第38話 夏の盛り
「まったく、無茶をしたね」
しわくちゃの手でアイリスの手を撫でさすりながら、しわがれた声でアイリスを叱りつけたのは、老婆の魔女だ。
「髪もこんな短くしちまって」
ぐちぐちと続ける老婆に、他の魔女たちが呆れた表情を浮かべている。
「もう離してやりなよ。早く帰らないと、旦那が心配してるだろ」
炎の魔女が説得するが、それでも老婆の魔女はアイリスの手を離さなかった。
「いんや。この子はわしが連れて帰る。世界一の魔女に、わしが育てる!」
あれから数週間後の新月の夜、魔女集会が開かれた。
本来なら年に一度しか開かれないはずだが、あちら側の世界の封印について、何が起こったのかを周知する必要があったので急遽開かれたのだ。
アイリスが世界の愛による封印を完成させたことに、魔女たちは感心した。
『世界から愛がなくならない限り消えない封印』だ。
それは彼女たち魔女が追い求める一大テーマである『永遠』にも通じるものであり、興味津々と言った様子だった。
といっても、アイリスに魔法の知識はない。
だから結局あの時、自分が何をして、その結果何が起こったのか、アイリスは正確には理解できていない。
しどろもどろに何が起こったのかを説明してはみたが、魔女たちは『さっぱり分からん』という反応だった。それはそれで、非常に申し訳ない。
「ほら、もう離してくださいよ」
ハンナが老婆の魔女から奪い取るようにアイリスの肩を引いた。
「この子には帰るところがあるんだから」
「いんや、だめだ!」
老婆の魔女がしつこく食い下がる。
「まだ、報酬をもらってないよ!」
ぎくりと、アイリスの肩が揺れた。
それを言われると弱い。
魔女たちは協力の見返りとして、彼女に報酬を請求することができる。
アイリスは、『生命以外なら、何でも差し上げます』と約束したのだから。
じとりと、老婆の魔女がアイリスを睨みつけた。
同じように、他の魔女たちもギラリと瞳を光らせてアイリスを見つめた。
* * *
「おかえり」
アイリスが魔女集会から戻ると、小さな家でマシューが起きて待っていた。暖炉の火をつけたまま、温かいスープを準備して。
「体を温めてから休もう」
「はい。ありがとうございます」
マシューは鍋をひと混ぜして、木製の器にスープをよそった。テオが作ってくれた、スープが冷めにくくなる魔法がかかっている器だ。
一口飲むと、ほっと芯から身体が温まった。
「美味しいです」
「よかった。新しいレシピを試してみたんだ」
言いながら、マシューは一冊の本を見せてくれた。彼が首都のデパートで買ってきたレシピ本だ。
この数か月で、マシューはすっかりこの暮らしに慣れてしまった。今では掃除も料理も、アイリスより要領よくこなしてしまう。
いつまでも、こうして二人で暮らしたい。
そんなことを考えてしまうほど、二人にとってこの家での暮らしが自然な形になりつつあった。
「……一つ、相談があるんだが」
「はい、なんでしょうか」
なんとなく、彼が何を言いたいのかアイリスには分かっていた。
彼は公爵家の当主で、仕えるべき主と守るべき領地を持つ身だ。
いつまでも、ここには居られない。
マシューはうろうろと視線をさまよわせてから、意を決して口を開いた。
「一度、君の実家へ帰ろう」
思わぬ提案だった。
てっきり、領地に帰ると言われると思ったのに。
「でも……」
母はアイリスのことを忘れているのだ。
忘れたままで彼女が幸せなら、それでいいと、アイリスは密かに思っていた。
なぜなら、アイリスは母に愛されていると、もう分かっているから。
それに、父がアイリスの訪問を許してくれないかもしれない。
「君が笑顔を取り戻したことを、せめて報告しよう。父上にも、手紙で許可をいただいた」
マシューが見せてくれたのは、父からの手紙の返信だった。母に会わせられるかどうかは分からないが、父と兄は会ってくれると書いてある。
「……分かりました。行きましょう」
アイリスが頷くと、マシューはホッと息を吐いた。
「申し訳ありません。私の家族のことで心配をかけて」
「何を言っているんだ、君の家族なのだから、俺の家族も同然だ」
そう言ってほほ笑んでくれるマシューに、アイリスの胸がチクリと痛んだ。
二人は離縁した。
今も、書類の上では、赤の他人なのだ。
お互いに愛し合っている。それは分かっている。
だが、マシューが再婚について触れることは、今日に至っても一度もなかった。
* * *
数週間後、アイリスとマシューは首都に帰ってきた。
馬車の窓から、景色を眺める。
夏の盛りの往来には、華やかなデイドレスを着た貴婦人や、にこやかに笑う労働者たちがあふれている。冬に来た時よりも活気のある姿に、アイリスは瞳を輝かせた。
(あ、そうか……)
景色の見え方が違うのは、季節ばかりが理由ではないとアイリスは気づいた。
前までは、自分とは関係ない人々がただ楽しく過ごしているだけで、どこか他人事のように感じられたけれど。
今は違う。
アイリスも、この華やかな都で過ごす多くの人々の中の一人だと分かっているから。
(生きていてよかった)
改めて思った。
きっと今なら、どんな景色も、これまでよりももっと素晴らしく感じることができるだろう。
そんなことを考えているうちに、馬車はトラウトナー侯爵家のタウンハウスに到着した。
夏は社交期なので、ほとんどの貴族は領地ではなく首都のタウンハウスで過ごす。アイリスの両親と兄も例外ではなく、タウンハウスを訪ねてほしいと父からの手紙に書かれていたのだ。
マシューのエスコートで馬車を降り、侯爵家自慢のバラ園を通り過ぎると、赤レンガの少し古めかしい屋敷が建っている。
「アイリス!」
最初に手を振ってくれたのは兄だった。
玄関の外に立って待っていてくれたらしい。
「お兄様」
アイリスが半ば駆けるようにして近づくと、その瞳が驚きで大きく見開かれる。
「お久しぶりです」
彼女が、照れたように微笑んでいたからだ。
「アイリス……! お前、本当に、心配かけて……!」
叱るように言いながらも、その声は震えていた。
「申し訳ありません」
「いや、いいんだ。……俺も、悪かったな」
「いえ」
兄はホッと息を吐いてから、改めてマシューに向き直った。そして、
「公爵閣下、この度は、妹のことでご尽力いただき、誠にありがとうございました」
深々と頭を下げた。
「さあ、中にお入りください。父上も待っています」
玄関から中に入ると、そこにいたのは父だけではなかった。
母が、待っていた。




