第七十二話 アルマの決意
スノーは立ち尽くし、目を見開いてサヤが向かう先を見つめた。サヤが一体何を思っているのか、彼女自身も理解できないままだった。だが、何か強い理由があると感じ取っていた。
「待っててって言われたけどさ、ほんとにね、ほんとにこっそりついて行こう?」スノーが小声で言った。
その言葉に、ワタルが少し笑いながらも真剣に答えた。
「うん、でもあまり目立たないようにしないとね。サヤが何をしようとしているのか、こっちも分からないから、邪魔にならないようにしよう。」ワタルの言葉には、サヤの決断を尊重しつつも、彼女の行動に対する慎重さが滲んでいた。
サヤは頭痛に耐えながら、息を荒げて立ち止まった。その痛みは鋭く、彼女の意識を掴んで離さなかったが、心の中で湧き上がる衝動には逆らえなかった。
「アルマ…」彼女の口からその名前が漏れると、すぐにその声が耳元で響くような気がした。それは、どこか遠く、曖昧で混沌としたものだったが、確かにアルマの存在を感じ取ることができた。頭痛がさらに強くなり、サヤは一瞬よろめいたが、すぐに踏ん張った。
「行かなきゃ、行かなくちゃ…」彼女は自分に言い聞かせるように呟き、身体が反応するように足を前に踏み出す。視界が歪み、身体が軽く感じる瞬間が訪れた。アルマの存在が、まるで彼女を引き寄せているかのようだった。
その瞬間、サヤは自分の中に浮かぶ強い決意を感じていた。これは単なる衝動ではない。何か大きな目的が待っている気がする。それが何なのかはわからないが、どうしてもその答えを見つけなければならない。彼女の足が自然と速くなり、森の中の静寂を切り裂くように、アルマの跡を追いかける。
サヤは一瞬も立ち止まることなく、ただ前だけを見つめて走り続けた。頭痛がひどくても、意識が遠のいても、その足を止めるわけにはいかなかった。アルマがどこにいるのか、何をしようとしているのか、その答えを自分の目で確かめるまで止まるつもりはなかった。
その不安定な足取りを感じながらも、サヤの中には確かな信念があった。それは、ただの逃避ではなく、何か深い理由があると感じていた。そして、その答えに辿り着くことこそが、今の自分に課せられた使命であるかのように思えた。
一歩、一歩、サヤはその目的に向かって進んでいく。頭痛が酷くなる度にその衝動に対する恐れも増していったが、それでも止まることはなかった。どこかで必ず、自分にしか見えない何かが待っていると信じていた。
サヤがついにアルマを見つけたとき、彼女はひときわ目立つ場所に立っていた。暗い森の中、まるで不安定な影のように佇んでいるその姿が、サヤの視線を釘付けにした。アルマは、ただひとりで空を見上げていた。顔に浮かんだ表情はどこか遠く、何か決意を抱えているような、どこか切なげなものだった。
サヤは足を速め、アルマに向かって駆け寄った。その足音が響き渡ると、アルマはゆっくりと振り返り、サヤを見つめた。目を合わせた瞬間、サヤはその目に深い哀しみを感じ取った。まるで、長い間苦しんでいたような、底から滲み出るものがあった。
「アルマ…!」サヤは声をかけた。その声に、アルマは微かに顔を動かしたが、返事をすることはなかった。
サヤは立ち止まり、息を整えながらアルマに向かってゆっくり歩み寄った。アルマの姿勢がぎこちなく、背中を丸めていることに気づいた。彼女が一歩踏み出すたびに、サヤの胸は痛み、恐れが込み上げてきた。
「何をしようとしているの?」サヤの声はやや震えていた。
アルマはふっと目を閉じ、深いため息をついた。その時、サヤの目の前で彼女が一歩後ろに下がり、身を引いた。サヤはその動きに気づき、瞬時に本能的に近づこうとした。
「アルマ、お願い、そんなことはしないで。」サヤの声がその場に響いた。言葉は痛みを伴っていた。目の前にいる彼女が、手にしているのが何かを感じて、サヤはその手の先に視線を落とした。
アルマの手には、鋭い刃が握られていた。その刃は薄い月光に照らされ、冷たく輝いていた。
「ウチは、ミヤビを殺したリンカを追い続けてきた。奴が獣人で、転生者だったってことも知ってた。だけど、まさか…あんたまで同じだなんて!」アルマの声が強く響き渡る。
「そんな奴らに気を許しかけた自分が情けないわ。同じ空気すら吸いたくない…そう思う…あんたらを殺してたいところやけど…束になられたら勝てるわけもないわ。命を奪われるくらいなら、自分から終わらせる方がマシやと思うねん。どうせウチみたいな奴は、獣人や転生者には踏みにじられるだけやから…!」
アルマの声がかすれ、最後にはほとんど囁きのようになった。その刃を握る手は依然として力が入っていたが、その目には涙が浮かび、彼女の迷いが伝わってきた。
サヤは一歩踏み出し、アルマの刃を見つめながら静かに言葉を紡いだ。
「アルマ、お願い…獣人や転生者がみんな酷い人たちみたいに言わないで。私たちは…リンカとは違う。違うんだよ。」
アルマの目が揺らぎ、刃を握る手が微かに震えた。その姿にサヤは胸の奥が痛むのを感じながら、さらに近づいた。
「アルマが死ぬこと…それをミヤビさんが望むと思う?ミヤビさんはきっと、アルマがこんな風に自分を追い詰めるのなんて悲しむよ。」とサヤは優しく語りかけた。
アルマは一瞬、その言葉に動揺したように見せたが、すぐに表情を取り戻し、サヤを睨みつけた。
「黙れ!」アルマは怒りを込めて叫んだ。「あんたに何がわかるんや?ウチがどんな思いでここまで来たかも、何を抱えてきたかも…全部知らんくせに!知ったような口を聞くな!」
アルマの言葉は鋭い刃のようにサヤの胸に突き刺さる。それでも、サヤはその場から逃げることなく、アルマの心の痛みを受け止めようとした。
アルマはサヤを睨みつけながら、冷たい声で続けた。「あんた、ここに1人で来たんやろ?1人殺すくらいわけないで。あんたが獣人であろうと潜ってきた修羅場の数が違うんや…」
「アルマ、あなたは私を殺せない。」
アルマは声を荒げ、怒りと混乱の中で刃を振り下ろした。その動きは鋭く、躊躇いのないものであったが、サヤはその場から動こうとはしなかった。
「覚悟はできとるんやろ!」アルマは叫びながら一撃を放った。刃はサヤの肩を狙い、確かに命中したかのように見えたが、鈍い音とともに動きが止まった。
アルマの目が驚きに見開かれる。サヤの服は、普通の布地には見えない丈夫な材質で、刃がその表面をかすっただけで大きな傷を負わせるには至らなかった。
「な…なんで避けへんねん?」アルマの声には怒りだけでなく、戸惑いが混じっていた。
サヤはゆっくりとアルマの目を見つめ、静かに答えた。「アルマが本気で私を殺したいなんて、思っていないから。」
その言葉にアルマはさらに困惑した様子を見せ、刃を握る手が再び震え始めた。
「ふざけるな!」アルマは叫びながら再度刃を振りかざそうとするが、動きは明らかに鈍っていた。サヤはその場から一歩も動かず、ただ優しい目でアルマを見つめ続ける。
「私を殺したいなら、もっと本気でやらないとダメだよ。」サヤはそう言いながら、さらに一歩近づいた。その言葉は挑発でも挑戦でもなく、ただアルマの心に問いかけるようなものだった。
アルマは刃を振り上げたまま、動けなくなっていた。その目には、怒りや恐れ、そして深い悲しみが交錯しているように見えた。
「なんで…なんでそんな目でウチを見てくるんや…!」アルマの声は震え、刃を握る力が次第に弱まっていく。
サヤは静かに微笑み、さらに言葉を紡いだ。「アルマ、私に向けているその怒りや悲しみ、本当は自分自身に向けているんじゃないの?」
アルマはもう一度刃に力を込め、振りかざそうとした。けれど、その動きが突然止まった。
サヤの手首にある星形の痣が、先ほどよりも色濃く輝いていることに気がついたからだ。
「…その痣…!」アルマの目が驚きに見開かれる。その表情は先ほどまでの怒りとは異なり、明らかな動揺が浮かんでいた。
刃を握っていた手から力が抜け、武器が床に落ちる鈍い音が響く。
「アルマ…?」サヤは彼女の反応に戸惑いつつも、そのまま静かに見守った。
アルマは震える声で呟くように言った。「なんで…ウチが…こんなところで見ることになるんや…」
その言葉には混乱と恐れ、そして信じたくないという感情が込められていた。
アルマはサヤの痣から目を離せず、過去の記憶が鮮明に蘇っていくのを感じていた。転生者は、その痣が「前世の真実」に近づくことで反応することを彼女は知っていた。そして今、サヤの痣が濃く輝いているということは、彼女の転生前に深く関わる事実がここにあるということを意味していた。
「まさか…あんたが…?」アルマの声は震え、その目はサヤの顔と手首に注がれ、動揺が隠しきれない。
彼女の中で、サヤの存在が、忘れたかったはずの過去とリンクし始めている。サヤの落ち着いた姿、魔法の才能、そして痣の輝き。それらは、アルマが一度は信じた誰か――その人物の影を映していたのだ。
「アルマ、私は自分の過去を覚えていないの。転生する前に何があったのかも、自分がどんな人だったのかも…でもね、不思議なんだ。」
サヤはそっと微笑みながら続けた。「ミヤビさんの気持ちだけは、手に取るようにわかる自分がいるの。どうしてかわからないけど、アルマを見ていると、ミヤビさんがどんな風にあなたを大切に思っていたのかが伝わってくる気がする。」
アルマはサヤの言葉に動揺し、目をそらそうとした。しかし、サヤの真摯な眼差しがそれを許さないかのように、視線を固定した。
「彼女はきっと、あなたに生きてほしいと願っていた。どんなに辛くても、どんなに自分を追い詰めても、それでも前を向いてほしいと願っていたんじゃないかな。」
その言葉にアルマは一瞬息を呑んだ。心の奥底にしまい込んでいた記憶が、サヤの言葉に引き寄せられるように蘇り始めていた。
サヤはアルマの背中をそっと撫でながら、優しく囁いた。
「みんなのところへ戻ろう。」
アルマの肩がわずかに震える。まだ迷いが残っているのか、それともただ泣き疲れたのか、サヤには分からなかった。でも、アルマの中で何かが確かに変わり始めているのを感じた。
「…ウチは…」アルマはかすれた声で言いかけるが、すぐに言葉をのみ込んだ。
サヤはアルマの腕をそっと取る。「大丈夫。みんな、待ってるよ。」
その言葉に、アルマは少しだけ目を伏せた。まだ不安が消えたわけではない。でも、サヤの温かい手のぬくもりが、今の彼女にとって唯一の拠り所のように感じられた。
アルマはそっとサヤの手を握り返し、ゆっくりと頷いた。「…わかった。」
サヤは微笑み、アルマの手を引いて歩き出す。二人の足音が静かに響く中、その先には、彼女たちを待つワタルたちの姿があった。
アルマは静かに息をつき、視線を伏せながら言った。
「……ウチがなんで気持ちを変えたかなんて、聞かんといてや。」
サヤは何も言わず、ただ微笑んで頷いた。無理に理由を聞くつもりはなかった。アルマが自分で決めたことなら、それを尊重するだけだ。
アルマはしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐くと、ゆっくりと口を開いた。
「ファングを移した場所……探すん、協力したるわ。」





