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六 ベル・クリランス

 見慣れた光景が、血の色に染まっていく。

 その中を、少女は全力で走っていた。


「お婆ちゃん、ルド……。なんで、なんでなの。なんでベルだけ!」


 彼女の整った顔は涙でぐちゃぐちゃに汚れてしまっている。

 もう泣いて泣いて泣き喚いた後だから、その涙すら枯れ果ててしまっているけれど。


 なぜこんなことになってしまったのだろか、彼女にはわからない。わからないけれど今は走るしか、なかった。



 


 少女、ベル・クリランスは海辺の漁村、アンドレで生まれた。

 容姿は平均よりいい自信があるけれど、他に突出した部分の見つからない。そんなごくごく平凡な十四歳の少女。

 父はなく、母親も早くに亡くなってしまい祖母との二人暮らし。家は決して裕福ではなかったが、ベルは幸せに暮らしていた。


 彼女には、非常に仲よしな幼馴染がいる。

 彼の名は、ロナルド・シュディングル。村の有力者の息子でありながらベルに優しくしてくれて、いつも一緒に遊んでいた。

 今日だってそうだった。


「お婆ちゃん、ベル、ルドの家に行ってくるの」


 ルド。それはベルがつけたロナルドの愛称である。


「そうかい。気ぃつけるんじゃよ」


「わかってるの。じゃ、行ってくるの!」


 昼過ぎ。

 祖母に元気にそう言い残し、ベルは家を飛び出す。

 向かうはロナルドの家――否、邸宅だ。

 軽やかな足取りで彼女は、村の中を駆けて行った。


 貧素な村には似合わぬ立派な邸宅の戸を叩くと、中から茶髪の少年が飛び出してきた。――ロナルド・シュディングルである。


「ばあ! 待ってたぜ、ベル」


「遅くなってごめんなの、ルド。お邪魔させてもらうの」


 ルンルンと鼻歌を歌いながら、茶髪の少年よりも先に邸の中へ足を踏み入れた。

 ここにくるのはもう何度目になるだろうか。本来なら村人にとっては畏れ多い場所であるのにも関わらず、ベルは我が物顔で歩き続ける。

 そして、応接間の扉をガラリと開けた。


「今日もきてるの、リップさん」


「ああ、ベルちゃん。今日も元気そうで何よりだべ。それにしてもよお、リップって呼び方はやめてくれねえだべか?」


 そう言って肩をすくめるのは、やぼったい顔の大男だ。

 ただの芋男に見えるが、彼こそがこの邸の主人である、フィリップ・シュディングル。実はこの村で一番の腕っ節で、将軍の候補になったことさえある強者なのだ。

 が、ベルは笑ってかぶりを振る。


「いいじゃないの。あだ名っていうのはすなわち親愛の表現。ベルはリップさんのことが好きだからそう呼んでるの」


 そんなことを言いながらフィリップをスルーし、さらっと応接間のドアを閉めた。


「いつもびっくりだぜほんと。あんなけ大物な親父をしれっと受け流すなんて、女の子とは思えねえよな。オイラも見習いたいよ」


「ベルがすごいんじゃなくて、リップさんが優しいだけなの。さあさあ、ルドの部屋に行くの」


「へいへい」


 そんなことを言いながら、ベルとロナルドは一緒になって二階へ。

 ロナルドの部屋に入り、おやつを頂きながら、ベルたちは雑談をはじめた。


「ねえ、ちょっと聞いてなの。昨日、お婆ちゃんと釣りに出てたら、大きい魚を見たの」


「大きい魚? どんなんだよ?」


 興味津々に茶髪の少年が身を乗り出す。


「それがね、藍色の魚なの。人間くらいの大きさで、海のはるかを泳いでてとっても綺麗だったの!」


「それまさか人魚じゃねえのか?」


「まさかのまさかなの! 怖いこと言わないでなの!」


 そんな他愛ないこと言いながら、二人の少年少女はくすくすと笑い合う。

 ――実はそれは人魚ブルノなのだが、そんなことをこの二人が知る由もないのだった。





 この二人が、村一番の裕福な少年とただの村娘という身分差がありながらこんなに親しく接している理由は、ベルが九歳だったときのできごとのおかげである。


 ある日、まだ幼かったロナルドが一人で海へ釣りに出た。そのとき、うっかり海に落ちてしまった彼を助けたのが、たまたま居合わせていたベルなのだ。

 それ以来ベルはロナルドの父親のフィリップに心を許され、よく邸に招かれるようになった。

 ロナルドもフィリップも人がよく、つき合ううちにベルはすぐに仲よくなれたのだった。


 しかし少し気になることがある。

 いくら親しいとはいえ、ベルだってしょっちゅうロナルドの邸宅へお邪魔するわけではない。今日はわざわざ彼に呼ばれてきたのである。


「今日は、どうしてベルをここに呼んだの?」


「……実はな、今日、オイラがお前に助けられたあの日から、ちょうど五年の記念日なんだぜ!」


「あっ、そうだったの!」


 言われてベルはハッとなった。

 そうだ。すっかり忘れていた。どうしてそんな大事な日のことを忘れていたのだろうかと、ベルは自分を嗤いたくなる。


「それで、何を用意してくれたの?」


「ベルにプレゼントだぜ。……ほらよっ!」


 そう言ってロナルドに手渡されたのは、腕に抱えられるくらいのサイズのプレゼント箱。

「何なの?」と開封してみると、なんとそこには鮮やかな空色のワンピースが畳まれて入っていた。


「まあ、ワンピースなの! 着てみていいの?」


「もちろんいいぜ」


 服を着て、ガラス窓の前に立つ。

 鏡などという高価なものはさすがにないため、窓ガラスに映る己の姿を見つめる。

 そして直後、


「…………っ、可愛いの!」


 と思わず叫んでいた。


 村娘にはもったいないくらい綺麗なワンピースだ。丈は短く、素材は絹布で作られておりさらさらしている。一眼で高級品だとわかった。


「喜んでもらえるとオイラも嬉しいぜ。わざわざ隣町まで行って買ってきたんだからな」


「ありがとうなの、ルド!」


 抱きつき、感謝する。

 そのまま空色のワンピースを揺らし、くるくるくるくると二人で円を描いて部屋を回り、喜び合っていたそのときだった。


「おらああああああああああああ――!!」


 一階からものすごい吠え声が聞こえたのだ。


「何なの1?」


「なんだか嫌な予感がするぜ。ベル、降りるぞ!」


「わかってるの!」


 二人は大急ぎで階段を駆け降りる。

 ベルの胸の中にも、何かよくない感覚があった。

 そして一階へ着いて――。


 その光景に、ベルは目を丸くした。





 血。それは血だった。

 シュディングル家の一階廊下を、真っ赤な鮮血が飛び散っている。

 そして数人の亡骸が横たわり、その中央、無数の甲冑姿の男たちと激しく揉み合うフィリップ氏の姿があった。


「親父!」


「リップさん!」


 思わず叫ぶベルたちを振り返った大男、フィリップ氏。

 大鉈を振り翳しながら、彼が何ごとかを言おうとしたそのとき――。


「今だぁ! かかれ、かかれ!」


 一斉に甲冑男たちが彼に飛びかかり、一瞬でねじ伏せた。

「うがぁ」と呻くフィリップ氏。四肢をバタつかせるが、いくら大男でも三十人ほどの男たちには抗えない。


「親父ぃ!」


「ろな、るど……。帝国兵、だべ。おらが皇帝を好かんからと殺しにきたんべ……。お前らは、逃げ」


 直後、帝国兵の手にする剣が大男の首をたちきり――。

 

 フィリップ・シュディングルは無惨に殺された。


 何が起こっているのか、ベルにはわからなかった。

 知っている顔が、親しかった人が、今、目の前で死んだのだ。

 それも、突然に。


「お、や、じ……? う、嘘、だろ? い、いや、だ、ぁ」


 ガクッと地面に膝をついて、ロナルドが呟いた。

 その声に気づいて、兵士の一人がじろりとこちらを睨んだ。


「見られたからには仕方ない。お前たちにも死んでもらおう」


 惨状をただただ傍観しているベルたちへと、兵士たちが一気に走り寄ってくる。

 その瞬間、ベルは意を決して駆け出していた。


「べ、る?」


「ルド、逃げるの! このままじゃベルたちも殺されてしまうの!」


 何が何やらわからない。

 でも殺される直前、フィリップ氏は言っていたではないか。「逃げろ」と。

 ならばベルたちは生き残らなければならない。ロナルドの手を引き、少女は無我夢中で窓を破って潜り抜け、外へ出た。


 そしてふたたび、唖然となる。

 死体、死体、死体。赤黒い血、粘液、内臓、骨、死体――。


 親しかった人、そうでもない人たち。あらゆる村人たちの死体が、あたりに散乱している。

 それはまさしく地獄絵図であった。


「待て小娘!」

「逃がさないぞ!」


 背後から近づいてくる、声。

 足がふらつく。状況の理解が追いつかない。でも足を止めるわけにはいかなかった。


「うぇ」


 嘔吐感を堪え、走り、走り、走る。

 胸を焼き焦がす焦燥感。足の回転を上げる。間に合わない、もっと急がねば、急がねば、急がねば――。


「お婆ちゃんが……」


 祖母のことが心配だ。

 すっかり変わってしまった村の中を駆けて、向かうのはベルの自宅だ。


 ドアを開ける。リビングへ駆けこんだ。しかし、「誰もいないの」


「あ、あれ」


 そのとき、小さく手を引かれた。

 もちろんそれをやったのはロナルドだ。

 そして茶髪の少年が指差す方を見て、ベルは絶叫する。

 だってそこには、白髪の老女――祖母が血まみれで横たわっていたのだから。





 祖母は、胸に刃を突き立てられ、腹や足など各所から血を流して、地面に倒れ伏していた。

 ベルが祖母に気づけなかった理由は、開け放った玄関扉に隠れて見えなかったから。振り返ったロナルドが、老女を発見したのである。


「お婆ちゃん!」


 祖母の体に飛びつき、縋る。

 しかし祖母の体はすっかり冷たくなっていて、明らかにもう魂が抜けきった後だった。


「お婆ちゃんお婆ちゃんお婆ちゃんお婆ちゃん……。おばあ、ちゃぁん」


 ベルの碧眼から、大量の涙があふれ出してきた。

 どうして、と彼女は心で叫ぶ。

 今日は五年目の記念日なのに。今日はいい日だったのに。先ほどまでロナルドにワンピースをもらって喜んでいただけだったはずなのに。

 どうして、フィリップも、町の人々も、祖母までもが殺されているのか。

 わからない。なぜなのかわからない。頭がグラングランする。嗚咽が漏れ、涙が止まらない。


 全部、あのわけのわからない甲冑の男たちのせいだ。

 確かフィリップが言っているのを聞いたことがある。「上将が新しい皇帝になった。おらはどうも好かんべ」と。

 きっとそれが原因なのだろう。

 この国有数の有力者だったフィリップ。彼が新皇帝に反感を持っていたために、皇帝がこの村ごと彼を兵士に襲わせた。


「ひど、い。ひどいひどい、ひど過ぎる、の……。嘘、嘘、嘘なの。こんなの、夢に決まってるの。今日はいい日なの。ワンピースだってもらったの。今日はパーティーで、ご馳走を食べて……。だから、早く覚めるの!」


 夢なら覚めろと叫ぶ。

 だが無情にも、この悪夢は覚めることがない。……これは悪夢の如き現実なのだから。


 そのとき、大きな音がした。


「見つけたぞ、シュディングルの息子と小娘。今すぐ投降しろ。そうすれば、楽に殺してやるぞ」


 振り返ると、そこには剣や弓をもった五人の兵士たち。

 ふらつく足で立ち上がり、涙に霞む目でベルは彼らを睨みつけた。


「よくも……、よくもお婆ちゃんを殺してくれやがったの! 許さないの!」


「つまり投降しないということだな? ……殺せ」


 声と同時にベルは走り出す。

 リビングを抜け、目指すは勝手口。


 逃げる。逃げる。荒い息。足は速い方ではないが、死に物狂いで駆ける。

「待ちやがれ!」と追ってくる甲冑男たち。


 私の追いかけっこはいつまで続くのだろうか。息をきらしながらベルは必死でノブを掴み、勝手口を開け放った。


 そして、絶句する。

 目の前に、無数の兵士たちが待ち構えていたのだ。

 背後には追ってくる男たち。つまり、挟み撃ちにされたというわけである。


「ベル、行け」


 隣で手を繋ぐロナルドが覚悟を決めた顔で、そう言った。


「る、ルド、どうするつもりなの……?」


 背筋に寒いものを感じて、恐る恐るベルは訊ねてみる。

 そして案の定だった。


「オイラが囮になる。だからその間に、お前は逃げろ」


 だが、ベルはそんな提案を受け入れられるはずがない。


「嫌! 嫌なの! ベルは、ルドと一緒に助かるの! ベルだけ助かったって……何の意味も」


 ロナルドを見捨てて、ベルだけ逃げるなんてこと、できるわけがないではないか。

 激しくかぶりを振るベル。しかしその体が、直後、宙に浮き上がっていた。


「――え?」


 ベルの足が、地面から離れている。

 見るとすぐそこに茶髪の少年の顔があり、彼女は理解する。

 今、自分の体は彼に持ち上げられているのだと。


「ごめんなベル。……オイラ、お前のことを愛してたぜ!」


 ロナルドがそう、笑顔を見せた瞬間――。


「ルドぉぉぉぉぉぉぉぉ――!!」


 ベルは大空へと投げ出された。

 くるくる、くるくる、くるくる。

 視界が回る。何が起こっているのかわからない。回る、回る、回る視界で、少女は見た。

 茶髪の少年が、腹を刺し貫かれて倒れ伏すのを。


「あ、あ、あ、あ、あぁぁぁぁぁぁっ!」


 絶叫しながら、落ちて、落ちて、回転しつつ落ちていく。

 その間、数多の弓矢が飛んでくるが、一つもベルにはあたらない。そのまま彼女は草藪に激落した。


 逃げなくては。瞬間、彼女の頭をよぎった言葉がそれだった。

 そしてふたたび、本能のままに駆けはじめる。


 祖母も、一番の友人も、知人もすべて失ったベルが、このまま走っていて一体何になるのかはわからない。

 でも、ロナルドが遺してくれた気持ちを、無駄にしたくはなかったから。


 ――少女は、空色のワンピースを揺らして、三つ編みにした長い黒髪を振り乱して、泣きじゃくりながらも逃げて逃げて逃げ続ける。


 だが、その逃亡劇もいつまでも続くはずがなかった。


「今だ、放て!」


 足に痛みが走り、ベルは突然にすっ転ぶ。

 見ると右足に矢が突き刺さり、血が流れ出ていた。立とうとするが力が入らず、地面に倒れこんでしまう。


 ゾロゾロと敵兵がベルを取り囲んだ。

 殺される。殺される。このままだったら殺される。

 今まで積み上げてきた何もかもを無碍にして、このままなすすべなく殺されてしまうのか。


「誰か……」


 震える声で、呼んだ。


「誰かいないの? ベルを、ベルを助けて」


 地面を這い、救いを求める。

 だがしかし、誰一人としてベルを救ってくれる者なんていない。背中に剣が向けられ、死が訪れる――。

 その寸前、ベルの耳に、美しい声音が届いた。


「大丈夫よ」


 赤。それは燃え盛る炎のような紅色の、美しい少女であった。

 その手には真っ赤な宝剣が握られていて、それが周囲の兵たちのそっ首を一瞬にしてはねていた。


「あな、たは……?」


 顔を上げて少女を見つめ、ベルはそう問いかける。

 少女はベルのそばに立ち、華麗に微笑んで名乗り上げた。


「私はヴァレリア・イルマーレ。美貌の人魚姫様よ!」


 そのとき、ベルは赤い少女――ヴァレリアが、女神のように思えたのだった。

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