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第八十四話 ハウンと回復魔法

(ハウンも夜更かししてたじゃないか。あれだけ人のこと言っておいて……)


苦笑まじりにそう思いながら、ワタルは中庭を後にし、静かな廊下を歩いていく。


ふと、修道院の奥まった一角──文献が保管されていると説明された部屋の前を通りかかると、扉の下からかすかに明かりが漏れていることに気づいた。


(こんな時間に……?)


誰かが中にいるのか。けれど、この時間に? 


ワタルは足を止めた。行っていいのか、それとも立ち去るべきか。躊躇が生まれる。


それでも好奇心と、どこかひっかかる直感のようなものが、ワタルをその場に留まらせた。


(少しだけなら……)


そう自分に言い聞かせて、そっと扉に近づく。ぎし、と床が鳴らないように注意しながら、扉の隙間へと視線を落とす。


明かりの向こうには、人影がひとつ──


誰かが机の上に何かを広げ、静かに文献を読み込んでいた。ローブの袖が揺れる。


(あれは……)

ワタルは思わず、息を呑んだ。


(……ハウン?)


扉の隙間から見えたのは、長い髪を背に流したひとりの女性の姿。光に照らされ、机の前に静かに座るその横顔は、間違いようがなかった。


(どうして……)


ほんの少し前まで、あの中庭に一緒にいたはずの彼女が、今はこうしてひとり文献に向かっている。


ハウンは厚みのある書物のページをゆっくりとめくりながら、小さく何かを呟いていた。声の内容までは聞き取れないが、その口元は真剣で、どこか切実さを帯びている。


(ハウン……まさか)


彼女の表情は普段と変わらず静かで凛としていたが、どこか迷いを秘めたような影があった。


(……何を、調べてるんだ?)


ワタルの胸に、微かな不安と興味が芽生える。けれど、これ以上覗き込むのは、きっと彼女の領域を踏み越えることになる。


──その時、ハウンがふと顔を上げた。


「あら覗き見?」


ワタルは息を呑んだ。


「……ハウン」


気づかれたことに軽く動揺しつつも、彼女の口調はとがめるでも驚くでもなく、むしろ静かで、どこか冗談めいていた。


ハウンは椅子に座ったまま、軽くこちらを振り返る。その顔には、静かな微笑みが浮かんでいた。


「そんなにこそこそしなくてもいいのに。……ワタルが覗いてくるなんて、珍しいわね」


「いや、あの……光が漏れてたから……気になって」


言い訳のように口にしたワタルに、ハウンはくすりと笑う。


「そう。なら、ちょうどよかったわ。……少し、話してもいい?」


その声音には、どこかいつもの毅然とした雰囲気とは違う、柔らかさと——ほんのかすかな迷いが混じっていた。


ワタルは数秒だけ躊躇い、それから扉をそっと開けて、文献室の中へと足を踏み入れた。


文献室の中はしんと静まり返り、蝋燭の明かりが揺れるたび、書棚の影が長く伸びていた。


ハウンは机の上の文献をそっと閉じ、椅子の背に身を預けた。その視線が、入ってきたワタルに向けられる。


「あなた、今日ずっと……何かを飲み込んでたわね。中庭でも、食堂でも」


その言葉に、ワタルは一瞬だけ視線を逸らした。けれど否定はしなかった。


ハウンは言葉を選ぶように、静かに続けた。


「もしかして……カナタと出会えたはずなのに、元の世界に戻れなかったことが、心に引っかかってるんじゃない?」


その声は決して詰問ではなく、ただ真っ直ぐで、優しかった。


ワタルは驚いたように目を見開いたあと、すぐに微かに笑った。


「……ちがうよ。ううん、ちょっと違う」


元の世界に戻れるのだということ…今は言えなかった。


ハウンは黙って聞いている。ワタルは文献の脇に腰を下ろし、膝に手を置いた。


「……このパーティが、好きなんだ」


その一言に、ハウンの瞳がわずかに揺れる。


「みんな優しくて、強くて、真っ直ぐで。俺みたいに何も持ってないやつでも、ちゃんと必要としてくれる」


蝋燭の光が揺れて、ワタルの影が床に長く伸びる。彼の声はどこまでも静かだったが、その内側には確かな熱がこもっていた。


「最初は何をすればいいのかも分からなかったし、自分に何かできるなんて思ってなかった。でも……みんなと一緒に戦ってきて、今は少しだけ思えるようになったんだ。俺にも……できることがあるって」


言葉の端に、微かな自信と、温もりのようなものが滲んでいた。


「……だから、この世界が好きになった。天泣を倒して、みんなが笑って過ごせるような世界を、ちゃんとこの目で見届けたい。そう思ったんだ」


ハウンはじっと、彼の横顔を見つめていた。ワタルの瞳には迷いも不安もあったが、それ以上に、強い決意の光が宿っていた。


「今じゃなくても帰らなきゃ行けない時は来るとは言われたんだ…許される限りはここにいたい。」


そう締めくくった。


一つ嘘をついた。でもみんなと一緒にいたいことは嘘じゃない。


ハウンはそっと微笑んだ。


「……ありがとう。あなたがそうやって、この世界を選んでくれることが、私にはとても嬉しいの」


ハウンの声は、蝋燭の火のように柔らかく、静かながら胸に染みるものがあった。


「ワタルって時々、自分をすごく小さく言うわよね。でも、あなたがいたから救われた人は、ちゃんといるのよ。私も……その一人」


ワタルは驚いたようにハウンを見た。だが、ハウンはいたずらのようにふっと微笑んでみせた。


「……だから、自信持っていいの。自分がこの世界にいていい理由なんて、そんなに難しく考えなくても……」


言いかけたハウンの言葉がふと止まる。視線が一瞬だけ宙を彷徨い、少しだけ、熱を帯びた。


「あなたがここにいたいと思ってくれるなら、私は……その理由のひとつになれたら、って」


その声は小さく、まるで蝋燭の灯りに溶けるようだった。


ワタルは、思わず視線を逸らした。頬がほんのり熱を帯びていくのが、自分でもはっきり分かる。


「……なんか、めっちゃ照れる……ハウンに、そんなこと言われるとさ」


彼は頭をかきながら、苦笑混じりに呟いた。その仕草はいつものワタルらしくて、けれど今はどこかぎこちなさも混じっていた。


「そ、それでさ!ハウンはなにをしてたの?ハウンだって身体を休めなきゃ!」


「気遣ってくれてありがとう…どうしても手詰まっちゃってて…私の回復魔法のことなんだけれど…これからの戦いに今の力じゃ追いつかないと思って」


その声は自嘲気味でありながらも、どこかに真剣な焦りを滲ませていた。


「でもその魔法のおかげで、俺はこの通り助かったんだ。……だから、十分すごい力だよ」


「戦いの場そんな綺麗ごとだけじゃ済まないこともあるの。……本当に、そう思い知らされたのよ。回復は全然間に合ってなかったし、アルマが逃してくれなかったら…」


ハウンはそう言いながら、机の上に積まれた文献に手を伸ばした。指先がかすかに震えているのを、ワタルは見逃さなかった。


「でも落ち込んでばかりいられないわ!ちょっと魔法にかかってみてくれるかしら?」


ワタルは一瞬きょとんとした表情を浮かべた。


「……魔法に、かかってみる?」


「ええ。いま試してるのは、私の身体の負荷を最小限にしつつ、回復の時間を縮めたいの。理論上はうまくいくはずなんだけど……」


そう言ってハウンは文献をそっと閉じ、立ち上がるとワタルの前に歩み寄った。


ワタルは冗談めかした調子で頭をかきながらも、ふと何かを思いついたように指を鳴らした。


「……じゃあ、ちょっと提案。オレ、軽く身体強化魔法をかけて負荷をかけてみるよ」


「え?」


ハウンがわずかに目を丸くする。


「今の状態だとオレ、ほとんど健康体だしさ。回復魔法の効果を試すには、多少なりとも“治すべき状態”がなきゃわからないかなって。 ちょっと筋肉に刺激入れて、軽く痛みを出してみる」


ハウンはワタルの言葉に一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐにその意図を理解したように小さく頷いた。


「なるほど……確かに、理にはかなってるわね。あなたの強化魔法なら、調整もできるし」


「でしょ? もちろん本当に危ない無茶はしない。あくまで“ちょっと疲労してる”ってくらいの状態に留めておくさ」


ワタルはそう言うと、軽く息を吸い、集中するように目を閉じた。掌にわずかに魔力が集まり、薄い光が浮かび上がる。


(ほんの少し、筋肉を収縮させる程度に……よし)


淡く光った魔力がワタルの身体を包み込み、次第に肩から腕にかけて微かな熱を帯びたような感覚が広がっていく。数十秒後、彼は肩を一度ぐるりと回してから、苦笑混じりに言った。


「よし、軽く張ってきた。ちょっとだけだが、疲労感もある」


ハウンは真剣な眼差しで彼を見つめた。


「無理しすぎないで。じゃあ、いくわよ……」


彼女は両手をそっと重ね、祈るような動作で魔力を練り始めた。回復魔法特有の淡い光がハウンの指先に集まり、柔らかな輝きがワタルの肩へと降り注がれる。


静寂のなか、光がふわりと溶けるように彼の肌へ馴染んでいった——。


「すごい!身体が楽になった!大成功…いやでも…」


ワタルは肩を軽く回しながら、慎重に言葉を選んだ。


「……いや、やっぱり少しだけ、だな。筋肉の張りはすっかり取れてるし、疲労も消えた。でも、同時に強化魔法の“張り”までとれた気がする」


「なるほどね…戦っている時にそれは困るわね」



ハウンは顎に手を添えて、思案するように小さく唸った。机に戻ると、手元の文献をぱらぱらとめくりながら、呟くように続ける。


「回復の範囲が広すぎるのよね。怪我や疲労だけじゃなくて、“一時的な変化”――つまり、強化魔法による負荷も異常と判断して、全部リセットしちゃう」


「魔法から見たら、筋力が異常に上がってる状態なんて“正しくない”ってことか」



「そう。だから、限定的にする必要があるわね。傷や炎症にだけ反応する、とか……たとえば“魔力由来の状態異常を除外する”条件を加えるとか」


「おぉ、そうやって設定できるのか」


「難易度はぐっと上がるわ。……でも、できないと意味がないもの」


ハウンはそう言って、文献に指を滑らせながら、ふっと微笑んだ。


「でも、今の結果でも希望はあるわ。ちゃんとあなたの疲労は取れたし、時間も短くできた。……あなたの協力のおかげね」


「ま、オレにできるのは“ちょっと疲れる”くらいだからな」


ハウンは小さく笑いながら、椅子にもたれかかった。


「やっぱり、回復魔法をここまで細かく調整するのは簡単じゃないわね。集中も魔力も使うし……」


そう言いながらも、彼女の瞳はまだ文献に向いていた。何度か目を閉じ、魔力の流れを思い描くように胸元で手を組み、静かに呼吸を整える。そして再び手を掲げると、そっと魔力を練り始めた。


「もう一回だけ……うまくいく気がするの。何か、さっきとは違う感覚があるのよ」


「……ハウン」


ワタルはその表情を見て、ほんのわずかに眉を寄せた。額に汗を浮かべる彼女の姿は、明らかに疲労を滲ませている。だが、その眼差しには確かな情熱と意志が宿っていた。


ワタルは少し黙ってから、なるべく柔らかい口調で言った。


「今日はここまでにしよう。成果はあったんだし、無理して倒れたら意味がないよ。……明日、また続けよう。な?」


ハウンはわずかに手を止めて、ワタルの言葉を受け止めるように目を閉じた。数秒の沈黙のあと、ふっと力が抜けたように息をついた。



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