第七十話 闇に染まる
アルマの目が見開かれる。「…これは…霧の魔法…?」
瞬間的にリンカや少年の顔が脳裏をよぎる。アルマは拳を強く握りしめ、震える声で呟いた。「誰が…なんでこんな…!」
「彼女が見つかったのはほんの数分前だ」横から声がかかり、アルマは振り返った。そこには兵士の一人が険しい顔で立っていた。「彼女の周囲に不審者がいたという証言はないが…この霧、普通じゃないな。」
誰がこんなことをしたのか。本当はアルマの中でははっきりしていた。しかし、魔法を教えてしまったのは紛れもなく自分自身。
手がかりになりうる霧を残しておくなんて、まるで嘲笑うかのように感じられる。アルマは唇を噛みしめた。
アルマは広場の喧騒の中で、焦燥感と怒りが入り混じる感情に苛まれていた。目の前の惨状――ミヤビの無残な姿――が、彼女の胸に重い罪悪感を押し付ける。
「…この霧、普通じゃないな」という兵士の言葉が頭にこびりつき、冷たい汗が背筋を伝う。アルマは拳を握りしめ、視線を地面に落とした。
「お前は何か知っているのか?」兵士が問いかける。その視線は鋭く、どこか疑念を含んでいるように感じられた。
「…何も知らん。けど、これは…ただの事故やない」アルマはかすれた声で答えたものの、その内心では疑念が膨らみ続けていた。
リンカ、そしてあの少年。二人の笑顔が不気味に脳裏をよぎる。特に少年の言葉――「君が教えたってだけで、もう十分責任を感じるだろう?」――が、まるで彼女を責め立てるかのようだ。
しかし、それ以上にアルマの胸を締めつけたのは、自分が教えた魔法がこの惨劇に関与している可能性だった。
その後、兵士団の指揮官らしき男が近づいてきた。
「アルマ、お前は一体ここで何をしていた?」彼は低い声で問い詰めるように言った。その表情は険しく、厳しい視線がアルマを射抜いている。
アルマは一瞬、何も言えなかった。彼女は自分の無防備な行動が招いた結果を理解していたが、すべてを吐き出す勇気はなかった。
「何を黙っている?状況は緊迫している。もし何か知っているなら、今すぐ話せ!」指揮官の声がさらに鋭くなる。
アルマは唇を噛みしめ、拳を震わせながら言葉を絞り出した。「…さっき、この近くで…リンカとかいう天泣の女に会ったんや。そして…あいつに魔法を教えてもうた」
指揮官と周囲の兵士たちは、一瞬驚きの表情を見せた。
アルマは小さく頷いた。「でも、それだけやない。…もう一人、別のやつが現れて…そいつもウチが教えた魔法を使っとった」
「どういうことだ?お前が教えた魔法だと?」指揮官の表情が険しくなり、彼の声には怒りが混じっていた。「まさか、敵に力を渡したというのか?」
「ウチは殺されるところやったんや!」は叫ぶように言った。
兵士たちの間にざわめきが広がる。
「アルマ、お前の言うことが事実ならば、お前の行動は重大な問題だ。この件を上に報告する必要がある」指揮官が冷たく言い放つ。
アルマはその言葉に顔を歪めた。「…わかっとる。ウチの話せることは何でも話す。早く奴らを捕らえて止めなあかん。それがウチの責任や。」アルマはきつく唇を噛み締めながら、決意を込めて言った。
「天泣に利する者でない証明がいる。」指揮官は冷徹な声で続けた。「そいつを拘束しろ」
「待って!」アルマは激しく声を張り上げた。「ウチを拘束しても、何の解決にもならん!ウチは天泣を止めるためならいくらでも協力する!」
しかし指揮官は冷たい目で彼女を見据え、兵士たちに命じた。「指示を聞け。彼女を拘束しろ。天泣の一味かどうか、まずはそれを見極める。」
兵士たちは動き出し、アルマの周囲にじわりと詰め寄った。だが、アルマは怯むことなく続けた。
「待てって言っとるやろ!」彼女の声は強く響き渡り、兵士たちが掴んできた手を払いのけるようにして叫んだ。
その瞬間、アルマの視線がふと兵士団の背後に向けられた。遠くで何かを見つけたように目を細めた。兵士たちの間に動揺が広がる中、アルマの表情が険しさを増す。
「…あいつや…!」彼女の声が低く唸るように響いた。
「なんだと?」指揮官が眉をひそめる。
アルマは兵士たちの壁越しに視線を固定し、再び叫んだ。「あそこや!天泣の奴がおる!リンカや!」指を指し示す方向に兵士たちの視線が集中する。
そこには、ニタリと笑いながらアルマを見つめるリンカの姿があった。彼女の顔には余裕があり、まるでこの騒動を楽しむかのようだ。
「リンカ…?」指揮官は聞き慣れない名前に困惑しつつも、その表情に警戒を滲ませた。
「そいつがウチを狙った天泣の一味や!」アルマは息を荒げながら、必死に訴えた。「ウチが殺されかけた時の張本人や!」
「確かに…ただの通行人ではなさそうだな。」指揮官はリンカをじっと睨み、周囲の兵士たちに命じた。「あの女を確保しろ!」
命令を受けた兵士たちが動き出すと、リンカはゆっくりと両手を挙げて笑った。
先頭に立った兵士の断末魔が響く。その体は真っ二つに引き裂かれ、鮮血が吹き出して周囲の地面を赤く染めた。
「あーあ」リンカはくすくすと笑った。「みんな馬鹿なの?」彼女は呆れたように肩をすくめると、アルマに視線を向けた。
「ねーね?その魔法使いのミヤビさんを殺したのはあたしじゃないよ?」
何を言っているのかアルマは一瞬理解が出来なかった。兵士団員を目の前で惨殺しておいて、誰が信じようか。しかし、リンカの無邪気な笑顔がアルマの心をざわつかせた。
勇敢にも立ち向かう団員もいたが
、リンカに一瞬で首を折られ、絶命した。その鮮やかな手並みは悪魔そのものであった。
指揮官が厳しい表情でリンカを睨みつける。
「もう一度言うね。あたしはやってないよ。」と指でチャクラムを回しながらリンカは笑う。
「…指揮官、あの女をどうにかしないと、俺たちが次に狙われる…」兵士の一人が怯えた声で指揮官に訴えた。
指揮官はリンカを鋭く睨むが、その冷笑と危険な雰囲気に言葉を詰まらせた。リンカは指揮官の視線を楽しむように受け流し、アルマの方へ指を差す。
「そこの魔法使いがやったんだよ。ねえ、みんなも見たよね?」リンカはあくまで飄々とした態度を崩さず、血塗れのチャクラムをアルマに押しつける。「証拠もあるでしょ?」
「指揮官…俺たち、彼女の命令に従わなければ…」別の兵士が震える声でつぶやいた。その場の誰もが、リンカに逆らえば次は自分が殺されるという恐怖に支配されていた。
「待て、馬鹿なことを!」アルマは怒りと必死さを込めて叫び、渡された凶器をその場に叩きつける。しかし、兵士たちの目は彼女を見ようとはしなかった。その代わり、リンカに怯えた視線を投げかけるだけだ。
指揮官は歯を食いしばりながら決断を迫られていた。彼もまた、リンカに命を奪われる恐怖を感じていたのだ。「…天泣め…こいつを捕らえれば俺たちの命を奪わない…と約束できるか?」
「もちろん。」リンカはにっこりと微笑んだ。
「どうしてウチを執拗に狙うんや!平穏に生きることがそんなに悪いことか?兵士団もそいつの言うなりで…天泣に屈して…それでええんか!?」アルマは怒りと恐怖が入り混じった表情で叫んだ。
「あの日、偶然会ったからってだけだよ?魔法を教えてくれて感謝はしてるけどね。でも、それ以上の価値があるかは別の話でしょ?」
彼女はその場をぐるりと見渡し、興味深げに目を細めた。「それに、こうやってあなたが怒ってくれるの、結構楽しいんだよね。ほら、他の人たちも、どうしてそんな顔してるの?私に逆らう勇気なんてないんでしょ?」
アルマは歯を食いしばりながら睨み返したが、その瞳の奥には確かな恐怖があった。リンカの目は、冷酷な笑みを浮かべながらも、どこか底の見えない深淵を思わせる。
「アルマの拳は震え、怒りが頂点に達していた。しかし、周囲を取り囲む兵士たちは彼女を取り押さえる準備をしており、逆らえば命が危険だと察して動けなかった。
そこに込められた残酷さが、場の空気を一層重苦しいものにしていた。リンカは兵士たちを見回しながら、まるで指導者のように手を叩いて合図を送る。
「ほら、さっさとその子を捕まえてよ。早くしないと、また誰かがいなくなっちゃうよ?」その無邪気な声に、兵士たちはさらに怯えた顔を見せたが、命令に逆らうわけにもいかず、アルマの腕を掴んだ。
「離せ!」とアルマは腕を振り払う。
アルマの胸には怒りと恐怖が交錯し、力が込み上げる。絶望が彼女を包み込み、今度こそ何もかもが無意味に思えた。その瞬間、彼女は無意識に魔力を解放し、強大な移動魔法を使ってその場を離れることに成功する。瞬時に、どこか遠くの場所に転送された。
息を呑んで、その場に立ち尽くすアルマ。周囲は静寂に包まれていた。彼女の心臓は激しく鼓動し、耳の奥にリンカの声がこだまするように感じられた。
アルマは視線を空へ向け、手を胸に当てた。自分の心の中に広がる闇を感じていた。リンカのような存在が、なぜ自分の近くに現れたのか。あの恐怖、あの圧倒的な力が、無情に日常を侵食してくる。
アルマは自分の心が砕けていくのを感じた。力を持つこと、それが善いものだとは思えなくなった。もし自分もリンカのように冷徹であれば、こんな苦しみを感じなくて済んだのだろうか?それとも、そもそも力を使って抵抗することが無駄だと、どこかで感じていたのだろうか?
その場にひざまずくアルマ。彼女の目に映るのは、もう何もかもが虚しく感じられる空の景色だけ。
「どうしてこんなことに…」アルマの声は震え、心の中で何かが壊れる音が聞こえる。絶望の中で、彼女は次第に闇の中に引き寄せられていく。
その暗闇に、リンカの顔がふわりと浮かぶ。彼女の冷徹な笑みと、満足そうに微笑む姿が、アルマの心をさらに深く飲み込んでいった。自分はどうしようもなく、闇の中でただ迷い続けているだけの存在だと感じる。どんなに頑張っても、どんなに強くなっても、結局は力に屈してしまうのだろうか。
アルマは静かに目を閉じ、その場にうずくまったまま、完全に闇に呑み込まれる自分を感じていた。
アルマはモルザッドのスラムに身を潜める決意を固めた。
ラグド王国で兵士団を殺害した逃亡犯としてアルマの名前が報じられていたからだ。
目を閉じ、心の中に渦巻く絶望と怒りを押し殺すことなく、そのまま受け入れることで自分を取り戻そうとした。逃げる先に待つのは、もはや平穏な生活ではなかった。彼女は自分の行動のすべてに、リンカから受けた恐怖が染み込んでいることを感じていた。アルマの心には、既にその力に屈することのない強さを求める気持ちが芽生えていた。
スラム街に足を踏み入れると、アルマはすぐにその荒んだ雰囲気を感じ取った。暗い路地、荒れた家々、無法地帯のような場所が広がっていた。だが、彼女にとってそれはもはや恐怖ではなく、安堵に近いものだった。ここで、誰にも束縛されずに生きることができる――それが彼女にとっては唯一の選択肢だった。
日が落ちる頃、アルマはスラムの中でも特に治安が悪い地区に身を寄せ、まずは自分を守るための力をつけることに決めた。人々との接触を避けることなく、無駄に目立つこともなく、ひたすら力をつけるための訓練に没頭した。彼女は数々の戦闘の経験を積んでいたが、この荒れ果てた世界で生き抜くためには、それまでの自分を超える必要があった。
月日が経つにつれ、アルマはその求心力を高めていった。ごろつきたちが徐々に彼女に集まり、彼女の力に感服し、そして彼女に従う者が増えていった。アルマは戦闘能力だけでなく、周囲の者を魅了するようなカリスマ性も兼ね備えていた。彼女の目には、もはや弱者を守ろうという気持ちは残っていなかった。強さこそが、すべてを支配し、決して奪われることのない唯一の力だという考えに染まりきっていた。
アルマは次第に、スラム内での権力を握り始め、その名を広めていった。自らを「叢雨」と名乗り、その名の下に集う者たちをまとめ、組織を作り上げた。叢雨は無法地帯での支配を目指し、やがてアルマの指導のもとで強力な組織としてその地位を確立した。彼女の統治の下、叢雨は徐々に周囲の勢力にも影響力を及ぼし、恐怖を与える存在となった。
組織の内部では、アルマの冷徹さと強さを慕う者たちが集まり、彼女の言葉には絶対的な力が宿るようになった。彼女は、奪われる前に奪うという考え方をすっかり染み込ませ、その力を振るっていた。
その後、アルマはさらに自らの力を強化し、叢雨の名を広めることを決意する。もはや平穏に生きることなど考えなくなった。彼女にとっては、今や力こそが唯一の支配の道であり、周囲の恐怖を楽しむことさえできる存在となった。
そして、ついには叢雨はスラムを超えて他の地域へとその勢力を広げ、アルマはもはや単なる亡命者ではなく、全てを支配するための支配者として名を知らしめることになる。それはリンカが与えた試練が引き起こした、闇の中で生まれた新たな支配者の誕生だった。





