第二話 『双子の眼光と、真実の栞(しおり)』
図書室の押し花事件を解決してから一週間。片倉桜と皐月の足取りは、以前よりも少しだけ軽やかだった。
隣の洋館、宮本探偵事務所の重い扉を叩くと、主の宮本武蔵郎は山積みの古書に埋もれながら、二人の少女を温かく迎えた。
「おめでとう、助手諸君。君たちは『文字』だけでなく『行間』に宿る心を読むことができると証明した。これは私からの、正式な助手任命の印だ」
宮本が机に置いたのは、二つの小さな革製のケースだった。
中には、鈍い銀色に光るアンティークのルーペと、そしてそれぞれに一冊ずつ、見たこともないような装丁の本が入っていた。
「それは、私が古書店主時代に手に入れた『空白の本』だ。一見するとただの白紙のノートだが、特殊な紙質でね。ある特定の光の下で、あるいは特定の感情を持ってペンを走らせる時、君たちだけの『真実の記録』になる。そしてそのルーペは、ただ拡大するだけじゃない。持ち主の『視点』を固定するための儀式のようなものだ」
桜はルーペを手に取り、その冷たい感触に身を引き締めた。
皐月は『空白の本』を指でなぞり、その紙の匂いを嗅いだ。
「これを、学校で使うの?」
「ああ。君たちの学校生活は、これから少しずつ『複雑』になる。同じ顔、同じ声、けれど決定的に違う二つの魂。それを見分けることができない大勢の中で、君たちは自分たちの『個』を武器にするんだ」
宮本は眼鏡を指で押し上げ、予言者のような目で言った。
「近いうち、君たちの元に『悪意の編み込まれた物語』が届く。その時、その道具が君たちの目となり、栞となるだろう」
季節は五月の終わり。学校では、中間テストを前にした独特の焦燥感が漂っていた。
桜と皐月は、クラスメイトたちから「片倉さんたち」と一括りに呼ばれることに変わりはなかったが、彼女たち自身の内面は劇的に変化していた。宮本から贈られたルーペをポケットに忍ばせているだけで、世界が少しだけ解像度を増して見えるのだ。
そんな時、クラスの「中心」にいる少女、進藤玲奈が二人の席にやってきた。
玲奈は才色兼備で通っているが、その瞳の奥には常に、計算された冷たさがあることを、桜は文学的直感で感じ取っていた。
「ねえ、片倉さん。どっちが桜さんで、どっちが皐月さんか、私にはわかるわよ」
玲奈は挑戦的な笑みを浮かべて言った。
「右側に座っているのが、お姉さんの桜さん。左が皐月さん。……当たりでしょう?」
それは単なる座席順の推測だったが、クラスの注目を集めるには十分だった。
「実はね、お願いがあるの。私の大切な『交換日記』が、盗まれちゃったみたい。中には、誰にも言えない悩みとか、クラスの秘密とか……もしこれが誰かに読まれたら、私、学校にいられなくなっちゃう」
玲奈の声は震えていたが、皐月はその「震えのピッチ」に違和感を覚えた。ミステリー小説の伏線を追うような感覚で、彼女の言葉の裏にある不自然な構造を読み取ろうとする。
「私たちに、探偵の真似事をしろってこと?」
皐月が冷静に問い返すと、玲奈は頷いた。
「あなたたちなら、誰にも気づかれずに犯人を見つけてくれるでしょう? お礼に、あなたたちのことを『一人の女の子』として扱うように、私からみんなに言ってあげるわ」
それは、かつての二人なら飛びついたかもしれない提案だった。しかし今の二人は、他人に認められることよりも、自分たちが「何を視るか」を大切にしていた。
放課後。二人は玲奈から手渡された「日記の予備(彼女が書き溜めていた下書き)」を、宮本から贈られたルーペで覗き込んだ。
「……見て、皐月。」
桜が呟いた。ルーペを通すと、玲奈の書く文字の筆圧が、ページによって極端に異なっているのが分かった。
「このページ、すごく怒っているわ。でも、こっちのページは、まるで『誰かに見せるため』に書いたみたいに、余白が計算されている」
「同感だよ、お姉ちゃん」
皐月は『空白の本』に、図解を書き込みながら応えた。
「日記が盗まれたっていうのは嘘だ。正確には『盗まれたことにしたい』んだ。この日記の筆跡……玲奈さんのものじゃないページが混ざっている」
二人は、宮本の言葉を思い出した。――「悪意の編み込まれた物語」。
進藤玲奈は、自分を羨む誰かを罠にかけるために、この「自作自演の紛失事件」を仕組んだ。そして、その証人として、クラスで最も「無害で目立たない」双子を利用しようとしたのだ。
しかし、玲奈は誤算をしていた。
二人の少女はもはや、鏡の中に閉じこもるだけの、大人しい影ではなかった。
二人は放課後の教室で、玲奈を呼び出した。
「玲奈さん。日記は、美術室の裏にあるゴミ箱の底にあるわね。それも、中身がわざとバラバラにされた状態で」
皐月の言葉に、玲奈の顔が引きつる。
「……何言ってるの? 私がそんなことするはず……」
「ルーペで見たわ」
桜が、静かに銀色のルーペを差し出した。
「あなたの筆跡じゃないページ。それは、あなたが半年前まで親友だった、不登校になったあの子の文字よね? あなたは彼女の日記を盗んで、自分の不幸な物語に書き換えて、それを『クラスの誰か』のせいにして追放しようとしている」
桜の声は優しかったが、その言葉は鋭い刃のように玲奈の虚栄心を切り裂いた。
「あなたは、私たちを見分けられると言った。でも、あなたは私たちの『本』を一度も開いていない。……私たちのことを、ただの便利な『舞台装置』だと思っていたのね」
玲奈は何も言わずに教室を飛び出していった。事件は表沙汰にはならなかったが、玲奈が二人に干渉してくることは二度となかった。
その日の帰り道。二人は隣の洋館に立ち寄り、宮本に一部始終を報告した。
宮本は満足そうに紅茶を啜り、二人が持ち帰った「真実の記録」を眺めた。
「よくやった。他人の物語に自分を埋没させず、自分の物語を書き始めたね」
「宮本さん。学校には、まだまだ読まなきゃいけない『難しい本』がたくさんあるみたいです」
皐月が、少しだけいたずらっぽく笑う。
「でも、二人なら、どんなに難解な暗号でも解ける気がします」
桜が、妹の手をぎゅっと握った。
二人はもう、両親に見分けられないことを悲しんではいなかった。
世界でただ一人、この名探偵だけが知っている「自分たちだけの違い」
それを栞にして、彼女たちは明日もまた、新しいページの幕を上げる。
洋館の窓からは、初夏の風が吹き込み、二人の『空白の本』をパタパタと捲っていった。そこにはまだ何も書かれていないようでいて、確かな決意の跡が刻まれ始めていた。




