プロローグ
春の陽光が、古い本棚の隙間に埃のダンスを躍らせていた。
片倉桜と片倉皐月は、鏡合わせの存在だった。同じ形の鼻筋、同じ角度の睫毛、そして同じ、静かな思索を好む内向的な瞳。両親ですら、娘たちがその時手に持っている本の背表紙――純文学なら姉の桜、ミステリーなら妹の皐月――を確認しなければ、どちらの名前を呼ぶべきか迷うほどだった。
「私たちは、二人で完璧なんだものね」
どちらかが呟くと、もう一人が影のように頷く。学校の教室で浮き上がることも、他人から「双子だから区別がつかない」と無神経に笑われることも、二人の閉ざされた世界の中では些細な雑音に過ぎない。
そんな二人の静域を揺るしたのが、中学2年生へと進級したある春の日に隣の空き家に引っ越してきた風変わりな看板。
『宮本探偵事務所』
越してきたのは、宮本武蔵郎と名乗る、どこか浮世離れした空気を纏った男だった。
「ねえ、お姉ちゃん。試してみない?」
皐月が、ミステリー小説のページを捲る指を止めて提案する。
「あの『名探偵』さんに、私たちの違いが分かるかどうか」
桜は少しだけ迷い、けれど胸の奥にある、自分でも気づかないほどの小さな叫びに突き動かされて頷いた。――「誰かに、私を見つけてほしい」という、切実な願いに。
一日目。
まずは姉の桜が、隣の洋館の扉を叩いた。
出迎えた宮本は、部屋中に古書を積み上げ、パイプの代わりに鉛筆を弄んでいるような男だった。桜は「探し物をしていて」と適当な口実を作り、彼と三十分ほど、最近読んだ夏目漱石の文体について言葉を交わす。
二日目。
今度は妹の皐月が、昨日桜から聞いた会話の内容を完璧にトレースして訪問した。桜と同じ服を着、同じ髪留めをつけ、桜が話した感想をなぞるように口にする。宮本は相変わらず、積み上がった本の間で「ほう、なるほど」と頷くだけだった。
そして三日目。
再び桜が、二日間の出来事を完璧に把握した上で、仕上げの訪問をした。宮本の前に座り、昨日と同じ、控えめな微笑みを浮かべる。
しかし、宮本は紅茶を机に置くと、眼鏡の奥の瞳を細めてこう言った。
「さて。……今日はどちらのお嬢さんかな? 桜さん、それとも皐月さん?」
桜の心臓が、大きく跳ねた。
「……どうして。私たちは、昨日と同じ話をしているはずです」
宮本は屈託なく笑うと、壁際の椅子をもう一脚引く。
「そこにお隠れのお嬢さんも、一緒にお茶をどうぞ。せっかくですから、三人で種明かしといきましょう」
廊下の影で息を潜めていた皐月が、顔を赤くして現れた。二人が揃って並んでも、その容姿はやはり区別がつかない。けれど宮本は、確信に満ちた声で語り始めた。
「まず、興味の対象だ。一見同じ話をしているようだが、桜さんは文章の『情緒』に目を輝かせ、皐月さんは『構成の妙』に声を弾ませる。昨日のお嬢さんは、トリックの整合性について少しだけ語気が強かった」
二人は息を呑んだ。自分たちでも意識していなかった微かな熱量の差。
「それから、栞だ。桜さんは読み終えたページの右上に挟むが、皐月さんは右下に挟む癖がある。指先の動きは嘘をつけない。そして何より、視線の動かし方だ。桜さんは情景を思い描くように宙を泳ぎ、皐月さんはパズルを解くように行間を鋭く追う」
宮本は優しく、二人の顔を交互に見つめる。
「外見がどれほど似ていようと、積み上げてきた『読書』という経験は、君たちを全く別の個性に染め上げている。私の目は節穴じゃない。物語を愛する人間が、一人一人違う色をしていることくらい、見逃しはしませんよ」
「……見つかっちゃったね」
皐月がぽつりと零した。
「ええ、見つけてくれたわ」
桜が応える。
それは、生まれて初めて、世界と自分たちの間にあった厚い壁に、心地よい風穴が開いた瞬間だった。
「宮本さん。私たち、また来てもいいですか?」
二人の声が重なる。それはユニゾンではなく、異なる二つの楽器が奏でる、美しい和音のようだった。
「もちろんですとも。名探偵には、有能な助手の予備軍が必要ですからね」
春の風が、洋館の窓から吹き込み、新しい物語のページを勢いよく捲っていった。内気な双子の閉ざされた世界は、こうして「隣の名探偵」という風を得て、外へと広がり始めたのである。




