第八十一話 扉の向こう
(……俺たちの“今”を守るために。ちゃんと向き合わないと。)
そう思いながら、ワタルは静かに拳を握りしめた。
そして——
廊下の一番奥、重たい扉の前に立ち止まる。
かすかに差し込む光が、部屋の中の静けさを際立たせていた。
ワタルはそっと息を吸い込み、そしてノックもせず、静かに声をかけた。
「……ファング。俺だ。入るぞ。」
すると扉が勢いよく開く。「あ、痛っ、痛っ——!」
扉のノブに手をかけた瞬間、向こう側から急に開かれ、ワタルの額に軽くぶつかった。
そこにいたのは、まさしくファングだった。
乱れた髪、深く落ちた目の下の影。長い時間、何かを抱えて押し潰されそうになっていたような顔つきだった。
「……ワタル……?」
低く掠れた声が、ようやく彼の口から漏れる。
ワタルは額をさすりながらも、苦笑して見上げた。
「お前、出てくるタイミング悪すぎだって……」
「……大丈夫なのか……お前……」
ファングはそう呟いたかと思うと、何かを堪えるように視線を逸らし、そのまま背を向けて部屋の中に戻っていく。
「誰かさんに散々鍛えられたからな。なんとかその…戻ってこられた。」
「戻って…?」
「いや、何でもない。言葉のあやだ。」
ファングはその言葉に一瞬だけ立ち止まったが、何も言わずに部屋の中へと歩を進めた。ワタルもそれ以上追及せず、静かにその背中を追って部屋の中に入る。
窓から差し込む柔らかな光が、埃の舞う空気を照らしている。机の上には手をつけていない食事が冷めたまま置かれ、ベッド脇にはファングの双剣が静かに立てかけられていた。
そして、ファングがぽつりと呟いた。
「……お前が目ぇ覚まさなかったら……俺、尚更……誰にも合わせる顔なかった…本当にすまないことをした。」
その背中は、想像以上に弱々しく見えた。
ワタルは静かに扉の近くに腰を下ろし、ただ一言、まっすぐに返した。
「……俺は、まだ聞いてないぞ。お前の本当の気持ちを」
ファングの指が、膝の上でわずかに震えた。
それでも、沈黙の奥には、確かに何かが動き始めていた。
ファングはしばらく黙ったまま、部屋の片隅に視線を落とし続けていた。ワタルは急かさず、ただ静かに待った。
やがて、ファングはゆっくりと口を開いた。
「……最初はな、ただの疑いだったんだ。目の前に現れた“リンカ”って女が、本当に俺の妹なのか、確信なんて持てなかった」
言葉の端々に、かすかな震えが混じっていた。
「姿も声も変わってた。でも……あいつの目だけは、あの頃のままだった。記憶のどっかで引っかかって……否定しようとしても、できなかった」
ファングは拳を握る。
「……認めたくなかった。もし本当にあれがリンカなら、俺が……あの戦争で、守れなかったことになる。目の前で妹を失って、それを認めるのが怖かったんだ」
ワタルはじっと、彼の背中を見つめていた。
「……だから、俺は単独で動いた。お前たちを巻き込みたくなかった。あいつが敵だったとしても……お前たちがあいつを倒すなんて、俺は絶対に見たくなかった。どんな形であれ、リンカが殺されるなら、それは俺の手でって……ずっと、そう思ってた」
息を吐くように、ファングは呟いた。
「でもな……あいつ、言ったんだ。“お兄ちゃん”って」
その声に、わずかに震えがあった。
「……俺が天泣に加わるって嘘ついたとき、あいつは昔話を持ち出してきた。内戦の夜のこと、“お兄ちゃんって何度呼んでも来なかった”って、まるで責めるみたいに」
ファングは苦しげに目を伏せた。
「——確信したよ。あれは、間違いなく俺の妹だった」
ワタルは静かに頷いた。
「……そっか。怖かったんだな」
ファングは机の端に腰を下ろし、天井を見上げるように息を吐いた。
「今でも分かんねぇよ。どうするのが正しいのか。でも……もしまた会えたら、俺の手で止める。他の誰かが、あいつを殺すなんて、耐えられない」
「止めるって……殺すって意味か?」
ワタルの問いに、ファングはゆっくりと首を振った。
「……殺したくない。できるなら、戻ってきてほしい。でも……それが無理なら、俺の責任で終わらせる。そう思ってる」
沈黙のなかで、ふたりの間に重い覚悟が流れる。
やがてワタルは、静かに立ち上がって言った。
「……心配したんだぞ!お前は身勝手に飛び出していって、ずっと連絡もなしで……俺たちは、ずっと、お前のこと探してたんだ」
ワタルの声には、怒りとも悲しみともつかない感情が滲んでいた。
ファングは視線を落としたまま、小さく息を吐いた。
「……悪かった」
「俺たち、仲間だろ? お前が何に悩んでたって、何を抱えてたって、ちゃんと話してくれたら……俺たち、きっと一緒に考えた」
ファングはその言葉に、わずかに目を揺らした。
ワタルは、胸の奥に、小さな棘のような痛みがあった。
(……ちゃんと話せって、俺が言ったのに……)
言いながら、自分の中に重くのしかかる秘密の存在がよみがえる。
(俺だって……本当のこと、全部話せてるわけじゃない。レフレ様から言われた“元の世界に戻れる”って話も……みんなには言えてない)
—たとえそれが、仲間を思っての選択でも。誰かを傷つけたくないと思ったからでも。
「……そうだな。でも、その時の俺には、それができなかったんだ。怖かった。お前たちまで、リンカに剣を向けるかもしれないって……そう思ったら、頭ん中がぐちゃぐちゃで……一人じゃ何もできなかった」
ファングの言葉が、ワタルの胸に染みる。
自分と同じだと思った。誰にも言えないことを、ひとりで抱えて、迷って、苦しんで。
(俺も……同じだよ、ファング)
そう呟きたくなる想いを、喉の奥で押し込める。
「……アルマのことなんだが」
ファングがふいに切り出した。声は低く、どこか不安定で、どこか諦めたようでもあった。
ワタルが静かに顔を向けると、ファングは俯いたまま、震えるように言葉を続けた。
「俺は……部屋からほとんど出てなかったからな。だから……シスターから聞いたんだ。あの場所で……原因不明の爆発があったって」
「爆発……?」
「ああ。新聞にも載ってたらしい。名前は出てなかったけど、死体がふたり……どちらも身元不明で、焼け跡から髪の残留物が見つかったとか。年齢も性別も分からない。……でも、場所も時間も一致してる。たぶん……アルマは」
言葉がそこで詰まった。ファングはきつく唇を噛んで、膝の上で手を握りしめる。
「もう1人の死体はリンカかもしれねぇ…俺が始末をつけるつもりが…俺のせいでアルマを死なせることになるなんてよ…本当に死ぬべきは俺だったのかもしれねぇ……」
ワタルは息を呑み、ファングの肩を掴んだ。
「今回のことはお前は悪く…いや、責任はある…んだけど!」
ワタルは言葉を選びかけながらも、感情のままにファングの肩を強く掴んだ。
「……でも、それでも“死ぬべきだった”なんて言葉は絶対に口にすんなよ。
俺だって救ってくれた人が死んだ時、代わりに死ねばよかったって、心の底から思った。何日も、何週間も、ずっとそう考えてた。でも……そんなふうに背を向けてたら、想いを託してくれた人の死まで、無駄にするんだ。」
ゼフィルとの戦いのタクトにワタルは想いを馳せる。
「とにかく!」
ワタルは強めに声を出し、ファングの肩をもう一度叩いた。
「今は下ばっか見んな。俺はもう大丈夫だ。悩む時も一緒!」
ファングはかすかに息を呑み、顔を上げた。
ワタルは、無理やりでも笑顔を作ってみせる。
「……飯、ちゃんと食えよ。今日はみんなで一緒に食べる。絶対にだ」
ファングは一瞬ぽかんとした表情を見せ、それから眉をひそめ、気まずそうに目をそらした。
「……うるせぇよ。誰が飯抜きって言ったよ……」
ワタルはその返しにふっと笑い、ようやく心の底から少しだけ息を吐いた。
「よし、それでいい。文句が出るくらい元気なら十分だ」
「……調子乗んな」
ファングはそう吐き捨てるように言いながらも、どこか照れくさそうに口元を引き結んだ。長い沈黙の時間と、重たい後悔に押しつぶされそうだった彼の瞳に、かすかにだが光が戻ってきているのが分かった。





