第八話:絶対に当たる「予言の詩集」
速水くんが転倒した旧校舎の西階段。放課後の人気が引いたその場所で、皐月は銀のルーペを片手に、這いつくばるようにして床を凝視していました。
「……やっぱりね」
ルーペのレンズ越しに、微かな違和感が浮かび上がります。一見、雨漏りか何かで濡れているように見えた床のタイルですが、そこには不自然な「円形の飛沫」の跡が残っていました。
「お姉ちゃん、これを見て。ただの水じゃないわ。極めて揮発性の高い工業用の潤滑スプレー、あるいはシリコン系のワックスね。放課後の限られた時間にだけ、ここを『氷の床』に変えるために誰かが撒いたんだわ」
皐月は立ち上がり、ポケットから学校の清掃用具の管理表を取り出しました。
「速水くんがここを通る数分前、園芸部の備品庫からスプレーが持ち出されている。犯人は、速水くんがこの階段を『急ぎ足』で駆け下りる習慣があることを知っていて、ピンポイントで罠を張ったのよ」
「予言」が当たったのではない。
犯人が、予言という名の「台本」に合わせて、現実という「舞台」を細工したのです。
一方、図書室の片隅で、桜は宮本から借りた同じ詩集を、壊れ物を扱うように捲っていました。
「『冷たい大地の抱擁』……。皐月ちゃんの言う通り、現実は残酷な転倒劇だったけれど。でも、この詩の続きを読めば読むほど、違和感が消えないの」
桜が指でなぞるページには、こう記されていました。
――疲れ果てた旅人よ、母なる大地にその身を預けよ。冷たき土は、やがて君を優しく包み、永遠の安らぎを約束するだろう。
「これは、誰かを傷つけるための言葉じゃないわ。絶望の淵にいる子供を、大地が優しく迎え入れてくれる……。これは『救済』の詩なのよ」
桜は、銀の栞をそのページに挟み込み、物思いに沈みました。
「犯人はこの詩集を愛しているはずよ。そうでなければ、風紀委員に没収される直前に、あんな完璧な方法で持ち出すはずがないもの。でも、どうして大好きな詩を、こんな悪意ある『呪い』に変えてしまったのかしら……」
桜の直感は、犯人の心にある「ねじれ」を感じ取っていました。それは、誰かに気づいてほしいという、悲鳴のような歪みでした。
その時、校内放送のスピーカーが、ノイズ混じりに一度だけ鳴りました。
「……風紀委員長、風間先輩。至急、旧校舎屋上へ来てください。大切な『預かり物』を返します」
その声は、電子的に加工されており、性別すら判別できません。しかし、桜と皐月は顔を見合わせました。「預かり物」とは、間違いなく消えた詩集のことです。
二人が旧校舎の屋上へ駆けつけると、そこには既に、風紀委員長の風間が立ち尽くしていました。
「誰だ、そこにいるのは! 詩集を返せと言っている!」
風間の目の前、屋上の貯水タンクの影から、一通の封筒が風に煽られて滑り出してきました。風間がそれを拾い、中身を確認した瞬間、彼の顔から血の気が引きました。
「……な、なんだ、これは……」
駆け寄った二人が覗き込んだその紙には、詩集から切り取られた一節が、血のように赤いインクでなぞられていました。
『高く聳える塔の頂から、翼を失った鳥は真下へと還る。その影が地面に触れる時、全ての鼓動は停止するだろう。』
「……死の予言」
皐月が、忌々しげに呟きました。
「風間先輩、動かないで!」
桜が叫びましたが、時既に遅く。
風間が立っていた場所は、屋上の縁からわずか数十センチ。そして、その足元のコンクリートには、「ある不可解な細工」が施されていたのです。
夕闇が迫る中、屋上のフェンスが「ギィ……」と不気味な音を立ててしなり始めました。
まるで、目に見えない死神が、風間を突き落とそうと背後に立ったかのように。
「……予言は、まだ終わっていないわ」
皐月はルーペを取り出し、風間の足元を照らしました。そこには、極細のテグスと、屋上の扉の開閉に連動して動く滑車が仕掛けられていたのです。
「風間先輩を突き落とすんじゃない……。先輩が『自分で飛び降りる』ように仕向ける、心理的なトラップよ!」
桜は、夕日に照らされた屋上の影の中に、じっとこちらを見つめる「ある少年の瞳」を捉えました。
次なるページを捲るのは、犯人の指か、それとも探偵の智慧か。




