第三話 『鏡像の双子と、屋上の亡霊 』
宮本武蔵郎から贈られた「空白の本」と「銀のルーペ」が、二人の鞄の中で静かな重みを持っていた。
進藤玲奈との対峙から数日。平穏を取り戻したかに見えた双子の元に、一通の手紙が届いた。それは下駄箱に置かれた、消印のない封筒。宛名には、筆圧の薄い、けれど端正な文字で「片倉桜様、皐月様」と併記されていた。
それは、玲奈の自作自演に利用され、かつて親友であったにもかかわらず切り捨てられた不登校の少女、佐伯栞からの招待状だった。
「……『私の時間を奪った犯人を、あなたたちの目で見つけてほしい』、か」
皐月は、放課後の図書室で手紙を読み上げ、小さく吐息をついた。
手紙には、放課後の旧校舎の屋上に一人で来てほしいという指定と、奇妙な条件が記されていた。
『桜さんは屋上で私と話し、皐月さんは同じ時刻、新校舎の図書室で「ある本」を確認していてください。二人が同時に別々の場所にいること。それが、私があなたたちを信頼するための条件です』
「私たちが双子であることを利用した、アリバイの証明ね」
桜が、銀のルーペを指先で弄びながら言った。
「玲奈さんの事件で、私たちが『個』として動けることを知ったからこそ、彼女は警戒しているんだわ。……あるいは、試されているのかも」
二人はその足で、隣の洋館を訪れた。
宮本武蔵郎は、相変わらず古書の山に埋もれながら、二人が差し出した手紙を、まるでヴィンテージのワインを鑑定するように眺めた。
「ふむ……佐伯栞さん。彼女は『時間の盗難』を訴えているわけだ。面白い。物理的な物ではなく、概念的なものを盗まれたと主張する依頼人は、得てして非常に繊細な物語を持っている」
宮本はパイプを咥える真似をして、二人の目を交互に見た。
「桜、皐月。彼女は君たちに『完璧なアリバイ』を求めている。だが、名探偵の助手ならば、単に要求に従うだけではいけない。彼女がなぜ『同時刻に別々の場所にいろ』と命じたのか。その裏にある、彼女自身の『アリバイ』を疑いなさい」
「彼女自身のアリバイ?」
皐月が眉をひそめる。
「彼女は不登校だ。学校に来ること自体がリスクであり、誰かに見られることを極端に恐れている。……いいかい、これは一種のパズルだ。君たちが『二人で一人』に見えることを利用するのか、それとも『一人ずつ別個の存在』であることを突きつけるのか。今回の鍵は、君たちの入れ替わりにある」
宮本はニヤリと笑い、二人に一枚の栞を差し出した。
「これを持っていきなさい。今回、君たちはあえて、彼女の指定とは『逆』の役割を演じるんだ」
翌日の放課後。
学校は、部活動に励む生徒たちの喧騒に包まれていた。だが、立ち入り禁止に近い扱いを受けている旧校舎は、まるで時間が止まったかのような静寂に支配されている。
指定の時刻。新校舎の図書室には「片倉桜」がいた。
彼女は窓際の席に座り、佐伯栞が指定した、カントの『純粋理性批判』を広げている。図書委員の視線が時折彼女に注がれる。「大人しい方の片倉さん」が、難解な哲学書を読んでいる姿は、日常の風景の一部として完璧に溶け込んでいた。
一方。
旧校舎の錆びついた階段を上り、屋上へと辿り着いた人影があった。
セーラー服の襟元を整え、おっとりとした動作で扉を開ける。
「……来てくれたのね。桜さん」
屋上のフェンス際、初夏の風に髪をなびかせて立っていたのは、透き通るような肌をした少女だった。彼女が佐伯栞だ。玲奈の事件でその存在を知ってはいたが、直接会うのは初めてだった。
「はい。約束通り、一人で来ました。妹の皐月は、今頃図書室で本を読んでいます」
屋上に現れた少女は、少しだけはにかんだような、桜特有の柔らかな微笑みを浮かべて答えた。
だが、そのポケットの中には、銀のルーペではなく、ミステリー小説の文庫本が隠されている。
屋上にいるのは、桜の振りをしている皐月だった。
「信じるわ。あなたたちの噂は聞いている。……私の日記を玲奈から守ってくれたことも。でも、まだ足りない。私が失った『あの放課後の三十分間』を、誰も証明してくれないの」
栞は、力なく笑った。
「三ヶ月前の雨の日。私は理科準備室で、玲奈に呼び出された。そこで彼女は、ある『実験』を私に手伝わせたわ。でも、その後、彼女は『私はずっと教室にいた』と言い張り、準備室で起きた火災事故の責任を、全部私に押し付けた」
「……理科準備室のボヤ騒ぎ。犯人不明で片付けられた、あの事件ですね」
「ええ。玲奈には完璧なアリバイがあった。クラス全員が、彼女が教室で自習していたのを見ている。でも、私と一緒に準備室にいた彼女が、どうやって教室に現れたのか……。それが解けない限り、私は学校に戻れない」
皐月(桜のフリをした姿)は、眼鏡の奥で思考を走らせた。
(……なるほど。玲奈さんが使ったのは、おそらく『双子』ではない誰かを使った、もっと巧妙な視覚的トリック。でも、それを見破るためには、まず目の前のこの少女が、なぜ私たちをわざわざ引き離したのかを突き止めなきゃいけない)
その時。
図書室で『純粋理性批判』を読んでいた「桜(のフリをした皐月)」の元に、一人の男子生徒が近づいてきた。
彼は、図書委員の腕章を巻いた、少し神経質そうな少年だった。
「……片倉さん。その本、122ページに何か挟まっていませんでしたか?」
その言葉は、昨日の夜、宮本から聞かされていた「合言葉」だった。
桜は、本の中に挟まっていた「宮本から手渡された栞」をそっと彼に見せた。
少年の顔色が劇的に変わる。
「……やっぱり。君たちは、名探偵に雇われたんだね」
旧校舎の屋上と、新校舎の図書室。
二つの場所で同時に動き出した、過去の隠蔽と、新たな悪意。
桜と皐月は、互いに離れた場所にいながら、鏡合わせのような思考で、見えない敵の足跡を追い始めるのだった。
屋上の風が強くなる。
「桜さん、どうしたの? 急に黙り込んで」
栞が怪訝そうに覗き込んでくる。
皐月は、桜らしい穏やかな声で、けれど探偵の助手としての冷徹な観察眼を込めて答えた。
「いいえ。ただ、あなたが隠している『もう一つの時計』の音が、ここまで聞こえてきたような気がしただけです」
一方、図書室の桜もまた、目の前の少年に向けて、ルーペを取り出した。
「さて。あなたが玲奈さんの『アリバイ工作』に協力した、もう一人の共犯者さんですね?」
二人の少女の、本当の反撃がここから始まる。




