>地球の歴史も証明している。本当に恐ろしい虐殺や迫害を起こすのは強者ではない。
>地球の歴史も証明している。本当に恐ろしい虐殺や迫害を起こすのは強者ではない。かつて弱者であった者たちなのだ。
強者は強者であるが故に、強い力の怖さを知っている。強い力の振るい方を心得ている。
しかし、弱者であった者は、それを知らない。
いきなり持たされた強い力に酔いしれ、それを何の自制もないまま振り回してしまう。再び自分らが弱者に戻らないために、強者であった者を徹底的に叩こうとする。それは時として強者より恐ろしい虐殺や虐待を引き起こしてしまうものなのだ。
(━_━)うーむ
強者と弱者ですか
「魔女狩り」に不平等な「経済戦」による収奪で大量の餓死者を出すなどの
権威を持つ強者の暴虐というのも多いので
語りたい状況は解るのですが
言葉選びというか今ひとつ強者と弱者という言葉がピンとこないのはジェネレーションギャップなのか
単なる歴史認識の違いなのか
個人的には強者と弱者ではなく
いわゆる「勝ち組」と「負け組」という言葉のほうが
「奪いあいの理屈」で動く同種の人間達が起こす悲劇を端的に表現している気がします。
何故かといえば
この認識は
「自律できない甘え」や
「欲望と幸福を混同する傲慢」や
「自由と利己を混同する無邪気」
といったものに溺れ
「暴力原理=弱肉強食」で人間社会が動くという事を「意識的」か「無意識」かは別にしろ認める者達を「弱い者」と表現するのは
「権威」を持つ強者が正しいという誤解を招くからです。
「権威」を持つ強者は有形無形の暴力の使い方を知っているから
愚民化政策や「パンとサーカス」で階層構造を維持できる
だから
虐殺や迫害を起こすのは暴力の使い方を知らないものだけ
というのは歪んだ理屈で
「しょせん世の中は奪いあい」や
「強くなければ何もできない」
という「暴力原理」を信仰し疑わない者の理屈です。
「権威」を持つ強者である事から効果的な暴力の使い方を知っているというのはともかく
“ だから「権威」を持つ強者が虐殺や迫害を起こさない ”
という事はありません。
「権威」を持つ強者は「権威」を維持するために
皆のための「法」ではなく
自分達の為の「掟」を造って
従わない者を「罪人」として
虐殺や迫害を行うのが「暴力原理で動く社会」で
現代でもそれは代わりません。
要は「イジメ」と同じ身勝手な理屈を「掟」とし
「掟」を「法」と偽り
上手く「イジメ」ていくうちは
虐殺や迫害を起こさないというだけで
エスカレートすれば
「やりすぎた事での事故」や「イジメを苦にしたした自殺」が起こるように
虐殺や迫害は起こってしまいます。
つまり
虐殺や迫害を起こすのは「暴力を行使できる立場」にあって
その「理屈=暴力原理」に溺れたり従ったりする者ですから
そういう者達を‘下種脳’と表現するなら
‘ 下種脳 ’はどんな所にでも、どんな立場の者の中にでもいて、世界を腐らせていくのでしょう。
ですから
○
地球の歴史も証明している。虐殺や迫害を起こすのは、余裕を持つ勝ち組ではない。かつて負け組であった者たちなのだ。
勝ち組は、余裕を持っているから自制できるうちは虐殺や迫害を起こす事はない。
だが負け組は余裕などなく、暴力を行使できる立場に立てば容易く力に溺れ、かつての勝ち組を負け組に貶めるために、再び負け組にならないように、勝ち組として虐殺や迫害を起こす。
そう、勝ち組も負け組も表裏一体で、同じ想いに突き動かされ、虐殺や迫害という破壊を起こすのだ。
○
という表現のほうが
「強さへの信仰という甘え」こそが
「人の業を自制して自らを律する事ができない弱さ」で
それを利用したのが「○○の○○」である自分で
それを自責を持って○○○が認めている
というシーンを表現するのなら相応しい気がします。
「暴力信仰」は持ってなくても
破壊の○○に相応しい「暴力原理への信仰」を○○が無意識で持っていて
だからこそ○○○は「○○の○○」なのだという表現なら別ですが。




