五 プリアンナ・イルマーレ
目が覚めると、プリアンナは柔らかなベッドで横になっていた。
身を起こし、周囲をぐるりと見渡す。
すると一面、真っ白な壁に囲まれた部屋だ。高級感はあるが、あまりの白さに恐怖を感じた。
「ここは? わたしはどうして……あっ」
寝ぼけた頭を揺すり起こして、プリアンナは唖然となる。
そうだ。そうだった。
海の王国での惨劇。召使い人魚が殺され、ジョンまでもやられてしまった。そして姉と一緒に逃げたもののあの兵士たちに囲まれ――。
地上へ行くことを、覚悟したのだ。
そして檻に閉じこめられ、それ以降の記憶がない。
思い出した瞬間、ちょうどドアが音を立てて開いた。
現れたのは、見たこともない栗毛の人間の男性。黒装束を身に纏った、細身背高の美青年だった。
彼は「おやぁ」と嬉しそうに笑うと、こちらへゆっくり歩み寄ってくる。
「やぁ。起きてくれたのかぁい、それはそれは良かったぁ。もしやあの乱暴な下将に傷つけられて死んでやしないかと思ってぇ、とってもとぉっても肝を冷やしたよぉ。でも何もなさそうで安心したさぁ」
彼の声音にゾッと背中を逆撫でられたような怖気を感じながら、プリアンナは早速彼へ疑問をぶつけてみた。
「あ、あの、わたしはプリアンナ・イルマーレ。ちょっと訊いていい? ここはどこなの? あなたは誰なの?」
「あのねぇ、一度にたくさん問われてもさぁ、人間ってのは困るんだよぉ。疑念が尽きないのはわかるけどさぁ。……まずここはどこかだけどぉ、ボクの城。そしてボクが誰かって言えば」
漆黒の瞳を怪しげに光らせ、彼は名乗り上げた。
「ロンダ帝国皇帝――ディム・ボリス」
それを聞いた途端、プリアンナは心臓が止まるかと思うほど驚いた。
目の前の青年が地上の帝国の皇帝だなんて信じられないし、信じたくない。
でも状況的に考えて、それはあまりにも現実味を帯びていた。だってあの男、下将は言っていたではないか。皇帝がプリアンナを求めていると。
目の前の青年があの悲劇の元凶だったのだとしたら、なんと恐ろしいのだろうか。
そんな男に今、まっすぐ見つめられていると思うと怒りと恐怖が湧いてくる。
「あなたはわたしをどうするつもりで連れてきたの? どうして王国をあんなにしたの?」
その質問に、青年はやはり間延びした声で、しかし熱を持った口調で語りはじめた。
「キミの国を無茶苦茶にしたのは悪いと思ってるよぉ。だからそう怒らないで欲しいなぁ。……半年くらい前かなぁ。とある海辺で、とっても綺麗な歌声を聞いたんだよぅ。それが海から聞こえてくるからぁ、真っ暗な夜の海を見たらぁ、そこに、月に照らされたキミの姿があったんだぁ。その時からボクはキミにぞっこんなんだよぉ。結婚してくれないかぁい? ――プリアンナ」
まくし立てるように話され、そして、結婚を求められた。
あまりの急展開に、プリアンナの頭では追いつかない。
状況を整理しよう。
彼が言っていることを考えれば、プリアンナが夜に海上で歌っていたところを見たという。それに一目惚れしたのだと。
しかしプリアンナは海上でたった一人で歌ったことなどない。それは恐らく――。
「お姉様だわ」
ヴァレリアの姿を、桃色と誤認したに違いない。
髪の毛の長さは大きく違うが、夜闇の中そこまでは見えなかったのだろう。つまりプリアンナは人違いで、こんなところまで連れてこられたことになる。
しかし事実を言うわけにはいかなかった。だってそれでは今度は、姉の身が危なくなってしまうから。
どうしたら。どうしたら。もし反論しなかったら、プリアンナはこの男と結婚させられることになるだろう。きっと抗うことはできない。だって相手はこの国で一番の人間なのだ。
ではどうやればこの場をきり抜けられるか――。
「で、でもわたし、十二歳なの。だから結婚は……」
そうやって断る作戦に出たプリアンナ。
だが、
「できるさぁ。だってボクは皇帝だよぉ? できないことは、なぁい」
不気味な微笑みで、そう言われてしまった。
その言葉には嘘偽りは感じられず、プリアンナの小さな体はすくみ上がってしまう。
やはり拒否することはできないらしい。そして桃色の人魚の中には何の次善策も浮かばなかった。
こんな、出会って数分の男と婚姻を結びたいなんて、もちろん思わない。
でもきっとプリアンナがわがままを言えば、お母様が、お姉様が、王国の皆が辛い目に遭ってしまう。
それだけは絶対に嫌だったから、
「うん。わかった。わたし、あなたの奥さんになるわ」
と、頷いていた。
これはプリアンナなりの覚悟。
これ以上は皆に迷惑をかけず、一人で生きていく。例えこの男と一生暮らすことになったとしても、皆の幸せのためならこれでいいと決意したのだ。
「うん。偉いねぇ。賢いし可愛いしぃ、やっぱりキミはボクの見こみ通りの花嫁だよぉ。――よぉし。じゃぁ来週にでも式を執り行おうじゃぁないかぁ。キミのためにぃ、立派なドレスを買ってあげるからぁ、それまでこの部屋でおとなしく待っているんだよぅ」
「う、うん」
満足げな笑みを残して、青年がすたすたと部屋を去っていく。
ドアが閉められた後、たった一人で残されたプリアンナは布団に顔を埋めて、泣いた。
泣いた。泣いて泣いてすすり泣いて、菫色の瞳からポロポロと涙を流し続けた。
辛かった。海の王国にもう二度と戻れないのかと思うと、悲しさに胸が張り裂けそうだった。
「どうして……、どうしてなの! わたしは、ただ」
幸せで、平和なときを皆と過ごしたかっただけなのに。
なぜこんなことにならなければならないのかと、プリアンナは世の不条理を、己の不幸を嘆く。
――そのまま疲れ果てて眠るまで、ずっとずっと、嗚咽を漏らして泣き続けていた。
それからしばらく、食事が朝昼夜の三度運ばれてくるだけで、他には何もない日々が続いた。
その頃にはすっかり涙も枯れきっていたし、逃げ出そうなんていう考えも失せていた。実際プリアンナは数度逃亡しようとしたのだが、この部屋はまるで牢獄のように穴一つなく、決して彼女を逃がさないのだ。
そして七日目、運命の朝がやってきた。
「プリアンナ様、失礼いたします」
入ってきた給仕の女性が手にしている物を見て、プリアンナは久々に驚きを得た。
薄桃色の花嫁ドレスだ。至るところに宝石が飾られており裾がひらひらしていて、とても美しい。
「式は今夜行われますが、試着をお願いします。何か不具合があればお申しつけください」
プリアンナはこくりと頷いて、袖を通してみる。
差し出された鏡という物で己の姿を見てみると、そこには可憐な少女が佇んでいた。
丈が長いおかげで足が隠れ、まるで人間みたいだ。着心地もよく、文句なしのでき具合だった。
……もしこれが皇帝との結婚式用の衣装などでなければ、プリアンナも大喜びするところである。
「お気に召されたようで何よりです。そしてもう一つ、欠かしてはならないものがあります」
そう言ってメイドが取り出したのは、桜色のヴェール。
頭にかぶるのだという。
「このリボンはつけちゃだめなの?」
「そうです。それは、花嫁に相応しくありませんから」
「……はい」
お気に入りの紫色のリボン。母からプレゼントされた思い出の品なのだが、それは取り上げられてしまった。
ヴェールの他、その他色々な装飾品を身につけて確認し終えると、女性はそれらを置き、
「また呼びに参りますので、それまではごゆっくり休まれていてください」
と帰って行った。
「いよいよ今夜は結婚式なのね……」
そう思うとプリアンナは憂鬱でならない。しかし祈っても願っても、誰にもそれは届かないのである。
――式は刻々と迫っていた。
ノックの音で、プリアンナは起こされた。
どうやらまた寝てしまっていたらしい。眠る他には何もない部屋なので仕方のないことだった。
「プリアンナ様、そろそろお時間でございます。ご用意を」
ふたたび花嫁装束を着こみ、今度こそ本番へ臨む。
不安が心を掻き乱す。それでも表向きは平静を装い、あくまで笑顔を作った。
――そうしないときっと、もっと悪いことが起こるに違いないから。
式が行われる広間には、すでにたくさんの人々が集まっていた。
あのとき海の国を荒らした兵士どもや、無数の給仕たち。そして広間の中央、そこに異色の男がいる。
皇帝ディム・ボリス。黒い礼服を身に纏い、気色の悪い笑みを浮かべてプリアンナを待ち構えていた。
「さぁて。いよいよ待ちに待った時間だぁ。プリアンナ、今まで退屈させてすまなかったねぇ。ドレスがよく似合ってるよぉ? やっぱりキミはそこら辺の女の子とは桁違いに可愛いんだねぇ。……司会、頼むよぉ」
彼がそう言うなり、司会者らしき老執事がホール中に声を響かせた。
「では、早速はじめさせて頂きます。――新郎ディム陛下。あなたはプリアンナ様を妻とし、健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも、妻を愛し、敬い、慰め合い、ともに助け合い、その命ある限り真心を尽くすことを誓いますか?」
「もぉちろん。誓うともぉ」
皇帝が頷く。今度は、プリアンナの番だ。
「新婦プリアンナ様。あなたはディム様を夫とし、健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも、夫を愛し、敬い、慰め合い、ともに助け合い、その命ある限り真心を尽くすことを誓いますか?」
「わ、わたしは……」
声を震わせ、プリアンナは俯く。
これに答えてしまえば、もう後戻りはできない。
本当なら今すぐにこんな式なんか滅茶苦茶にして、憎き皇帝を懲らしめてやりたい。
でもプリアンナには、それだけの力がなかった。
俯いた視線の先、自分の首にかけられた真珠のネックレスがある。
たった一つ許された私物。これはあの日、姉からもらった大切な物。
――それを見て、プリアンナは彼女のことを思い出した。
いつも優しくて、プリアンナのことを愛してくれた姉。
下将に囚われたあのときだって、プリアンナを必死に守ろうと足掻いてくれた、勇ましい姉。
プリアンナだって彼女のように、強くあらねばならない。
唇を噛み締め、勇気の足りない自分を奮い立たせる。
短い赤毛を揺らして歩き、ホールへ進む。
そして大きく息を吸い、口を開いた。
「わたしは――」
「その誓い、待ったをかけるわ。……お待たせ、プリアンナ」
背後から、透き通るような美しい声がした。
それはとても懐かしい声。今一番、聞きたかった声。
信じられないと耳を疑い、振り返る。
するとそこには、赤い人魚の少女がいた。
燃え盛る炎のような長い赤髪。菫色の瞳が綺麗で、真紅の鱗が煌めいている。
やはりそうだ、これは幻なんかじゃない。
嬉しさに、プリアンナは泣きそうになる。
そして、彼女を呼んだ。
「お姉様!」
プリアンナがこんなに困っているときに、彼女――ヴァレリア・イルマーレがきてくれないはずがないのだった。




