第14話 心の操り手
十四週目“万緑”が暑さのピークだ。天窓の下など床が焦げるのではないかと思うくらいで、しばらく塞いでしまおうかと本気で考えた。やらないけど。
「塞いでは駄目なんですか」
「駄目じゃないけれど、ちょっと滞りが生まれるからできるだけ避けたいんだよね」
「去年はどうしていたんです?」
「……あんまり記憶が無いな。寝室に籠ってたかも」
ドゥイリオは微妙な苦笑を浮かべて頷いた。
さすがの彼も暑さに限界を覚えたようで、最近はコーヒーを淹れる頻度が少し減って、夜だけになっていた。僕は別に無理をさせてまで飲みたいわけでもないので、彼の気分に合わせている。
教科書はついに読み終えてしまって、魔法の勉強はとりあえずおしまいということになった。占術の実践と記述の練習は、朝一番に今日の運勢を占ってみることにしている。ドゥイリオの運勢ではなく僕の運勢だ。自分のこととなると解釈に偏りが出たり、その日の行動に無自覚の制限が掛かったりしてしまうから、初心者の間は必ず他人を占うのが基本である。
「そう、良い感じだ。均等に交ぜて。……ちょっとその辺の魔力が薄いかな」
「はい」
カードに渡した魔力が均一でないと、公平な結果は出ない。魔力を多めに渡したカードの方が引かれやすくなってしまうのである。
ぎりぎり天窓の勢力範囲を脱したテーブルの上で、ドゥイリオがカードを一つにまとめる。それから三枚をめくった。
「ええと……逆位置の『猛進』、正位置の『押し売り』、正位置の『桃色の小包』、ですね」
「うん。解釈は?」
「『猛進』は大きな変化への警告だから……その反対ということは、特に何も起きない、ってことでしょうか」
「うん」
「けど正位置の『押し売り』があるから、思いがけない訪問があって、それで……『桃色の小包』だから……なにか仕事というか、やらなきゃいけないことが来るのでしょうか。正位置だから、悪い結果にはならなさそうですけど」
「うん。そうだね。じゃあそれを書いておいて」
「はい」
ドゥイリオはさらさらとノートにペンを走らせた。彼が教科書を片手にたどたどしく書き写していたのは最初の三日ぐらいで、あっという間に暗記してしまった。その吸収の良さを見ていると、しおれていた花に水をやっているような気分になる。
書きながら、彼はふと思いついたように言った。
「師匠は、あまり占いのことを気にされないんですね」
「ん、ああ。気にし過ぎないようにするのは重要なことだよ。占いってある意味では暗示であり、縛る行為でもあるからね。やり過ぎると人心操作になりかねない」
「じんしんそうさ?」
「人の心を操って、思い通りに動かすってこと。犯罪だよ」
「そんなこと出来るんですか」
ドゥイリオは驚いたように顔を上げた。僕は苦笑する。
「そういう魔法はあるけれど、簡単には出来ないよ。きっちり用意を整えれば、まぁ、けっこうな精度でできるらしいけど……」
「用意、というと」
「んーと、共感と洗脳、だったかな。想いや目標を重ね合わせて共感することで、術者のやりたいことをその人のやりたいことだと誤認させるんだ。それから、その目的がブレないように洗脳を繰り返す。同じことを何度も聞かせるとか、言わせるとか」
ふと、昔師匠の研究室にあった論文のことを思い出した。
「ああ、そういえば、最も効果的なのは日記の添削だって読んだことあるな」
「日記の、添削ですか?」
「そう。ほら、日記ってさ、その日に起きたことや、そこから考えたことを、嘘偽りなく書き残すっていうのが本来の役目だろ。もちろん、嘘を混ぜることだってあるけどさ。本来なら、日記に書かれることは本心であるはずなんだ」
つまり、そこに手を入れる行為は、その人の考え方に手を入れる行為である。と僕は続けた。日記をそんな風に利用することが出来るのか、と衝撃を受けたことまで鮮やかによみがえってくる。
「繰り返し添削をして、この考え方はよい、この考え方は駄目、ってやっていくと、自然にその人の思想を捻じ曲げることが出来るんだ。そうやって、書いて、直されて、直されたのを読み返して、ってやっているうちに、だんだん、書き手自身が添削者の意図に沿った考え方をするようになっていく。場合によっては、本人すら気付かないでね」
「……」
「良い方向へ利用することも出来るんだけどさ。精神的なケアとか」
「そ、うなんですか……」
ドゥイリオの顔が引き攣っていた。どうやら怖がらせてしまったらしい。確かに、朝一で聞きたいような心地の良い話ではなかった。
「ごめん、怖かったかな」
「いえ、そんな……。あの、ちなみになんですが、師匠」
「うん。何?」
「占いの記録用のノートは改竄されない特別なものだ、って言ってましたよね」
「そうだよ」
「こういう、普通のノートとインクだと、改竄できるってことですか」
「うん。やってみようか?」
言いながら、ドゥイリオが書いたばかりの文章を指差す。『猛進』を表す記号の前に付けられた、“逆位置”のマーク。これを反転させてみよう。
「《そは誤謬、我が意を汲んで置き換われ》」
すると“逆”の字を作っていたインクがふわりと紙から離れ、滲むようにして形を崩した。一度液体の塊にまで戻って、それから別の形に変わる。再度紙の上に戻ってきた時には、それは“正”の字になっていた。
ドゥイリオはその様子を食い入るように見つめていた。
「すごい……」
「紙とかノートとかに事前に魔法を仕込んでおいて、遠隔で書き換えることも出来るから、この先契約書とかにサインするような機会があったら気を付けてね。知らない間に改竄されてました、とか、わりとあるトラブルなんだ」
「……見分ける方法とかって、無いんですか」
「あるよ。一番簡単なのは、教科書の『発見の魔法』だけど……わざわざそういうものを仕込んで騙そうとする奴らはもっと巧妙に隠すから、上級の鑑別術式が必要になるかな。文書に対する悪意ある改竄は犯罪だから、発覚した時点で罪に問えるけど」
僕はもう一度ノートを指差して、“正”にした文字を元の形に戻した。
「さて、それじゃあ朝食にしようか」
返事がない、と思ったら、彼は口元を覆うようにして何やら考え込んでいた。
「ドゥイリオ?」
「っ、あ、はい! 朝ご飯ですね、すぐに!」
ドゥイリオはバネ仕掛けの人形のように立ち上がって、ばたばたとキッチンへ駆け込んでいった。いつもきちんと片付けてから行くのに、ノートは開きっぱなしで、教科書もカードも出したまま。
僕はカードを箱に戻しながら、少し首をひねった。
なんだか、何かを隠しているように見えた。でもそれが本当だったとして、いったい何を何のために隠しているのか、僕には見当もつかなかった。
午後の勉強は数学の基礎をやるようになった。教養試験もあったような気がする、と思い至ったからである。
ところが、これが案外鬼門だった。
「掛け算と割り算が先……でもカッコが付いていたらその方が先……」
数学というか算数だ。やり始めて気が付いたが、どうやらこちらを優先すべきだったらしい。あまり期待はしていなかったけれど、さすがに四則計算でつまずくとは思っていなかった。
「ええと……?」
「ゆっくりでいいよ。丁寧に、まずはカッコを外すところからやってごらん」
「はい」
一時間ほど数字と向き合ったところで、彼の限界が来る。分かりやすく、ペンがぴたりと止まるのだ。
「じゃあ、今日はここまでにしようか」
「はい」
あからさまにホッとした顔をされても気にはならない。得意不得意は誰にでもあるものだし、そもそも数字との縁などほとんど無かったのだろうから。一時間きっちり集中できるだけ立派だ。
残りの時間はお互い好き勝手に過ごす。
僕は外へ出て草刈りや散歩をすることが多くなった。体力の衰えが日に日にひどくなっているような気がするのだ。暑さにバテているだけならいいけれど、万が一が分かってからでは遅い。
ドゥイリオは毎日、本をむさぼるように読んでいる。まるでこれまでの分を取り戻そうとするかのように。僕が散歩から戻ってくるたび、床に積んでいたたくさんの本を、慌てて片付ける姿を見るようになったのだ。「部屋が散らかるのも分かるだろ?」と言ったら「いえ、それは分かりません。毎回片付ければいいだけです」と言い返されたけれど。
「ちょっと出てくるよ」
「はい。お気をつけて」
いつものように見送られて家を出る。
この季節、山は絶好調だ。じりじりと照りつける太陽がまぶしい。小さなナグシオが二匹、長い耳をぴょこぴょこと動かしながら、茂みの中へ飛び込んでいった。
(昨日は北側を歩いたから……東側へ行ってみるか)
歩き始めてみて気が付いたが、山は案外面白かった。これまで一度も踏み入ってこなかったことが、少々悔やまれるくらいに。
いろんな生物の気配が四方に満ちている。時々立ち止まって、目を瞑り、耳を澄ますと、その息遣いまで聞こえてくる。葉擦れの音。枝のしなり。鳥のさえずり。獣の呼吸。
(この辺りは凶暴な魔物もいないって聞いたし――)
――いや、そういえば。
(引っ越してきた時、西側には絶対に行くなって言われたな)
どうせ家から出ることなどない、と思って聞き流していたことをふいに思い出した。西側にある沼地はタボルティコという恐ろしい毒草の群生地で、なおかつ沼には良くない魔物が住んでいるから、という話だった。
(一応、ドゥイリオにも言っておかないとな)
注意しておけば近寄ることはないだろう。僕はそのことを忘れないように心の中で繰り返し唱えながら、山の中を適当に歩きまわって、家へ戻った。ドゥイリオはやはり積み上げた本の山を元通りにしている最中だった。
寝る前に、今日の占いの結果を確認する。
「『猛進』は当たりだね。何事も無く平和だった。あと二つは残念ながら」
外れ、と言いかけたところに、凄まじい勢いのノックが被さった。僕らは揃ってびくりと肩を震わせた。こんな時間に客なんて、珍しい。
「当たりかもしれないな」
言いつつ扉を開ける。
飛び込んできたのは、フリッツとおかみさんだった。ひどく取り乱し、息を切らせている。おかみさんなど憔悴しきった様子で、フリッツの腕にすがりついていた。
「先生! 先生、助けてくれ!」
「どうしたんだい?」
「うちの息子が帰ってこないんだ……!」
僕は息を呑んだ。どうやら当たりだったようだ。それも、あまり嬉しくない方面に。




