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けやきの大樹。




 朝起きて食堂へ行くと、見習い料理人のミックさんがいた。私に向かい、満面の笑みを浮かべて手を振っている。


「おはようございます、ミックさん」

「おはよう、アイリーン。知り合いから聞いたんだが…あの丸いクッションを考えたのはアイリーンだってのは本当かい?」

「そうですけど」

「なら知ってるか? あのクッション、恋人たちの恋愛成就アイテムとして流行ってるんだぜ」

「へ?」


 あっけに取られてたら、周囲の人たちも会話に混ざってきた。


「そうなのよ。あのクッションを思う方にさしあげたら、恋が叶うんですって」

「もっぱらの噂だよな」

「超ご利益があるんだとよ」


 女性があのクッションを渡して告白し、お相手の男性が受け取ったらカップル成立と言われているらしい。

 なんだそれ。前世のバレンタインデーみたい。

 今世にもそういうノリがあるのかぁ。まぁ、人の思いつくことってそうそう変わらないよね。


 そんなことを考えていたら、ミックさんが照れくさげに頭を掻きながら私を見ていた。


「なぁ、アイリーン。俺にあのクッションを縫ってくれないか?」

「え?」

「こら、ミック。調子に乗るな」


 そばにいた料理人のピーターさんがミックの襟首をつまんで厨房の奥へ押し出す。


「ほら、アイリーン。お迎えだよ」

「おはようございます、アイリーンさま」

「ミリアムさま!」


 二日ぶりに会うミリアムさまは銀の髪が朝日を受けてきらきらしい。なんだかさらに美しさに磨きがかかってないか?


「私のいない間、問題ありませんでしたか?」

「はい! ミリアムさまは休めましたか?」

「もちろんです」


 食堂の人たちにいってきますとあいさつをして温室へ向かう。横に立つミリアムさまの様子をうかがうと、にっこり微笑まれた。


「どうかしましたか?」

「あの…ハンカチは渡せました?」

「えぇ、受け取ってもらえました」


 ミリアムさまの表情に憂いの影はない。よかった。

 それどころか、はにかんでいるミリアムさまは女の私でもドキドキするほどかわいい。


「アイリーンさまは夜市に行かれたんですよね」

「はい!」

「王都に来て初めてのお出掛けはいかがでした?」

「すごく楽しかったです」


 温室で次々開花したトマトを受粉させる作業をしつつ、夜市でのことを話す。

 勢い込み過ぎたか、ふいに乾いた咳が出た。


「けほん」

「大丈夫ですか?」

「平気です。今日はとても寒いですよね」

「…かまどの火を増やしましょう」


 ミリアムさまはそう言って壁際に積んだ薪を手に取る。


 この温室、最初は気付かなかったけど石壁が二重に作られていた。温室中央にあるかまどにはパイプが取り付けられていて、そこから天井と壁の間に暖気が流れ、外に出る仕組みだ。

 しかも、かまどだから煮炊きもできる。ということは湿度調整も可能。かなり高機能な温室だ。一体誰が考え出したんだろう。

 今度レイモンドさまに詳しく聞いてみなきゃ。


 午前の作業を終えると、カミラさまがランチの用意をしてくれた。


「さぁ、どうぞ召し上がってくださいませ」

「いつもありがとうございます! いただきます」


 まずはお茶を一口。

 あれ? 喉をお茶が通るとき、ちょっと痛い気がする。

 次に塩味の野菜スープ。ごろごろ野菜が喉に詰まる感じ。パンは口の中でもそもそするなぁ。


「アイリーンさま、食が進んでませんね」


 そんな私の様子をカミラさまが気遣わしげにじっと見ていた。

 平気ですって言おうとしたけど、カミラさまを見てやめる。強がりを許さないお母さんの目だ。


「はい、なんだか食欲なくて」

「朝から声もかすれ気味です。お風邪を引いたのかもしれませんね。ご気分は?」

「だるいような…眠いような…。あと寒気もします」

「それはいけません。隣の部屋で休みましょう。ミリアムさま、お手伝いをお願い致します」

「はい」


 カミラさまに先導され、ミリアムさまに手を引かれ、私のために用意したと言われたあのかわいらしい天蓋付きのベッドに横たわる。

 ふかふか具合が宿舎のベッドより良くて、動くのが急に億劫になった。


「アイリーンさま?」


 ミリアムさまの声が聞こえたけど、返事ができない。まぶたが重い。そして私はあっさり意識を手放した。








「熱があるだと? 医者はっ」

「診てもらいました。風邪だそうです」

「まさか夜市で病に感染したのか? それとも体を冷やしてしまったか…」

「感染症の症状ではなさそうです。医者はおそらく疲れが出たのでしょうと」

「急に生活環境が変わりましたからね」

「…無理をさせていたか?」


 レイモンドさまの声が気遣わしげにひそめられる。


「無理というより、緊張してたのでは? 大人びていますが、アイリーン嬢はまだ十五歳ですし」

「年が明けて、やっと十六です。そんな少女がご両親と離れ、知らない人間の中で王都暮らしですからね」

「気を張っていたのか…」


 そんな会話が聞こえてきて、私は目を開けた。天蓋カーテンの向こうはまだ明るい。


 そっか、私寝ちゃったんだ。


 寝返りを打つと、乾いた咳がこみ上げる。

 起きた気配に気付いたカミラさまがカーテンを開けて入ってきた。


「アイリーンさま、お水をどうぞ」

「あ…りがとう、ございま…す」

  

 無意識に痛む喉を押さえていたら、急須のような形の吸い飲みを差し出される。雛のように口を開ければ、ひんやりとした水がゆっくりと流れ込んできた。熱い口内にとても気持ちがいい。


「もう少し飲めますか?」

「は、い」


 やさしく笑うカミラさまの向こう、カーテン越しに人影が三つ揺れている。


「アイリーン、声がかすれてるぞ」

「はい、ちょ、と、喉が痛くて…」

「飲ませているのは水か? 薬湯は?」

「これから飲んでもらいます」


 お水を飲んだおかげか、頭が働き始めた。自分を見ると、上質な寝間着を着ている。寝てる間に着替えさせてもらったのだろう。


「少し体を起こしましょうね」

「はい…」


 カミラさまが私の背中にクッションを当てて起こしてくれた。頭が重い。油断するとぐらぐらする体をなんとか気力で支えて、渡された薬湯を飲む。


「うぇ…」

「熱冷ましのお薬です。苦いけどがんばってください」

「ひゃい……」


 舌がしびれるほど苦い。苦すぎて体もびっくりしたのか、不快な症状たちを一瞬忘れる。


「次は喉に効く薬湯を」

「はぁい…。あれ?」


 また苦いのかとビクビクして口にした薬湯はとろりとして自然の甘味があった。


「いかがですか?」

「意外…甘い、です」


 おいしさに、肩の力が抜け、しかめていた眉がほどける。

 カップに並々注がれた薬湯を飲み終わる頃には、不思議と体が軽くなっていた。


「どうだ、アイリーン」

「少し…楽になりました」

「うん、声も出てきたな」


 うれしそうなレイモンドさまの声。


「早く良くなるんだぞ」

「はい、レイモンドさま、皆様…。ご迷惑をお掛けして申し訳ありません」

「具合の悪いときは気を遣わなくていい」

「でも…」

「アイリーンさま、こういう時は私たちに甘えてください」


 カーテンの向こうからミリアムさまの声もする。途端に涙がにじんだ。やばい。私は熱が出ると気弱になるタイプだった。

 涙がどんどん出てきて、私はぐす…とすすり上げる。


「アイリーン、泣くな。どこが痛いんだ? それとも苦しいか?」


 慌てたレイモンドさまの声でさらに泣けた。やさしくされると弱い。


「おい、風邪じゃなくてもっと重病じゃないのか? カミラ、アイリーンの様子は…」

「少し落ち着いてくださいって」

「周りが騒げば休めないでしょう」

「お二方、レイモンドさまをあちらへ」


 カミラさまの要望にミリアムさまとマックスさまが応えたのだろう。レイモンドさまを引きずる音と声が遠ざかっていく。


「昔からレイモンドさまはああなんです」

「え?」

「とても心配性でして」


 苦笑するカミラさまが濡れタオルで私の首もとの汗をぬぐう。肌についた水分が気化し、すうっと涼しくなった。


「周囲の誰かが体調を崩すと、治るまであんな調子です。私たちのような身分の者にまでお気遣いくださる方で」

「そうなんですか…」

「だからレイモンドさまのために早く治りましょう。まずはゆっくり寝て下さいね」


 カミラさまは私を再び横にし、おでこに冷たく絞ったタオルを乗せてくれる。


「今晩は宿舎に戻らず、ここでゆっくりおやすみください。私がお側にいますから」


 やさしく言われ、ゆっくりと頭を撫でられているうちにまたまぶたが重くなってきた。カミラさまはまるでお母さんのようだ。


 そのまま、とろとろ眠っては起きて…をくり返す。途中で何度か心配そうなレイモンドさまの声が聞こえたりして、いつの間にか夜になっていた。


 部屋に小さな灯りが灯る。こっちの部屋には暖炉もあり、薪の爆ぜる音を聞いていたら、無性に帰りたくなった。


 でもどこに帰りたいのかな。

 両親の住む村か、あのアスファルトの国か。


 そんなことを考えていたせいだろうか。

 私の目の前に重なり合う葉と、その合間から見える青い空の映像が鮮明に浮かび上がった。


 そうか、これは夢だ。


 ヘレフォード村の中心には、けやきの大樹があった。その根元から上を見るといつもこの風景が広がっている。


 ふと大樹の根元を見ると、赤子の私がいた。ブランケットに包まれて平和そうに寝ている。


 そよそよと風が吹いて葉を揺らすと赤子の私が目を開けた。その顔に木漏れ日が降り注ぐ。

 それを捕まえたいのか、赤子の私はきゃっきゃっと笑いながらもみじのような手を伸ばした。


 こんな記憶、覚えているはずないのに。

 脳のどこか、深層心理とやらにあったのかな。すごく懐かしい。


 しばらくすると、また眠った赤子の私のそばに小さなヘビが寄ってくる。噛まれたらいやだなと思った瞬間、大樹の枝がしなり、へびを追い払った。


 赤子の私は安心して眠っている。あの大樹に守られながら。

 そして私は育った。あの大樹の元で。




 そうだ、帰りたいのは…木漏れ日が降り注ぐ、大樹に守られたあの時間だ。





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