました。

 

「……桜、どう思った?」

 

 皐月が、ルーペを取り出したい衝動を抑えるように、ペンを回しながら尋ねました。

 

「……詩としての意味なら、安らぎや死、あるいは立ち止まることの必要性を説いているようにも聞こえるけれど……。今の速水くんには、少し『重すぎる』言葉ね」

「私は別のことが気になる」

 

 皐月は、速水くんの背後に立っていた、ある一人の生徒に目を向けました。

 

「あの予言が出たとき、あいつだけが笑わなかった」

 

 それから十分後のことです。

 放課後の喧騒の中、校舎の階段を一段飛ばしで駆け下りていた速水くんが、踊り場で派手に転倒する。

 濡れた床に足を滑らせた彼は、まさに詩の通り「冷たい大地コンクリート」に抱擁されるかのように倒れ込み、捻挫をして保健室に運ばれることになった。

 

「予言が当たった!」

 

 その叫び声は、瞬く間に校内に響き渡りました。

 それからの数日間、学院は「予言の詩集」の話題でもちきりになりました。

 

「テストの範囲が外れる」「恋に破れる」「大切にしていたものを失う」……。

 

 詩集が告げる抽象的な言葉は、ことごとく生徒たちの身の上に降りかかり、恐怖と熱狂を加速させていきました。

 ついには「呪いの本だ」という極端な噂まで流れ始め、事態を重く見た風紀委員会が動き出すことになりました。

 

「非科学的な迷信によって校内の秩序が乱れている。あの本は委員会で回収し、処遇を決定する」

 

 風紀委員長の厳しい宣言と共に、放課後、数人の委員が図書室へと乗り込んでいき、私たちも、その様子を遠巻きに見守っていました。

 しかし、委員たちが閉架に近いあの棚に手を伸ばしたとき、驚愕の事実が発覚しました。

 

「……ないぞ」

 

 そこにあるはずの『渡り鳥の航路』が、忽然と姿を消していたのです。

 貸出記録は白紙。司書の先生も、誰かが持ち出したところは見ていないと言います。

 窓は施錠され、防犯カメラ(と言っても、図書室の入り口にある古いものですが)にも、不審な持ち出しは記録されていませんでした。

 本が、自らの意志で消えたかのような、完璧な消失。

 

「……面白くなってきたわね、お姉ちゃん」

 

 皐月が、いつものように不敵な笑みを浮かべました。

 

「超常現象による消失、あるいは、私たちの『隣人』が好むような、巧妙なトリックか」

「……ええ。でも、私はあの詩が泣いているような気がするの。あんな風に、誰かを怖がらせるために使われるなんて、きっと本も望んでいないわ」

 

 桜の穏やかな、けれど芯の強い言葉に、皐月は頷きました。

 二人は申し合わせたように、校門を出て右へ曲がりました。向かう先は、洋館のような佇まいの古い邸宅。

 私たちの「名探偵」、宮本武蔵郎の事務所です。

 

「ほう。予言する詩集、か。それはまた、ビブリオ・ミステリーとしては古典的だが、興味深い題材だね」

 

 宮本は、山積みの古書の間から顔を出し、パイプの代わりに愛用している鉛筆を弄びながら言った。

 私たちの報告を聞き終えた彼は、眼鏡の奥の瞳を細めました。

 

「いいかい、助手諸君。詩というものは、万華鏡のようなものだ。見る者の角度によって、光の反射は形を変える。だが、その光を自在に操り、特定の模様を他人の目に見せることができる人間がいるとしたら……それはもはや詩ではなく、強力な『暗示』という名の武器になる」

 

 宮本は、おもむろに自分の書架から、一冊の古い本を取り出しました。

 それは、学院から消えたはずのあの本と同じ、『渡り鳥の航路』の特装版でした。

 

「これを貸そう。桜さんは、そこに並ぶ言葉たちの『真実の顔』を探してごらん。言葉が本来、読者に何を伝えたがっているのかを。……そして皐月さん。君は『観測者』を探すんだ。予言を当てるために、舞台を整えている人間をね」

 

 宮本は、二人に一冊ずつ、小さな「銀の栞」を手渡しました。

 

「未来とは、現在の延長線上にしかない。予言が当たるとしたら、それは誰かが『現在』を完璧にコントロールしているからだ。……さて、君たちの学校に潜む『脚本家』は、一体何を望んでいるのかな?」

 

 宮本からの宿題を受け取り、私たちは再び、夜の静寂が下り始めた学院へと視線を向けました。

 消えた詩集と、的中し続ける予言。

 その裏側に編み込まれた悪意、あるいは悲しみ。

 桜は詩の一節を指でなぞり、皐月は事件のタイムラインを脳内に構築し始めました。

 片倉桜と皐月。二人の「視点」が重なる時、偽りの予言は、その真実の姿を現すことになるのです。

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