第八十七話 アルトとリンカ
――場面は変わる。
焼け焦げた岩壁の間に、ひとつの影が呻き声と共に身を起こした。崩れた建材の間から這い出るようにして現れたのは、煙に燻されたようなコートを羽織った少女――リンカだった。
「ッ……ちょ、マジでやば……」
全身に擦り傷と煤をまといながらも、彼女は息を荒げ、周囲を見回す。
あたりはすっかり爆心地のように荒れ果てていた。焦げた木片、飛び散った瓦礫、黒く焼け焦げた床。自らが引き金となった戦闘、その末路が目の前に広がっている。
「レイジ!レイジ!!どこ?」
リンカは声を張り上げた。だが返事はない。何度も名を呼びながら、崩れかけた柱の影や、瓦礫の山を掘り返す。
「ちょっと、ふざけないでよ……!」
焦燥と怒りが混じった声が夜に響く。彼女の口調は徐々に荒れ、足元の瓦礫を蹴飛ばしながら、苛立ちをあらわにした。
「さっさと片付けないから……っ!」
叫ぶように吐き捨てて、リンカは拳を瓦礫に叩きつけた。その拳から伝わる痛みをものともせず、呼吸を荒くしながら、ふと顔をそむけた瞬間――
焦げた金属板に映った自分の顔が目に入った。
「……は?」
そこに映っていたのは、血と煤に汚れ、頬にいくつもの細い傷が走る自分の顔だった。額には氷の刃が掠めた跡が白く残り、片方の眉はかすかに焼けていた。
「ああ……? これ、マジで……ふざけんなっての……!」
言葉の調子が一気に変わる。怒りというよりも、もはや怒鳴り声に近い。
「誰の顔にこんなことしてくれてんのよ!? は? ありえないから! てか、なにこれ!? はああ!?!?」
リンカの荒れた声が空気に刺さるように響いたそのとき、突如、焦げた地面の一角に魔法陣が浮かび上がった。
淡い青白い光が円を描き、風を巻き起こす。瓦礫や埃がその魔力に引き寄せられ、次の瞬間、光の中から一人の人物が姿を現した。
「随分とご乱心ですね…リンカ様」
皮肉を孕んだ落ち着いた声と共に、現れたのは白銀の短髪に黒いマントを羽織った青年──アルト=アルバイン。細身で無駄のない所作、指先にはまだ転移魔法の残光がわずかに残っている。
リンカは怒鳴り声のまま動きを止め、振り返った。
「……アンタ、なにしに来たのよ、アルト」
その目には敵意というよりも、苛立ちと焦燥が入り混じっている。アルトは地面に舞う砂塵を無視して一歩踏み出し、冷静な瞳でリンカを見つめた。
「いや、これはまた盛大にやりましたね。顔に泥を塗られた程度で、ここまで取り乱すとは思いませんでした」
「ああ!? ふざけてんの!? こっちは命かけてんのよ!」
リンカの怒気に満ちた声にも、アルトは表情を変えない。
「ええ、だからこそ。命をかけるなら、もっと冷静に。こんな騒ぎを起こして、貴女の信頼も立場も、どうなるか……分かっていますよね?」
その言葉に、リンカの口がぴたりと止まる。
アルトはさらに一歩近づいて、彼女の肩の汚れを指先で弾くように払った。
「さて、状況の収拾は私が引き受けます。レイジさんは…どうやらこの場にいらっしゃらない時点で、そういうことなのでしょうね」
その声音は変わらず落ち着いていたが、その奥にはかすかな哀悼の気配が滲んでいた。
リンカはアルトに肩の砂を払われるのも煩わしそうに振り払いながら、唇を尖らせて言い返した。
「はぁ? あんたは何様のつもり? 上から目線で説教して……あたしがここでどんな思いしてたかなんて、分かりもしないくせに」
鋭い目でアルトを睨みつける。けれど、その奥にはかすかに揺れる動揺があった。
「そもそも、アンタ何してたわけ? こっちが泥まみれで吠えてる間、どこで優雅にお茶でも飲んでたの? それとも、また誰かのご機嫌取りにでも行ってた?」
皮肉交じりの言葉に、アルトは目を細めるだけで取り乱す様子もない。リンカの苛立ちと疲労は明らかで、余計にその冷静さが癇に障ったようだった。
アルトは一瞬だけまぶたを伏せ、リンカの言葉の棘を真正面から受け止めるように静かに息を吐いた。彼女の疲れと怒りを、そのまま拒絶せずに飲み込むように。
わずかに口元を引き結び、まぶたを閉じたまま、静かに言葉を紡ぎ始めた。
「ご機嫌取り……か。言い返す言葉もありません。少なくとも、彼らの期待には応えてきたつもりです。ええ、あの愚かしいギルベルトにもね」
その名が出た瞬間、リンカの眉がぴくりと動いた。
「ギルベルトには、重用されましたよ。ラグド王国兵士団長閣下にしては、あまりにおめでたい思慮の浅さでしたがね。私がどれほどの情報を吸い上げ、どれほどの策を巡らせていたか……あの人は最後まで気づかなかった」
言葉の端には、冷えた嘲りが混じっていた。アルトはそのまま、ゆっくりとリンカの方に目を向ける。
「愚将は獣人排除計画を遂行するどころか、国民の間では獣人を好意的に見るものもはや少なくない。あれでは兵士団の威信も民の信頼も地に落ちる…我々が国を奪う好機が、整ったも同然でしょう…」
「我ら天泣…!力を持つ者が立ち上がり…力を持つ者こそが正しい…そうでなければ、この国は永遠に歪んだままだ」
アルトの声は徐々に熱を帯びていった。もはや抑えきれない信念のように、静かな語調の中にも鋭い決意が滲んでいた。
リンカは面倒くさそうに髪をかき上げながら、椅子の背にゆったりともたれかかる。
「はいはい、ご演説おつかれ。で?具体的に何から始めるわけ?ギルベルトの首でもチャクラムでザクっと?」
アルトはリンカの軽口に一瞬だけ眉をひそめたが、すぐに冷静な微笑みを浮かべた。
「それはいずれ…愚将にはこの国の行末を見せてもらわねばなりません。滅びゆく王国の象徴として、民の前にさらすのです」
アルトは静かにそう言いながら、机の上に広げられた地図へと手を伸ばした。そこには王都を中心に印がいくつも打たれ、各地の駐屯地や兵士団の動きが記されている。
「獣人のパーティも引き入れたかったですが、もはやそれは叶わぬ願いでしょう」
アルトの声は、名残惜しむというよりも、淡々と事実を受け入れるような冷ややかさを帯びていた。
「……面倒な相手は貴方が退けてくださった。実に、助かりましたよ。ええ、できることなら“倒して”いただければ、なお良かったのですがね」
リンカはあくびを噛み殺しながら、あからさまにやる気のない様子で指をくるくると回す。
「あんたが倒して欲しいんだか、生け取りにするんだかどっちつかずな口ぶりだから、ウチもやりづらいっつーの。命令するなら、はっきりしてほしいんだけど?」
そう言いながらリンカは、椅子を軽く揺らし、足を組み直す。その態度は飄々としているが、その奥にある緊張感はアルトも感じ取っていた。
「……貴女には“自由に”と伝えたはずです」
「うん、それが一番めんどくさいんだよねー。自由って、責任も自由ってことじゃん? ウチがしくじったら、“判断ミスでした”ってことにされそうでコワ〜い」
アルトはその言葉にわずかに笑った。
「それでも貴女は、必ず結果を出す。私はそう信じていますよ、リンカ」
「そ。まぁ、信じるのはタダだし、好きにしていいよ?」
気だるげな笑みを浮かべながらも、リンカの瞳の奥には確かな鋭さが宿っていた。やると決めたときの彼女がどれだけの力を発揮するか――アルトも、それをよく知っていた。
そして、作戦の準備は着々と進みつつあった。





