第六話 『双子と幻の栞:本に埋もれた島の遺言』
初夏の風が潮の香りを運び始めた頃、宮本探偵事務所に一通の封筒が舞い込みました。
切手はなく、消印もない。ただ、かつて幕間の夜に見たあの銀細工の栞と同じ、繊細な蔦の模様が封蝋として刻まれていました。
宮本が震える指でその封を切ると、中から現れたのは、あの「最後の一頁が白紙だった詩集」から切り取られたはずの、古びた紙片でした。
「……これは、彼女の筆跡だ」
事務所を訪れていた桜と皐月は、宮本の顔がこれほどまでに蒼白になるのを初めて見ました。
紙片には、たった一行。
『物語の結末は、潮騒に埋もれた「綴島」の書庫にある。 ――千歳』
綴島。それは瀬戸内海の端に位置し、かつて戦火を逃れた膨大な古文書や寄贈本を収蔵するために、島全体が巨大な図書館と化したという伝説の島でした。現在は無人島に近い状態のはずですが、宮本は迷うことなく立ち上がりました。
「桜、皐月。これは私の過去の精算だ。だが、今の私には君たちの目が必要だ。……一緒に行ってくれるか?」
二人は力強く頷きました。自分たちが宮本に見つけてもらったように、今度は自分たちが、宮本の「失われた頁」を見つける番だと確信したからです。
数日後、三人はチャーターした小舟で霧の立ち込める「綴島」へと上陸しました。
島に降り立つと、そこは異様な光景でした。かつての寄宿舎や校舎だった建物は、壁際まで本棚で埋め尽くされ、蔦がそれらを幾重にも縛り付けています。まさに、島そのものが一冊の「本」に飲み込まれたかのようでした。
「すごい……全部、本だわ」
桜は、崩れかけた校舎の窓から溢れ出す古書の匂いに目を細めました。
「でも、ただ置かれているだけじゃない。見て、お姉ちゃん。分類されてる」
皐月が指差したのは、建物の入り口に刻まれた記号でした。
「NDC(日本十進分類法)だ。ここは『文学』、あっちの洋館は『歴史』。……誰かが、この島を巨大なアーカイブとして管理し続けていたんだわ」
三人は、千歳の手紙にあった「書庫」を求めて、島の中心部にある、時計塔のそびえる石造りの建物へと向かいました。
時計塔の書庫には、重厚な鉄の扉が立ち塞がっていました。扉には二つの鍵穴があり、そこには奇妙なレリーフが刻まれていました。
一つは、「涙を流す少女の顔」。
もう一つは、「冷徹に世界を俯瞰する眼」。
「二つの鍵を同時に回さなければ、この扉は開かない仕掛けのようだ」
宮本が苦渋の表情を浮かべました。
「千歳は、自分の中の二つの矛盾する魂を、ここに封じ込めたんだ。情緒と論理。どちらか一方が欠けても、彼女の真実には辿り着けない」
宮本は、かつて千歳がこの矛盾に引き裂かれたことを思い出し、拳を握り締めました。しかし、桜と皐月は左右からその手を優しく解きました。
「先生、大丈夫です」
桜が左の鍵穴に手をかけます。
「私たちが、彼女の半分ずつを預かります」
皐月が右の鍵穴に手をかけました。
「私が、彼女の流した『涙』の意味を読み解きます」と桜。
「私が、彼女が見つめていた『真実』の構造を解き明かすよ」と皐月。
二人が呼吸を合わせ、同時に鍵を回した瞬間。
重い鉄の扉が、深い溜息のような音を立てて開かれました。
書庫の最奥、天窓から差し込む一筋の光の下に、一脚の椅子と小さな机が置かれていました。そこには、数年前まで誰かが生活していたような温もりが、幽かな残り香として漂っていました。
机の上に置かれていたのは、一冊の革装のノート。
宮本がそれを手に取り、最初の頁を開くと、そこには桜と皐月のことを予見していたかのような言葉が綴られていました。
『武蔵郎さん。もしあなたがここへ辿り着いたなら、それはあなたが「一人の人間」という迷宮から抜け出し、他者と共に歩む術を見つけたということでしょう。
私という物語は、ここで終わります。私は自分の中の矛盾を統合することはできなかったけれど、この島の静寂の中で、ようやく自分を許すことができました。
私の代わりに、新しく生まれる「対話」の物語を見届けてください』
ノートの最後には、あの銀の栞の「対」となる「金の栞」が挟まれていました。
「……彼女は、ここにいたんだな。一人で、自分を読み解き続けていたんだ」
宮本は、溢れそうになる涙を堪え、空っぽの椅子を見つめました。
「先生。千歳さんは、孤独じゃなかったと思います」
桜が、机の隅に置かれた小さな花瓶に、島に咲いていたネモフィラを一輪挿しました。
「彼女は、未来の私たちに向けて、この『栞』を遺してくれたんですから。物語を途中で投げ出さないために」
「そうだよ。この島の本たちは、全部先生を待ってたんだ、先生」
皐月が、宮本の肩を叩きました。
島を去る船の上で、宮本は二人に金の栞を差し出しました。
「これは、君たちが持つべきものだ。……桜、皐月。君たちは、千歳が辿り着けなかった『二人の和音』という答えを見せてくれた。これからは、私ではなく、君たちがこの世界の物語を導いていくんだ」
「先生、何言ってるんですか」
皐月が笑い飛ばしました。
「名探偵の仕事は、まだまだ山積みなんだから。帰ったら、あの理科室の三人の報告書もチェックしなきゃいけないんだよ」
「ええ。それに、先生の淹れる紅茶、少しだけコツが分かってきたんです。今度は私たちが淹れますね」
桜が優しく微笑みます。
宮本は、手元に残った銀の栞と、二人の少女の手にある金の栞を見比べ、ようやく心からの笑顔を見せました。
綴島は、再び霧の中に消えていきました。
けれど、三人の手元には、もう欠けた頁はありません。
二人の双子は、宮本という最高の読者と共に、自分たちだけの特別な物語を、これからも力強く書き記していくのです。
数日後。事務所には、以前よりもずっと明るい光が差し込んでいました。
机の上には、桜が選んだ古典名作と、皐月が選んだ最新の本格ミステリーが並んでいます。
宮本は、新しい依頼の電話を受けながら、二人の少女が楽しげに議論する声を聞いていました。
それは、かつて彼が恐れていた「閉ざされた世界」の音ではなく、外の世界へと開かれた、希望に満ちた調べでした




