幕間:『琥珀色の頁と、名もなき肖像』
雨が洋館の窓を叩き、古い木枠が時折、溜息をつくように鳴る夜。
宮本探偵事務所の主、宮本武蔵郎は、一人で琥珀色の液体が入ったグラスを傾けていた。机の上には、普段の彼なら決して放置しないような、一冊の古い詩集が乱雑に開かれている。
そこへ、雨音に紛れるように控えめなノックの音が響いた。
「……先生、まだ起きていますか?」
入ってきたのは、桜と皐月だった。二人は学校の課題の資料を探しに、宮本の書庫へ立ち寄る約束をしていたのだ。
「おや、こんな雨の中をご苦労様。ちょうどいい、お茶でも淹れようかと思っていたところだ」
宮本は素早く表情を取り繕い、グラスを端へ寄せた。だが、鋭い観察眼を持つ皐月の目は誤魔化せない。彼女の視線は、机の上に置かれたその詩集に釘付けになった。
「先生、珍しいですね。その本……かなり古い初版本じゃないですか。中原中也……でも、見たことがない装丁だわ」
「ああ、これは非売品の特装版でね。昔、ある人から預かったものだ」
桜がそっと本に近づき、ページの間から覗いている「あるもの」に気づいた。それは、彼女たちが宮本から贈られたものとよく似た、けれどさらに年季の入った銀細工の栞だった。
「……綺麗な栞。先生、これ」
「……ああ。見つかってしまったか」
宮本は苦笑し、観念したように椅子に深く腰掛けた。
「その栞の主は、私がかつて、世界で一番深く『読み解きたい』と願った女性のものだ。……名前は、千歳といった」
桜と皐月は、思わず顔を見合わせる。
宮本が自分の過去、それも「一人の女性」について語るなど、初めてのことだったからだ。
「千歳さんは、どんな人だったんですか?」
桜が、壊れ物を扱うような声で尋ねる。
「彼女はね……」
宮本は目を閉じ、記憶の図書館の奥底にある頁を捲るように言葉を紡ぎ出した。
「君たち二人を、一人の人間の中に押し込めたような女性だった」
二人は息を呑んだ。
「彼女は、桜さんのように文学の『情緒』を愛し、言葉の裏にある微かな震えに涙を流す繊細さを持っていた。……だが同時に、皐月さんのように残酷なほど冷静な『論理』を持ち、世界の矛盾を数式のように解いてしまう鋭さも持っていたんだ」
宮本は、当時の自分を思い出すように自嘲気味に笑った。
「当時の私はまだ若く、古本屋の主をしながら、彼女という『難解な本』を解読することに没頭していた。彼女は時折、自分の中にある二つの性質が衝突することに苦しんでいたよ。情緒が論理を否定し、論理が情緒を冷笑する。彼女は、自分という存在がバラバラに引き裂かれそうだと、いつも怯えていた」
「……一人で、戦っていたんですね」
桜が、自分の胸に手を当てた。もし自分に皐月がいなかったら。もし自分の中に、あの冷徹な観察眼が同居していたら、その重みに耐えられただろうか。
「そう。だから、初めて君たちに会った時、私は心底驚いたんだ」
宮本は、二人の顔を交互に見つめた。
「千歳さんが一生をかけて一人で抱え込もうとした『二つの世界』を、君たちは二人で分かち合い、鏡合わせのように支え合っていた。……彼女が辿り着けなかった答えを、君たちは生まれながらに持っていたんだよ」
「その人は……今はどこにいるんですか?」
皐月が、静かに核心に触れた。
宮本は、窓の外の雨を見つめた。
「ある日、彼女は一通の手紙と、その詩集を私に預けて消えてしまった。『私は、私を読み解く旅に出ます。あなたがこの本を読み終える頃に、また会いましょう』……とね」
宮本は、栞の挟まったページを指先でなぞった。
「だが、この詩集の最後の一頁は、最初から白紙なんだ。彼女は私に、解けるはずのない謎を残していった。……あるいは、私がいつまでも彼女を忘れられないように、呪いをかけたのかもしれないな」
「先生……」
「いや、湿っぽい話になった。すまないね。……ただ、私が君たちを『見分けたい』と思ったのは、単なる探偵としての好奇心じゃない。君たちがそれぞれの個性を輝かせ、二人でいることで一人の女性が抱えた以上の幸福を掴んでほしいと……そう願ったからなんだ」
宮本は立ち上がり、棚から二つの新しいカップを取り出した。
「千歳さんは、紅茶に少しだけジャムを入れるのが好きだった。……君たちはどうかな?」
「私は、ミルクがいいです」
と桜。
「私は、ストレートで。……でも、少しだけ砂糖を」と皐月。
「ふむ、やはり違うな」
宮本は満足そうに微笑み、お湯を注いだ。
その夜、自分の部屋に戻った桜と皐月は、寝る前に一つの約束をした。
「お姉ちゃん。私たち、いつか先生がその『千歳さん』に再会した時、胸を張って言えるようになりたいね」
「ええ。私たちは二人で一人じゃなくて、二人でいるからもっと強くなれるんだって。先生に教えてあげましょう」
二人は、宮本から贈られた自分たちの『空白の本』を枕元に置いた。
宮本の過去にいた、一人の孤独な女性。彼女が持っていた情熱と知性は、今、形を変えて二人の少女の中に息づいている。
雨はいつの間にか上がり、雲の間から微かな月光が差し込んでいた。
洋館の書斎では、宮本が一人、千歳の栞をそっと本の中に閉じ、新しい事件の資料へと手を伸ばしていた。
彼の物語は、過去に縛られるためではなく、目の前の双子の未来を読み解くために、今も続いているのだ。




