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第八十五話 ハウンとスノー

「……いいえ…もう少しだけ……」


そのとき、廊下の方から小さな足音が近づいてきた。ぱたぱたと軽快なリズムに続いて、ふわりと扉の隙間から声が届く。


「ねえ、起きてるー? なんか中、明るいけど?」


スノーだった。その声に続くように、重めの足音が近づく。


「せっかく寝てたのに叩き起こしやがって…スノー…お前はほんと落ち着きがねえな」


低く不機嫌そうな声はファングだった。半開きの扉から顔をのぞかせる彼の髪は少し乱れていて、どうやら本当に寝ていたらしい。スノーは悪びれもせず、にこにこと笑って言い返す。


「だって、明かりがついたままだったから気になったのよ。ね、サヤちゃん?」


「うるさくしないと死ぬ病気なのかもね、スノーは」


「かもじゃなくて絶対そうだろ…でなきゃ説明がつかないこの騒がしさは」


ファングがぼやくように言うと、スノーは肩をすくめて笑った。


「もう、みんなしてひどい!トイレに起きたらハウンちゃんはいないし、部屋から声が聞こえたしで気になっちゃたんだから」


スノーはぷくっと頬を膨らませて言い訳するが、その仕草に誰もが自然と力の抜けた笑みを浮かべる。サヤも軽く肩をすくめて、呆れ半分の声で返した。


「まあ、それはいいとして、二人は何をしてたの?」


問いかけながら、サヤの視線は自然とワタルに向いた。その瞳には興味と、ほんの少しの不安が混ざっていた。


「そういうことなら――」


一通り説明をした後にぱん、と軽く手を打って、スノーが一歩前に出た。


「ちょっと待ってて! 甘いもの持ってくるから!」


「えっ、こんな時間に? っていうか、どこから?」


ファングがやや呆れたように聞き返すが、スノーは意気揚々と指を立てて笑った。


「ふふーん、神父さんにお願いして、カナタたちと作ったクッキー、少しだけ隠しておいたの! 本当は明日みんなで食べるつもりだったけど……ちょっとくらいならいいよね?」


そう言うと、スノーはぱたぱたと廊下を駆けていった。


「……ほんと、元気だな、あいつ」


ファングが肩をすくめると、サヤはにやりと笑いながら、小さくつぶやいた。


「……お菓子…お菓子…クッキー……甘いやつ……」


その呟きは完全に無意識で、目がどこか遠くを見ている。ワタルが思わず吹き出しかけると、サヤははっと我に返って、慌てて咳払いをした。


「考えるのには甘いものが必要なの。別に、食べたかったわけじゃなくて…その、頭を回すためにね」


サヤはそう言って、目をそらしながら髪を耳にかけた。顔はほんのり赤く、誰かがその言い訳に突っ込む前に、そそくさと椅子に腰かける。


ハウンは、差し出されたクッキーをひとつ手に取り、口元へと運んだ。小さくかじると、ほろりと崩れる食感と、やさしい甘さが舌の上に広がる。


「……なんだか、懐かしい味ね」


ぽつりとつぶやいた彼女は、ふっと目を細める。瞳の奥に浮かんだのは、遠い記憶の残響だった。


「え?」


スノーが首をかしげると、ハウンは頬杖をついて思い出すように目を細めた。


「昔もそうだったわ。“頭を使う時は糖分を取らなきゃ”って言って、クッキーばっかり食べて、宿題はまったく手をつけなかったくせに」


「えー! ちょ、ちょっと待ってよ、それ今ここで言う!?」


スノーが顔を真っ赤にして肩を跳ねさせると、ファングはにやりと笑い、ワタルもつい吹き出してしまう。


「だって本当のことだもの。……ふふっ、でも、あの頃と変わらないわね。こうやってみんなを和ませてくれるところ」


ハウンのその言葉に、スノーは一瞬だけ口をつぐみ、少し照れくさそうにクッキーの包みを指でいじった。


「……そっか。じゃあ、成長してないってことかな」


「ううん。そんなことはないわ。でも変わらないことだって人の良いところだと思うの。スノーのそういうところ、私は好きよ」


ハウンは柔らかく微笑みながらそう言った。その言葉に、スノーは思わず口元を緩め、照れ隠しのようにクッキーを一つ口に運んだ。



スノーはそっと頷き、サヤも静かに視線を向ける。ファングは黙って腕を組みながら、それでも耳を傾けていた。


「……そんな私に、最初に話しかけてくれたのが、スノーだったの」


ハウンはそう続けながら、隣のスノーを見て微笑む。


「覚えてる? 突然、机にクッキーを置いていったあの時」


**********

時はラグド内戦終結から2年後。


**********


瓦礫の影にようやく草花が芽吹き始めた春の初め、まだ冷たい風が残る季節——ハウンが11歳だった頃の話である。


自身の机の上にとんとクッキーを置かれたハウンは困惑していた。



(え…なに…この状況…)


木製の机の上に、紙にくるまれたクッキーが一枚。粗末な包装だが、ほんのり甘い香りが漂っている。


(大体学校に持ってきちゃいけないものじゃない…。誰かが間違えておいていったのね…)


ハウンはゆっくりと顔を上げた。昼食後の教室には、次の授業が始まるまでクラスメイトが思い思いに過ごしている。


(誰が……?)


こっそりと机の周りを見渡す。だが、それらしい動きをしていた者も見当たらない。


「ハーウンちゃん!」


「ひゃあ!」


驚いて身をすくめたハウンは、思わず声を上げて振り向いた。そこには、金色の髪を揺らして笑う少女——スノーが立っていた。目を細めてにこにこと笑う彼女は、まるで人懐っこい猫のように自然に距離を詰めてくる。


「そんなに驚かなくてもいいじゃない。ほら、それ、私が作ったの! 朝、手伝いながらこっそり取っておいたんだよ?」


スノーはハウンの机の上のクッキーを指差しながら、得意げに胸を張る。


ハウンはその言葉にぽかんとしたまま固まった。自分にお菓子をくれるなんて、ましてや「話しかけて」くれるなんて、想定していなかったからだ。


「……なんで、私に?」


ようやく出たその問いは、思わず口から漏れたものだった。


だが、スノーは首を傾げて、何のてらいもなく言った。


「なんでって、仲良くなりたいからに決まってるでしょ? だって同じクラスだし、最近いつも一人で本読んでるから、話しかけたら嬉しいかなって思って!」


その言葉に、ハウンは言葉を失った。突拍子もなくて、子どもらしくて、それでもまっすぐで眩しいほど純粋な気持ち。


でも…


「……私は別に、ひとりでも平気だから。本を読んでるのだって勝手でしょう?」


スノーは一瞬だけきょとんとしたあと、ふふっと笑った。


「うん、そうだね。だったら私も勝手に話しかけるね。」


スノーの言葉は軽やかだったが、その瞳にはまるで「それがいけないこと?」とでも言いたげな揺るぎのない光が宿っていた。


ハウンはスノーの笑顔をじっと見つめた。


その明るさが眩しかった。あまりにまっすぐすぎて、獣人として散々虐げられた自分のような人間には到底向けられるはずのない光のように思えた。


「……なに、それ」


ハウンの声は低く、ほんの少しだけ刺があった。


「勝手に話しかけて、勝手に仲良くなろうとして……。あなたにはそれが普通なのかもしれないけど、私はそんなの、迷惑なの」


(同じ獣人なのにどうしてそんなに明るくいられるの?私は…。やっぱり学校なんか通うんじゃなかった。)


そのままハウンは顔を伏せ、膝の上の本をぎゅっと握りしめた。ページは開かれたままだが、もう内容なんて目に入っていなかった。


スノーは、そんなハウンの様子をじっと見つめていた。しばらくの沈黙が二人のあいだを流れた。


「あんた達!お菓子なんて学校に持ち込んで!」

教室の扉が勢いよく開かれると同時に、鋭い声が飛んだ。教師の目が真っ先にテーブルの上の包み紙に注がれる。


「まずいっ」


スノーがそう呟くよりも先に、ハウンの目が驚きに見開かれる。


「ハウンちゃん、立って!逃げるよっ!」


「えっ、ちょ——」


有無を言わせず、スノーはハウンの手をぎゅっと握ると、まるで風のような勢いで教室の後方の扉に駆け出した。ハウンの椅子ががたりと音を立てて倒れる。


「そこのふたり!止まりなさ——!」


教師の声が背後から追ってくるが、スノーは気にも留めず廊下に飛び出した。


「ちょ、ちょっと……!どうして私まで……!」


ハウンは半ば引きずられるようにしてスノーに走らされながら、息を荒げる。


「だって黙ってたら一緒に怒られるでしょ!だったら走った方が楽しいって!」



「楽しくなんてないわよっ!こ、こんなの不良じゃない!」


「えーっ、走ってるだけだもん!それにさ、たまにはこういうのも青春って感じしない?」


「しない!!」


ハウンが必死に抗議するのもどこ吹く風、スノーは笑顔のまま角を曲がり、階段を駆け下りる。風が制服の裾をばたつかせ、ふたりの足音が校舎中に響き渡る。


後ろからは、教師の怒号と足音が追いかけてくる。


「逃げ足だけは一流ねっ……!」


「でしょ?私、足にはちょっと自信あるんだー!」


「まったく、反省の色がないわね……!」


ハウンは息を切らしながらも、スノーの手を振り払うことはしなかった。むしろその手のぬくもりと、勢いのある笑顔に、どこか不思議な安心感を覚えていた。


「はあ、はあ……で、どこに逃げるのよ……!」


「決まってるじゃん!屋上だよ、屋上っ!」


「余計逃げ場ないじゃない!」


ふたりは全速力で階段を駆け上がり、最上階へとたどり着く。スノーが勢いよく屋上の扉を開け放ち、ふたりは風の中に飛び出した。


「はぁーっ、気持ちいぃー!」


スノーは大きく両手を広げて深呼吸をした。青空が頭上に広がり、街の音が遠く聞こえるだけの世界に、教師の怒声はもう届かない。


「もう……ありえない…」


ハウンは肩で息をしながら、スノーに向かって小さく呟く。


スノーはふと、そんなハウンを横目で見て、ふにっと笑う。


「でもさ、ちょっとだけ楽しかったでしょ?」


「……はぁ? そんなわけないでしょ。もう戻るわ……友達になった気でいないで」


言い放ってから、ハウンは自分の言葉の冷たさに、ほんの少し眉をひそめた。スノーの無邪気な笑顔が脳裏に残り、胸の奥がきゅっと締めつけられるように痛んだ。


(……ごめんなさい。でも、簡単に信じるわけにはいかないの)


心の中でそう呟きながらも、ハウンは自分自身の影を振り払うことができなかった。内戦のさなか、そしてその後の混乱の中で、彼女はあまりに多くのものを失い、傷つき続けてきた。


かつては「友達」と呼べる人がいた。笑い合った日々も、確かにあった。けれど――獣人に覚醒してから、その関係は一変した。


「化け物」「裏切り者」「人間じゃない」


投げつけられた言葉は、どれも心に深く突き刺さっている。恐れ、侮蔑、憐れみ。そのすべてがハウンを孤独にし、心を閉ざす理由になった。


そんな中、スノーは――同じ獣人のはずなのに、なぜあんなふうに笑っていられるのか。なぜ、あんなに素直に人を信じ、心を開けるのか。


平気な顔で笑って、人と接して、手を伸ばしてくる。その明るさは時に希望のようであり、同時に恐ろしくもあった。踏み込まれるのが怖かった。心の奥に隠した弱さが、明るい光に照らされてしまうようで。


家では、両親も祖母も優しかった。内戦が落ち着いてからは、学校へ通うための準備も整えてくれた。でも、「いやだ」とは言えなかった。周りの善意に背くことも、自分の弱さをさらけ出すこともできず、ただ流されるように学校へ通っている。


スノーのことも、きっと――


(悪い子じゃないのは分かってる。でも、信用するには……私にはまだ、勇気が足りない)


「ひやっ……!」

不意に首筋をなぞるような冷気に、ハウンは肩をすくめ、身を縮めた。


「いったい、何をしたの……?」


少し震える声で振り向くと、そこにはスノーがにこにこ顔で立っていた。指先には、うっすらと白い霧のようなものが残っている。


「魔法だよ♪ ちょっと冷たかった?」


スノーはいたずらっぽく笑いながら、指をぴっと振って見せた。


ハウンは一瞬ぽかんとし、それから驚いたように目を見開いた。


「……それ、本当に魔法なの?」


「うん。氷の魔法、ちょっとだけね」


「でも……魔法って、普通は魔術学院で習うものでしょう?」


ハウンの言葉に、スノーは得意げにチッチッチと人差し指を振りながら、胸を張って答えた。


「ミヤビさんっていうすごい魔法使いのお姉さんがね。旅の途中でその時、ちょっとだけ魔法の“コツ”を教えてくれたんだ。私は獣人の持ってる不思議な力で案外早く覚えたの。コツさえつかめば、氷のカケラくらいならぱっと出せちゃうんだから!」


そう言ってスノーはもう一度、指先に小さな氷の結晶を生み出してみせた。淡い青の光をまとったそれは、空気中にきらりと冷たいきらめきを残して、すぐに溶けて消えた。


ハウンは目の前で輝きを放った氷のかけらを、信じられないように見つめていた。スノーの指先から生まれたそれは、ほんの一瞬で消えてしまったけれど、確かにそこに“魔法”が宿っていた。


「……すごい」


ぽつりと漏らしたその声には、驚きと感嘆が入り混じっていた。


スノーは嬉しそうに胸を張りながらも、いたずらっぽくウィンクする。


「やっと笑ってくれた!」


ハウンは一瞬きょとんとした後、はっと気づいたように唇を結んだ。けれど、目元には確かに柔らかな緩みがあって、何かがふっと軽くなったようだった。


「……そういうの、ずるいわ」


「えっ、なにが?」と首をかしげるスノーに、ハウンはわずかに笑みを深める。


「……ねえ、スノー。あなたは……悩んだりしなかったの? 自分が……獣人であることに」


その問いかけに、スノーは一瞬だけ表情を曇らせた。


けれど、それはほんのわずかな間だった。彼女はゆっくりと視線を落とし、手のひらを見つめるようにして、そっと呟いた。


「もちろん……辛かったよ。怖かったし、悲しかったし。最初に耳が変わったときなんか、どうしていいか分からなくて……」


声は静かだったけれど、その一言一言には、深く沈んだ時間と感情がにじんでいた。


「友達に避けられたこともあるし、お客さんにびっくりされて、うちの宿に来なくなったこともあったんだ。」


スノーは笑うでもなく、泣くでもなく、ただ過去を静かに語っていた。けれどその声音には、どこか強がりにも似た芯の強さがあった。


スノーは少しの間、手のひらを見つめたまま黙っていたが、やがて顔を上げて、ほんの少し笑った。


「……でもね、私、強くなったって思うの。お耳もそうだけど、力も……ちゃんとついてきたの」


そして、胸を張るように軽く両手を握って言った。



「だから、それを……誰かのために使えたらって思ったの。せっかく強くなれたんだから、“役に立ちたい”って、そういうの。なんか、正義の味方ごっこみたいだけど……」


少し照れくさそうに笑ったその表情は、どこか子どものような純粋さがにじんでいた。


「うちの宿、またいっぱい人が来るようになったらいいなって。私、がんばるんだーって、思ってるの!」


「ふふっ…あなたって強いのね…強いのね」


その言葉には、ただの称賛ではない、どこか羨望のような響きがあった。


「えへへ……うーん、強くなりたくて強くなったわけじゃないんだけどね。でも、どうせなら“なっちゃった自分”で笑える方がいいかなって思って」


スノーはそう言って、ぱたんと手を組んで自分の耳に触れる。


「ほら、耳だってさ、かわいいでしょ? 笑顔も魔法みたいでちゃんと人をあったかくできるんだよ」


そう言って、スノーはふわりと笑った。まるでそこに灯がともったかのような、柔らかく明るい微笑みだった。


その言葉に、ハウンは小さく目を見開いた。しばしスノーの耳と笑顔を交互に見つめて、それからふっと息を吐いた。


「可愛いなんて自分で言うことなのかしら」


ハウンは呆れたように言いながらも、口元に笑みを浮かべていた。ほんの少し、頬の緊張が緩んでいる。


「ねえ、スノー。私にもなれるかしら…なっちゃった自分で、笑えるように」


ハウンはスノーと語り合い、ときにふざけ、ときに真剣にぶつかることで、自分の内側にある“怖れ”と向き合うようになった。


そして、少しずつだが、ありのままの自分を受け入れるということが、どういうことかを考えるようになっていた。


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