第八十六話 完成
ワタルはスノーとハウンの語らいを思い返しながら、文献室の隅でつぶやくように言った。
「……そっか。そんなことがあったんだな、ふたりの間に」
ハウンは椅子に深く腰かけ、すこしだけ照れくさそうに視線を逸らしながらも、落ち着いた声で応じた。
「別に、大した話じゃないわ。ただ……スノーと話してて、少し思い出したの。最初に私が誰かのために力を使いたい”って思ったときのこと」
そう言って、彼女はそっと手元の文献に視線を落とした。
ワタルは静かにうなずいた。
「誰かのために力を使いたいって思った時……私は、無力な自分が悔しかった。でも、気づいたの。力を得たからといって、それを上手く使えるとは限らないって」
ハウンは一度、静かに目を閉じた。そして再び開いたその瞳には、確かな光が宿っていた。
「……でもね、今ならわかる気がするの。私に足りなかったのは、“誰かに力を使いたい”って気持ちを、“繋げること”だったんだって」
「繋げる……?」
ワタルが聞き返すと、ハウンはうなずいた。
「回復魔法って、一方通行のようで、実は相互の信頼で成り立ってるものよね。私が癒したいと思う気持ちと、あなたたちが受け入れてくれる気持ち。……それが重なって初めて、魔法の本当の力になる」
彼女はそう言って、文献の一節に指を置いた。
「ここ。“可変式連携魔法理論”。個人の魔力の循環に、対象者の魔力反応を取り入れることで、効果の最適化を図る……ってある。たぶんこれが鍵になる」
「んん?どういうこと?」
ハウンは文献に指を滑らせながら、静かに説明を始めた。
「つまりね、従来の回復魔法は“癒す側が魔力を送り、受け手はそれを受け取る”という構造だったの。でもこの理論では、受け手の魔力にも働きかけて、回復の流れを“循環”させるの」
「循環……?ってことは、受け手の方も何か“力”を使うってこと?」
「正確には“力を貸す”って感じかしら。受け手の魔力が、癒しの流れを自動的に“迎えに行く”ようになるのよ。結果として、私の負担も減るし、効果も安定する。うまく調整すれば、複数人との連携だって夢じゃないわ」
ワタルは思わず目を見開いた。
「そんなのが……できるのか? それが実現したら、ハウンの回復魔法って、とんでもない武器になるじゃん」
「ええ、だからこそ、挑戦してみる価値はあると思うの。私ひとりじゃ完成させられないけれど……」
ハウンは一呼吸おいてから、ふっと優しく微笑んだ。
「……私ひとりじゃ完成させられないけれど、ね」
彼女の視線が文献からワタルへと移る。そこには、静かな確信が宿っていた。
「でも、ここまで一緒に苦しい時も、楽しい時も乗り越えてきた……あなたたちとなら、きっとできるって思えるの」
回復魔法の革新。それは単なる新しい技術ではなく、彼女にとっては「信頼」の象徴でもあった。
「魔力を“迎えに行く”には、ただ力を貸すだけじゃだめ。癒す側と癒される側の間に、確かな“つながり”がないと、この循環は成立しない」
ハウンは小さく頷きながら、文献をそっと閉じた。
「だから、これは私の魔法だけど、私ひとりの魔法じゃないの。あなたたちと一緒だからこそ、完成できる――そういうものなのよ」
その言葉には、ワタルたちと過ごしてきた日々への想いが、しっかりと込められていた。
文献室にこもる日々が続いた。
試行錯誤の繰り返し。条件式の調整、魔力の分配、対象への適合性。夜が明けてはまた暮れ、ハウンは根気強く、慎重に一歩ずつ進めていった。
その間、ワタルはもちろん、ファングやスノー、サヤも交代で実験に付き合い、時には魔力の流れを確認しながら意見を出し合うこともあった。まるで共同研究のようだった。
ある夜、ハウンは慎重に手を掲げた。対面するのは、軽い身体強化で肩にわずかな負荷をかけたワタル。これまで幾度となく繰り返してきたやり取り。だが、今回は違っていた。
「……いくわよ。今度こそ」
ハウンの両手から放たれた回復魔法は、今までよりもずっと澄んだ光をまとっていた。柔らかく、けれど確かに芯を持った魔力が、ワタルの肩にふわりと降り注ぐ。
瞬間、空気がすっと静かになる。蝋燭の火が揺れもしないほど、張り詰めた魔力の糸がぴたりと調和した。
「……あ」
ワタルが、ゆっくりと肩を回す。
「すごい……さっきまであった張りが、綺麗になくなってる。しかも、強化魔法の“芯”はそのままだ。魔力の流れが残ってる」
「えっ、本当に……?」
ハウンは思わず近寄り、ワタルの魔力の状態を掌に感じ取る。
それは確かに、強化の痕跡を保ちつつも、疲労だけを綺麗に取り除いた、理想的な結果だった。
そして何より――
「……疲れてない……」
ハウン自身が驚いたように呟いた。これまでの試行では必ず魔力の偏りと反動により、術者の側に疲労が残っていた。だが今回は、魔力の循環が安定していた。
「魔力が……ちゃんと、受け手からも返ってきてる。つながりが、循環になってるのね……!」
それはまさに、彼女が目指していた回復魔法の完成だった。
扉の外で見守っていたスノーが、歓声をあげる。
「やったじゃない!ハウンちゃん!ついに完成ね!」
「ようやくか……」
ファングが壁にもたれたまま、低く言葉を漏らす。その声には、長い試行錯誤の過程を見守ってきた者にしか出せない、安堵と誇りがにじんでいた。





