29話
別宅へ戻った私は、扉を閉めた途端、思わず大きく息を吐いた。
「あー、びっくりしたわ。それでも、意外と冷静に話せたわ。本当に良かったわ」
胸に手を当て、そっと撫で下ろす。
旦那様、あの驚きようったらなかったわ。
まさかパン屋で働いていた私が、書類上だけとはいえ、自分の妻だとは夢にも思わなかったでしょうからね。
ともあれ、仕事を辞めろなんて言われる前に(もちろん、そのつもりは一切ありませんけれど)無事に帰ってこられたのだから、大成功と言っていいわ。
そう思うと、ひとりでくすりと笑ってしまった。
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翌朝も、私はいつもどおり仕事へ向かいました。
先日買ったばかりのワンピースを着て。
店に入るなり、ご主人が目を細めて言ってくださる。
「すごく似合ってるよ。早く妻にも見せてあげたいくらいだ」
ご主人のほうが嬉しそうで、なんだかこちらが照れてしまいます。
「ありがとうございます」
そう言ってワンピースの上からエプロンをつけ、いつもの仕事に取りかかった。
外を見ると、こんなに早い時間なのにすでにお客様が並んでいる。
さあ、今日も一日頑張りましょう!
しばらくすると、女将さんもいつものように店へやって来ました。
私の姿を目にした途端、とても驚いた様子です。
「本当に似合ってるよ。せっかくだから、お化粧のひとつでもすればいいのに。アンジュちゃんなら元がいいんだから、もっとべっぴんさんになるよ」
その言葉に、胸が温かくなるのを感じます。
実家にいた頃、私は姉たちの影に隠れ、目立たず、忘れられた存在でした。
けれど今はこうして私をちゃんと見て、認めてくれる人たちがいる。
その事実が、たまらなく嬉しかったのです。




