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第八十話 今この場所で生きている


「ワタル!!」


扉が勢いよく開かれ、飛び込んできたのはサヤだった。彼女は目に涙を浮かべて、ワタルのもとへ駆け寄ってくる。


「ほんとに、ほんとによかった…!」


サヤはワタルの胸元に顔をうずめ、その小さな体で全力で彼にしがみついた。


「もう……もうダメかと思ったんだから……!」


彼女の声は震えていて、その目にははっきりと涙の跡が残っていた。


「サヤ……」


ワタルは戸惑いながらも、そっと彼女の背に手を添える。あの戦いの中でどれほど彼女が自分のことを案じていたか、今さらながらに伝わってきて胸が熱くなる。


「……心配かけた。ごめんな。サヤは大丈夫なのか?」


その一言に、サヤは何度も頷いて、ようやく少しだけ顔を上げた。


サヤは唇をかみしめ、ゆっくりと首を振った。


「バカ…私なんかよりも……よっぽどボロボロだったんだから……!」


その瞳には、まだ涙の余韻が残っている。けれど、その奥には、確かに生きて帰ってきたことへの安心と喜びが宿っていた。


「……でも、ほんとによかった……目を開けてくれて……」


そう言って、サヤはワタルの手をしっかりと握りしめる。その手はまだ少し震えていたが、暖かかった。



「……他のみんなは……?」


ワタルがそう尋ねると、サヤは少し顔を曇らせた。


「みんな無事……って言いたいけど、満身創痍って感じ。ハウンも頑張って回復魔法使ってたし、スノーは魔力使い果たして、ずっと寝てた。でも——」


言いかけて、サヤは少し言葉を詰まらせた。


「……ファングが、ちょっと……」


「ファングが?」


ワタルが眉をひそめると、サヤは静かに頷いた。


「責任感じてるの。アルマのことも、私たちのことも…元を辿れば俺が勝手なことをしたからだって…ワタルに何かあったら本当に立ち直れなさそうな感じ。何を言ってもごめんとしか言わなくてさ……ずっと俯いてるの。」


確かにファングが失踪しなければ起こらなかったはずの展開だった——そう思えば、ファングが自分を責めるのも無理はなかった。


「そういえばここはどこなんだ?」


サヤは少しだけ驚いたように瞬きをし、それからゆっくりと答えた。


「……それがね、驚かないでね。ここ、シジュウ共和国なんだって。」


「…!」


ワタルは思わず言葉を詰まらせた。


かつて一度訪れた地——神の教えが根づき、信仰を大切にする静かな国。そこで出会った、あの優しい神父とシスター。


「助けを呼びに行ってくれたカナタがね、この国に足を踏み入れて、偶然にもそのシスターたちに保護されたみたい。私たちはそこから運び込まれて……ずっとこの修道院で休ませてもらってたの。」


「……じゃあ、カナタは——」


(元の世界に帰っていないということか…?)


ワタルが言いかけたとき、外から賑やかな足音が響き、扉が再び開いた。


かつて一度訪れた地——女神レフレへの信仰を大切にする静かな国。そこで出会った、あの優しい神父とシスター。


「助けを呼びに行ってくれたカナタがね、偶然にもそのシスターたちに保護されたみたい。私たちはそこから運び込まれて……ずっとこの教会で休ませてもらってたの。」


(……じゃあ、カナタは…元の世界へ戻っていないのか?)


ワタルが言いかけたとき、外から賑やかな足音が響き、扉が再び開いた。


「ワタルくんっ!!」


カナタだった。


明るい顔で、ワタルの元に駆け寄る彼女。その後ろには、数人の獣人の子どもたちと、見覚えのある修道服の人物たちが控えていた。


「ほんとに……よかったぁぁぁ……!」


カナタは泣き笑いの顔でワタルに飛びつこうとして、寸前で立ち止まり、小さく頭を下げた。


「ごめん、すっごく心配だったけど……今は、ちゃんと我慢する!」


「……カナタ……」


「この人たちが助けてくれたんだよ。誰にも言わずに、ずっと隠してくれてたの。だから、みんなここまで無事に……!」


「わわっ!転生者様!お目覚めになられた!本当に……本当に良かったです!」


その言葉と共に、神父も歩み寄ってくる。穏やかな眼差しでワタルを見つめ、深く頷いた。


「あなた方がここまで辿り着かれたこと……それは奇跡だと、私は信じています。女神レフレが導いてくださったのでしょう。」


ワタルは目を見開き、そしてそっと頭を下げた。



「……助けていただいて、ありがとうございます。」


サヤが隣で静かに言った。


「この人たち……誰にも私たちのことを言わなかったの。身元も、追手がいるってことも、全部理解してくれて……それでも、助けてくれた。」


「……恩は、返さなきゃな。」


ワタルは呟く。


カナタは嬉しそうに頷いた。


「だから、私……まだ帰らないって決めたの。ワタルくんが目を覚ますまで、ここにいるって思ってた。勝手に決めちゃって、ごめんね?」


ワタルはゆっくりと2人だけに聞こえるように言ってきたカナタの顔を見る。


(……ありがとう、カナタ。……俺も、まだやるべきことがあるから。)



「ハウン様に、スノー様、ファング様も我々教会総出で回復魔法を施しました。お三方とも無事です。体を慣らす程度であれば動いて問題ありません」と、神父は穏やかに話す。


シスターは微笑みを浮かべながらも、感極まったように語りかけてきた。


「スノー様も、ハウン様も……貴方が眠っている間、ずっと傍にいらっしゃいました。昼も夜も。体を休めるよう言っても聞かず、疲れ切った顔で……それでも貴方の手を握って、祈り続けていたのです。」


ワタルの胸が、じんと熱くなる。


「……そこまで、してくれてたんだな……」


「ええ。つい先ほど、ようやく二人とも眠られました。ワタル様がお目覚めになられたことは、まだご存じありません。どうか、あとで……ご自身の言葉で、教えてあげてください。」


ワタルは静かに頷く。


「……はい、必ず。」


シスターは、そこで一瞬言葉を止め、少し表情を曇らせた。


「それと……ファング様のことなのですが……」


ワタルが顔を上げると、シスターは申し訳なさそうに続けた。


「彼は、お部屋に籠もったままなのです。お食事もほとんど手をつけず、誰とも顔を合わせていらっしゃいません。何か声をかけても、ほとんど返ってこなくて……」


サヤが小さく唇を噛む。


「やっぱり……ずっとああなんだ……」


「……わかった。あとで、俺が行ってみる。」


ワタルの言葉に、シスターはほっとしたように目を細め、深く頭を下げた。


「本当に、ありがとうございます。貴方の目覚めが、皆様の癒しとなりますように……女神レフレのご加護がありますように。」


そう言って、シスターは部屋を静かに後にした。


ワタルはしばし黙って天井を見つめる。やがて、そっと呟いた。


「……まずは、ファングのところへ…へ行こう。」


ワタルはゆっくりと立ち上がり、まだ少し重たい体を引きずるようにして扉へと歩を進めた。サヤも黙ってその背を見送り、やがてそっとその背中に声をかける。


「……ワタル。無理しないでね。」


「大丈夫だ。……心配してくれて、ありがとう。」


廊下に出ると、石造りの床を踏みしめる足音がゆっくりと響く。朝の光が差し込む窓の向こうでは、修道士たちが祈りを捧げる静かな声が聞えてきた。


「ねー!ワタルくん」


振り返ると、カナタが両手を後ろで組んだまま、少し息を弾ませてこちらへ駆け寄ってきていた。獣人の耳を揺らしながら、彼女は小さく笑みを浮かべて言った。


「ちょっとだけいい?話があるの」


「……ああ、」


立ち止まり、カナタと向き合うと、彼女は少し神妙な表情になって続けた。


「……ワタルくん、転生の神様から“いつかは元の世界に帰らなきゃいけない”って言われた?」


ワタルは一瞬、返答をためらったが、静かに頷いた。


「……ああ。言われたよ。……でも、正直言って、いまはそんなの考えられない。」


「私もね、同じことを言われたの。でも、“ワタルがやるべきことを終えるまではこの世界にいていい”って……ちゃんと約束してくれたんだ。」


ワタルは、カナタの言葉を聞きながら、胸の奥にわずかな痛みを覚えた。


(本当は……自分が縛ってしまってるんじゃないか?)


彼女の「まだ帰らない」という選択が、自分に気を遣った結果だとしたら。それがもし、義務のようなものだったとしたら——。


「……カナタ。無理は、してないよな?」


その問いかけに、カナタは小さく瞬きをしてから、ふっと穏やかに笑った。


「うん。もしかして、私がワタルくんに気を遣って残ってるって思った?」


ワタルは、言葉に詰まりながらも、正直に頷いた。


そんなワタルの様子を見て、カナタは一歩近づくと、まっすぐに彼の目を見て言った。



「私、たくさんの人に助けられてきた。ワタルくんにも、スノーさんやファングさん、ハウンさんにも……だから恩返ししたいって思ったの。自分の意思で。自分の足で。」


ワタルはその言葉を聞いた瞬間、胸の奥がじんと熱くなるのを感じた。


「……そっか。」


目の前のカナタは、もう“守られるだけの存在”ではなかった。彼女は自分で考え、自分で決め、自分の足で立とうとしている。


「……カナタ……本当に大人になったな。」


そう漏らすように言ったワタルに、カナタは一瞬きょとんとした表情を浮かべ、すぐにむすっと頬を膨らませた。


「そう言って茶化すなら帰ろうかな…やっぱり……」


「違う違う、そういう意味じゃなくて……本当にそう思ったんだよ。」


ワタルが慌てて手を振ると、カナタは少しだけ肩をすくめて、今度は素直に微笑んだ。


そのまま、ふたりの間にしばし静けさが流れる。


やがてカナタがぽつりと尋ねた。


「……ねぇ、ワタルくん。みんなにも話すの? 私たちが……元の世界に帰らなきゃいけないこと。」


ワタルはわずかに視線を落とした。そして、苦しげに息を吐いて、静かに首を振った。


「……今は、話せない。ごめん。」


「……ううん、分かるよ。」


「もし話したら……みんなの顔が浮かんできて、俺、たぶん言い切れないんだ。自分でも分かってる。俺は、今この世界にいて、みんなと一緒にいることが……たぶん、一番大事なんだと思う。」


「……うん。」


「この世界で生きてきた時間や、みんなと過ごした日々を思い出すと……簡単に“帰る”なんて、言えないんだよ。」


そう言ったワタルの声には、ほんの少しだけ震えがあった。


カナタはその顔をまっすぐに見つめ、やさしく微笑んだ。


「じゃあ、それでいいよ。……今じゃなくていい。私たちが“今この場所で生きてる”ってことが、大事だもんね。」


ワタルは、ゆっくりと頷いた。


「……ああ。いつか、ちゃんと話すよ。俺の言葉で、ちゃんと。」


「うん。待ってる。」


ふたりは小さく笑い合う。


それは秘密を共有する者同士の、静かで温かな笑みだった。


「それじゃファングの部屋に行ってくるから」


カナタは少しだけ寂しそうにしながらも、優しく頷いた。


「うん。行ってらっしゃい。」


ワタルは軽く頷き返し、カナタに背を向けて再び廊下を歩き始めた。足音が石の床に静かに響く中、先ほどまで交わしていた言葉の余韻が、心の中で静かに残り続けていた。





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