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蓮司 震える

 美代は俺の汚い大人の考えに気がついているのだろうか?

 目の前に座って、料理を美味しそうに食べる美代を見つめながら思う。


 このエレーナは、ロシア人だった祖母からつけた名だ。彼女は美しかった。小さい頃、自分の名前を呼ぶ彼女の記憶が微かにあった。だが、彼女は本妻ではなかった。蓮司の祖父には昔ながらの病気がちな許嫁がいた。許嫁に婚約解消を持ちかけると、そう簡単には首を縦に振らなかった。その代わり、彼女は白い結婚を望んだと言う。

 自分はもうそう長くはないから、子供も産めないし、結婚という形の幸せを心配している両親に味あわせたいからっというものだった。許嫁は言った。


 「あなたのことは兄のように敬愛しているけど、異性としては愛していないの。でも、先が短い妹からの望みは、結婚という形だけ欲しい」っと。


 小さいころ知っている許嫁だ。冷たく拒絶できなかったと聞いている。だがその決断は蓮司の祖父、慶一郎にとって人生の最大の過ちだった。

 白い結婚について話す慶一郎をロシア人のエレーナは受け入れられなかった。しかも、その時、すでにエレーナには蓮司の父、恭一郎がお腹の中にいたらしい。もし、そのことを知っていたら、慶一郎の決断はまた違ったものになっていたかもしれない。

 詳しいことはあまり知らないが、意外と環境が良かったせいか、本妻の女性は長生きをし、その本妻と外国人の愛人という形の生活は、プライドの高いロシアの生粋の血を引いているエレーナを狂わせた。

 蓮司の小さい頃の思い出は、日本家屋の離れに住む白い肌のやせ細った、年をとっても美しい人だった。故郷を想い、「ロシアに帰りたい」と言うかと思いきや、「もうすぐ慶一郎が、結婚の申し込みを私にするの……」とまるで、少女のように話したのだ。蓮司のことを孫だとは認識出来ず、会うたびに、『どこの子だい?』とロシア語で話された。


 慶一郎は役職を早目にリタイアし、残りの人生の時間をほどんどエレーナと過ごしていた。そして、あまり外出していなかった最愛の人を思い、船旅を始めたという。すでにその頃は本妻は亡くなっていたと聞いた。

 しかし、正気を失ったエレーナが、「ロシアに帰りたい」と言っても、エレーナをあまりにも愛しすぎていた慶一郎は、その彼女の要求を受け入れなかったと聞いた。


 蓮司の記憶が蘇る。

 二人の年老いた男女が庭のベンチに座っていた。

 祖父の慶一郎が、祖母を口説いている。蓮司にとっては見慣れた風景だった。


「エレーナ。貴方を愛してる。結婚してほしい」

「あら、ごめんなさい。私は慶一郎さんという人を待ってます。だから、ごめんなさい」


 慶一郎は、ただ困った顔をしてエレーナを見つめるのだった。

 こんな光景がほとんど毎日、家の何処で繰り返されるのだ。

 祖父は蓮司に言った。


 「私は、愛するひとを傷つけて、一生償っているんだ。蓮司、お前は間違えるなよ」


 いまその言葉を思い出していた。


 祖父は、最初はクルーズで始まった旅も、最後には個人用の船を買い、エレーナの体調に合わせて出航したり、地上で過ごしたと聞いた。そして、自由と愛を望んだ美しい人は、ロシアに近い海での散骨を願った。

 このすでに何代目か世代交代をしているエレーナ号だが、その重大な役目を負った船だった。


ーーエレーナ、君は俺の味方をしてくれるだろうか?


 愛している人が手に入る喜び、入らない苦しみ、両方を身をもって体験したエレーナ。君が味方してくれたら、どんなに自分の狂った行いも、わかってくれるんじゃないかと、亡くなった祖母を想う。


 美代が先ほど、自分に述べた言葉が信じがたい。


「帰らなくて……いい」


 驚いて、持っていたグラスワインを落としそうだった。

 ちょっと俯きがちな美代は真剣な顔つきだ。

 いつもの冗談を言っている彼女ではない。


 美代、わかっているのか? 汚い大人の俺がわざわざ海の上までにお前を連れてきた理由を……。


 逃げられないようにするためだ。


 海の上の船は孤城のようなんだ、美代……。


 どこにも逃げられないんだ。


 わかっているのか?



 でも、離さない。


 お前を閉じ込めて、俺の全てでお前を奪い、愛して……。


 俺の刻印をお前に全て刻みたい。


 そんな俺に捕まった美代。


 ごめんな。


 先に謝っておく。


 逃げられないから、


 どう考えても、


 お前を離すことなんて、


 この世の終わりが来てもないからな。




 その震える手が自分のセーターを可愛く掴んでいる。


 あああ、大丈夫。


 自分の身体にそれを見ているだけで、電流が走るような震えがくる。


 可愛い、美代。


 お前の全てが、欲しい……。

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