婚約破棄された公爵令嬢ですが、私を無能だと勘違いしていた皆様がこれから困ることになるのは自業自得です
貴族たちが一斉に注目する中、私の婚約者である王太子エルヴィンは堂々とした声で宣言した。
「本日、この場をお借りして皆様にお伝えしたいことがある」
私は、その瞬間、全てを悟った。
エルヴィンの隣には、淡い桃色のドレスを纏った男爵令嬢セリーヌが寄り添うように立っていた。潤んだ瞳で王太子を見上げるその姿は、さながら庇護を求める小鳥のようで、広間の誰もが彼女に同情の眼差しを向けている。
「リディアーヌ・フォン・アルトシュタット」
エルヴィンが私の名を呼んだ。大広間に反響するその声は冷たく、かつて婚約の誓いを立てたときの温もりなど欠片も残っていなかった。
「お前は婚約者という立場を利用し、セリーヌ嬢に対して数々の嫌がらせを行った。彼女の侍女を脅し、社交の場から排除し、根も葉もない噂を流した。これは王家の名誉を汚す行為であり、断じて許されるものではない」
周囲からざわめきが広がった。しかしそれは驚きというよりも、予定された演目の幕が上がったことへの興奮に近いものだった。
ここ数ヶ月、セリーヌが涙ながらに王太子に訴える姿は宮廷の誰もが目にしていた。悪役令嬢の断罪——それは彼らにとって待ち望んだ見世物に他ならない。
「よって、私はリディアーヌ・フォン・アルトシュタットとの婚約を破棄する」
静寂が降りた。全ての視線が私に集まる。嘲り、好奇、優越感。様々な感情を含んだ無数の目が、私がどう取り乱すのかを期待している。
私は、何も言わなかった。
弁明すべきことがなかったわけではない。
セリーヌの侍女を脅した事実はなく、社交の場からの排除など画策したこともない。噂を流したのはむしろ彼女の側であり、私はただ黙って耐えていただけだ。
しかし、それをこの場で訴えたところで何になるだろう。エルヴィンの目はとうにセリーヌしか映しておらず、貴族たちはすでに物語の結末を決めている。
私は首元に手を伸ばし、婚約の証である銀細工の首飾りを外した。蒼い魔石がはめ込まれたそれは、三年前にエルヴィンが私の首にかけてくれたものだった。
あのときの彼の笑顔を、私はまだ覚えている。覚えているが、それはもう意味のない記憶だった。
首飾りを近くの侍従に預け、私は一礼した。
「皆様のご多幸をお祈りいたします」
それだけを告げて、私は大広間を後にした。背後でセリーヌの安堵した泣き声が聞こえた。
「ああ、殿下……」
そして、貴族たちの囁き。
「さすがは悪役令嬢、最後まで反省の色なし」
「あの公爵家も落ちたものだ」
「無能な娘を王太子に押し付けようとして、恥を知ればいい」
無能。
その言葉が耳に残った。彼らがそう思うのも無理はない。
私は魔術学院の成績も中の上で、特別な才能を示したことはなかった。社交の場でも控えめで、華やかな話術で人を惹きつけるような器用さも持ち合わせていなかった。公爵令嬢としては物足りない——それが宮廷の一般的な評価だった。
けれど、それは表に見せていた姿に過ぎない。
馬車に揺られながら、私は手袋を外した。両手の指先に淡い青白い光が滲んでいた。
今夜の夜会の間も、私は王宮の浄化結界を維持し続けていた。断罪の言葉を浴びせられている最中でさえ、一瞬も途切れさせなかった。
もうその必要はない。
私は静かに目を閉じ、体内を巡る魔力の流れを意識した。王都の浄化魔法、外壁に沿った防衛結界、魔物の侵入を阻む境界線など。
それらの全てが、私の魔力によって維持されている。いや、維持されていた。
私は一つ一つ、丁寧に接続を解いていった。それは15年間、毎日欠かさず続けてきた作業の逆工程だった。
最後の接続が断たれたとき、ほんの微かに空気が変わった気がした。馬車の窓から見える王都の夜景は変わらず美しい。魔灯の光が星のように瞬き、城壁の塔には衛兵の灯りが揺れている。何も変わっていないように見えるだろう。今のところは。
公爵家の結界術は、初代アルトシュタット公爵が建国の折に王家と交わした盟約に基づくものだった。王都を守護する見返りに、公爵家は領地と地位を約束された。しかし100年以上が経つうちに、その盟約は文書の奥に埋もれ、結界の存在そのものが忘れ去られていった。
王宮の記録には「古代遺物による自動防衛機構」と記されている。宮廷魔術師たちもそう信じている。それが一人の公爵令嬢の魔力によって維持されているなどと、誰一人として考えもしなかった。
父は私にこの責務を引き継いだとき、こう言った。
「我がアルトシュタット家の誇りは、誰に知られずとも王都を守り続けることにある。見返りを求めてはならない。感謝を期待してもならない。それが公爵家の矜持だ」
私は、その教えを忠実に守った。魔術学院では意図的に力を抑え、目立たぬように振る舞った。結界の維持には膨大な魔力が必要で、私の魔力量は宮廷魔術師長をも凌駕していたが、それを知る者は父とすでに亡くなった祖母だけだった。
その矜持が、何をもたらしたか。無能の烙印。悪役令嬢の汚名。婚約破棄。
馬車が王都の門を出るとき、私は振り返らなかった。
◇◇◇◇
異変が始まったのは、リディアーヌが王都を去って3日後のことだった。
最初に気づいたのは王宮の庭師だった。中庭の薔薇が一晩で萎れた。前日まで見事な花を咲かせていた100本の薔薇が、朝になると全て茶色く枯れ落ちていたのだ。庭師は首を傾げたが、季節の変わり目のせいだろうと結論づけた。
5日後、宮廷の侍女たちが原因不明の頭痛を訴え始めた。微熱が続き、倦怠感が抜けない。
王宮の治癒師たちが診察したが、病因は特定できなかった。
瘴気の蓄積などという仮説を口にする者はいなかった。王都に瘴気があるはずがない——それが常識だったから。
10日後、事態は宮廷の外にも広がった。王都の外壁付近で魔物の目撃情報が相次いだ。
小型の魔獣が数匹、城壁の近くをうろついているだけだったが、これまでそのようなことは一度もなかった。衛兵隊は警戒を強めたものの、散発的な出没に過ぎないとして大規模な対応は取られなかった。
エルヴィン王太子はそれらの報告を受けていたが、深刻には捉えていなかった。彼の関心は、セリーヌとの新たな婚約に向けた準備に注がれていた。悪役令嬢を排除した今、全てが順調に進むはずだった。
「殿下、ここ数日、魔術研究塔の計器に異常が出ておりまして」
宮廷魔術師長ヘルマンが報告に訪れたのは、リディアーヌが去って2週間が経った頃だった。
「異常とは?」
「王都を覆う防衛機構に、微弱ながら出力の低下が認められます。古代遺物の経年劣化かと思われますが、過去にこのような記録はなく……」
「修理はできるのか?」
「それが、防衛機構の正確な仕組みが判明しておりません。古代の技術でして、我々の魔術体系とは根本的に異なるようです」
エルヴィンは眉をひそめたが、すぐに興味を失った。「引き続き調査せよ」とだけ命じて、魔術師長を下がらせた。
3週間後、魔物の出没は散発的なものではなくなっていた。
中型の魔獣が王都近郊の村を襲い、家畜が殺された。
衛兵隊が討伐に向かったが、翌日にはまた別の場所に現れた。
まるで、これまで存在していた見えない壁が消えたかのように、魔物たちは何の抵抗もなく王都圏に侵入してきた。
商人たちは、敏感だった。危険を察知した彼らは王都への物資輸送の頻度を落とし、一部の商会は迂回路を選び始めた。
市場の品物が目に見えて減り、価格が上がった。市民の間に不安が広がり始めた。
宮廷では、貴族たちの体調不良がさらに深刻化していた。瘴気という言葉をようやく口にする者が現れたが、それは荒唐無稽な仮説として退けられた。
王都内に瘴気が溜まるなど、あり得ない。防衛機構が機能している以上、外部からの瘴気の流入は阻まれているはずだから。
しかし、その前提そのものが崩れていることに、まだ誰も気づいていなかった。
1ヶ月が経った。王都は明らかに変容していた。
「空気が淀んでいる」と口にする者が増えた。晴れた日でも空がどこか霞んで見え、夜になると得体の知れない不快感が街を覆った。
子供や老人が体調を崩し、治癒院は患者で溢れた。治癒師たちは懸命に対処したが、原因がわからなければ根本的な治療はできなかった。
魔物の脅威は日ごとに増していた。大型の魔獣が街道上に出現し、地方からの物資輸送が完全に停滞した。
騎士団が出動して討伐に当たったが、倒しても倒しても新たな魔物が現れた。彼らはこれまで王都近辺で大型魔獣と戦った経験がほとんどなく、対応に手間取った。
エルヴィンはようやく事態の深刻さを認識し、宮廷魔術師団に全力での調査を命じた。
ヘルマン魔術師長は研究塔にこもり、古代遺物とされる防衛機構の解析に取り組んだ。しかし結果は芳しくなかった。
「殿下、率直に申し上げます。防衛機構は、完全に停止しております」
ヘルマンの報告を受けたエルヴィンの顔から血の気が引いた。
「停止だと。なぜだ。何百年も動いていたものが、なぜ今になって」
「わかりません。ですが、停止の時期を逆算しますと……およそ1ヶ月前かと」
1ヶ月前。その日付が何を意味するか、エルヴィンはすぐには結びつけなかった。
隣にいたセリーヌが不安そうに腕にしがみつき、彼はその手を握り返すことに意識を取られていた。
結びつけたのは、古い文献を調べていたヘルマンだった。
王宮の書庫の最奥、封印に近い状態で保管されていた建国期の文書。そこに記されていたのは、初代アルトシュタット公爵と初代国王の盟約だった。
『アルトシュタットの血族は、その魔力をもって王都の結界を維持し、国土を守護するものとする。この盟約は、王家とアルトシュタット家の絆が続く限り、永遠に有効とする』
ヘルマンの手が震えた。
古代遺物による自動防衛機構など、最初から存在しなかった。王都を守っていたのは、代々のアルトシュタット公爵家の人。現在はその責務を継承した一人の公爵令嬢だったのだ。
報告を受けたエルヴィンの顔は蒼白を通り越して土気色になった。
「リディアーヌが……あの結界を?」
「文書の内容が正しければ、そうなります。そして結界が停止した時期は、アルトシュタット公爵令嬢が王都を去られた日と一致します」
セリーヌが甲高い声を上げた。
「そんなの嘘に決まっています。あの女が結界ですって? あんな無能な人に、そんな力があるわけないじゃないですか」
ヘルマンは、黙ってセリーヌを見つめた。その沈黙が全てを語っていた。
エルヴィンは、アルトシュタット公爵領へ使者を出すことを決めた。リディアーヌに助けを求めるために。
◇◇◇◇
使者がアルトシュタット公爵領に到着したのは、王都を発って4日後のことだったと、後に聞いた。
その日、使用人が慌てた様子で駆けてきて、王太子殿下からの使者が参られたと告げたとき、私は、ああ、とだけ思った。
驚きはなかった。遅かれ早かれ、こうなることはわかっていた。
着替えを済ませて応接間に向かうと、使者は疲弊しきった顔で待っていた。4日間の強行軍だったのだろう。街道の治安も悪化しているはずだ。私がいなくなった王都の周辺では、魔物が増え続けているのだから。
使者が差し出した王太子の親書を、私は丁寧に受け取って開いた。
流麗な筆跡。エルヴィン殿下は昔から字が綺麗な方だった。婚約していた頃、私に宛てた手紙もこの筆跡で書かれていた。内容はもう覚えていないけれど、筆跡だけは覚えている。
親書には王都の窮状が切々と綴られていた。
結界の停止。魔物の侵入。民の不安。そして、結界の再構築への懇願。
最後の一段には、婚約破棄の見直しを示唆する一文が添えられていた。
私は最後まで読み終え、親書を静かに閉じた。
見直し。その3文字が目に残った。破棄ではなく見直し。なかったことにしたいのだろうか。
あの夜会で、数百人の貴族の前で私を断罪したことを。セリーヌ嬢の涙と周囲の嘲笑と私が首飾りを外したあの瞬間を。
なかったことには、ならない。
私は、使者に視線を戻した。
「お伝えください」
自分の声がとても静かだったことを、私自身が不思議に思った。
怒りが湧かなかった。悲しみも、ましてや勝ち誇った気持ちも、どこにもなかった。ただ胸の中は凪いでいて、水面に何の波紋も立たなかった。
「私は無能な悪役令嬢でございますので、お力になれることはございません」
使者の顔が歪んだ。彼は私の前に膝をつき、重ねて懇願した。
王都の民が苦しんでいること。子供や老人が瘴気に蝕まれていること。騎士団だけでは魔物を防ぎきれないこと。
その言葉の一つ一つが、私の胸に小さな棘のように刺さった。
民に罪はない。子供たちに罪はない。それはわかっている。わかっていて、なお、私は首を横に振った。
「王太子殿下は、夜会の場で仰いました。私が王家の名誉を汚したと。であれば、王家の名誉のためにも、私のような者が関わるべきではございません」
これは復讐ではなかった。少なくとも、私はそう信じている。
15年間、私は誰にも知られることなく結界を維持し続けた。
父の教えに従い、見返りを求めず、感謝を期待せず、ただ黙々と。それが公爵家の矜持だと信じていた。
けれど、あの夜会で気づいたのだ。矜持とは、踏みにじられるためにあるものではないと。
誰にも認められないことと全員から蔑まれることは、似ているようで全く違う。前者には静かな誇りがあった。後者にはただ痛みしかなかった。
私はもう、痛みを引き受けてまで誰かを守る理由を持たない。
使者が去った後、私は応接間の窓辺に立った。
秋の風が領地の森を揺らしていた。公爵領は平穏だった。
私は、領地の結界だけは維持している。それは王家との盟約ではなく、この土地に暮らす人々を守るという、私自身が選んだ務めだ。
窓から見える空は、王都の方角だけがわずかに濁って見えた。
それから半月が経った。
秋が深まり、公爵領には穏やかな日々が流れていた。私は領地の書庫で古い魔術書を読み、庭の薬草を手入れし、領民からの相談に応じて過ごした。
15年間、結界などの維持に注ぎ続けた膨大な魔力は、今は領地の土壌を豊かにし、作物の成長を促すために使っている。
結界の維持は、常に体の奥底に重りを沈めているようなものだった。それがなくなった今、魔力は自由に流れ、私が望む形で世界に働きかけることができる。薬草園の薬草は驚くほどよく育ち、領地の井戸水は澄み渡り、秋の実りは例年を超えた。
私は15年間、自分の力の本当の使い方を知らなかったのだ。
その日の夕暮れ、領地の管理官が一通の報告書を持ってきた。
「王都方面から逃れてきた商人の証言です。お目通しいただければ」
私は、報告書を受け取った。
内容は断片的だった。しかし、状況は推測できた。
魔物の群れが王都の外壁に到達したこと。城壁の一部が損壊し、下街に被害が出たこと。騎士団が防衛に当たっているが、被害は拡大の一途であること。
報告書を閉じて、私は窓の方に目を向けた。
王都の方角の空は、もう濁りではなく、薄い灰色の靄に覆われていた。瘴気が目に見えるほどに濃くなっている。私の目にはそれがわかる。結界術を扱う者だけが視ることのできる魔力の澱み。
あの靄の下で、かつて私を嘲笑った人々が怯えている。
胸に去来したのは、痛快さではなかった。何も感じなかったというのも正確ではない。
ただ、とても静かだった。長い間、重い荷物を背負って歩き続けた人間が、ようやくそれを下ろしたときの、あの空白に似ている。
肩が軽くなったことへの安堵ともう背負わなくていいのだという事実を、まだ体が信じきれていない感覚。
あの人たちを恨んではいない。けれど、救いに行くこともない。
それは冷酷なのだろうか。私にはわからない。
ただ一つわかるのは、あの夜会の大広間で首飾りを外したとき、私の中で何かが静かに終わったということだ。
義務でも、怒りでも、愛でもない。もっと根源的な何か。
誰かのために自分を差し出すことを当然だと思っていたあの感覚そのものが。
私は、窓を閉めた。
秋の冷たい風が遮断され、部屋に静寂が戻った。暖炉の火がぱちりと爆ぜる音だけが響いている。
明日は領地の東側にある薬草園の手入れをしよう。
私は机に向かい、翌日の予定を手帳に書き込んだ。その筆跡は、穏やかで、迷いがなかった。




