意識
それから三人で色々観光してから、少し町の外れに出て、店で買ったサンドイッチを頬張った。砂浜よりも少し手前の木が林立している影のある場所で、下に大きな布を広げて。つまりは、ピクニックをした。
「海が近いんですね」
「軍が強いのは海があるのも理由の一つ。海で泳ぎを覚えて、いざというときにも役立てる。水面下の奇襲も得意になるようにな」
海の潮風に当たったことはないから、潮の匂いが初めてだった。
「エンリル殿、今度母上と泳ぎに来ては?」
「いえ、遠慮しておくわ。私、泳げないもの。水の中で浮くことなんてできないわ。沈没船と同じ運命を辿りそうよ」
「それは大変だ。もしかしたら船で海から国を出るときもあるかもしれない。そういうときに泳ぎは覚えておくもの。アルクトス殿は泳ぎも上手い。今度、教わったらいい」
「教えるよ……リル…」
「いや、本当に。私、小さい頃に屋敷の近くにあった池で遊んでいたら、滑って転んで。陸に辿り着こうと頑張ったのだけれど、全然足がつかなくて。サリーが気づいてくれるまで私、溺れかけてたのよ」
ふと口にした名前。そういえばサリーからは手紙が一通来ていた。公爵が亡くなってからのものだ。新しく城の使用人として働き、家族と城下町に引っ越して幸せそうにしている様子が書かれていたから心配はしていないが。この海をサリーにも見せてあげたかったな。
「……リル。戻ってきてくれ……」
「え?」
不思議なことを言うアルに問い返すも、返答はなかった。
「とにかく、泳ぎが苦手なのもトラウマになってるのも理解した。エンリル殿は、その頬についたソースをどうにかしたほうがいい」
指摘された右頬を拭おうかと思ったが、アルクトスが指で取って舐めてしまった。
「アル、公私混同」
「していない………ただ…甘いソースを……食べただけだ…」
しょうもない理由を堂々と言うから怒ろうにも怒れなかった。
「そういえば、アルはいつからついてきてたの?」
「……」
「ハハハ!エンリル殿は鈍感なようだ。アルクトス殿は城の時からずっとついてきていたよ。昨日の夜だって、エンリル殿の部屋の前でずっとウロウロしているものだから、あれはよっぽど君のことを気にしていたんだな」
部屋に入りたいなら入って来ればいいのに…。
王子が先に仕事があるので帰るといった。海をしばらく見てから帰ってこいと言い残してきたので、しばらくアルと波の音を聞いていた。波の音を聞いていたら、アルの声が聞きたくなってきたので、私はいたずらに、彼を自分から押し倒してみた。急のことで力の抜けていたアルはすぐ布の上で仰向けになる。少しくらい、いいだろう。私は彼のちょうど心臓あたりに耳を当てるような感じで、控えめによりかかった。
「……甘えたいのか?」
「ちがう」
「…………もっと、来ればいい…」
アルクトスが私を引くから、身を委ねた。片方からは鼓動が聞こえ、片方からはゆっくりとした波の音。
「違うとは……俺には…反対のことを……さすのだな」
「ち、ちがうもん」
「甘えたいんだな……」
彼が素敵に笑った。笑うから、もっとイタズラしたくなる。
そっと、筋肉質な胸の間を指でなぞってみる。アルは途端にその手を掴んだ。
「くすぐったい…………」
なら、もっとしてやろうかと思って、掴まれていない方の手で、同じことをする。と、もう片方も掴まれてしまった。私はそのままバンザイの体勢で布の上に寝かされて、今度はアルのほうが上になった。
「これで……逆転だな…」
片手だけで私の二つの手首を掴む。
「ちょっと、楽しんでたのに」
「意地悪…したくなるのは……分かるな…俺もしたくなる…」
今度はアルが私の首筋を舐めた。
「さっきとやってることが、レベルアップしすぎなのよ!」
意地悪!
と、言ったのに、彼は笑って私を企むかのように見た。
「フッ……ウサギ…みたいだな………」
「う、うさぎ??」
「赤い目が……似ている」
「私はあんまり好きじゃないわ。赤い目も赤髪も血の色みたいだし、ウサギなんてひ弱じゃないの」
すると、アルが私の髪に顔を埋めた。彼は甘えるときいつもこうだ。
「俺は……好きだ。赤は太陽の色……ウサギは…食べたくなる……可愛さが…」
「でも、歳をとったら白髪になるわ。それにしわくちゃになるのよ?」
「それが……楽しみなんだ………」
楽しみ…ね。アルクトスが年老いたら、最強ではなくなってしまうかもしれない。焦げ茶色の髪は白くなり、顔にはたくさんのシワができるだろう。でも、そんな彼の顔もゆっくり、ゆっくり見ていきたいとも思うのだ。若いときを思い出しながらも、その時にもっと互いを大事にするような生活を送る。仕事に追われず隠居生活なんてことも。そうしたら、彼と二人きりで……穏やかに…。
「ふふふ。確かに。あなたと歳を刻むのをゆっくりみたいわ。私はきっと美しくなくなるだろうけど、それでも」
「いいや…」
彼が否定した。
「君は…学園の頃からずっと…………だから……美しいに違いない…」
「どこが?」
「教えない……」
アルが私の小さな胸元に口づけた。心臓が早く鳴り、ここまでキュンキュンさせられるくらいなら、私は年老いるのも早いんじゃないかとも思った。
それから、私達は帰り際小さなことを意識し始めていた。
「お母さん!あれ、おいしそー」
「だめ。まだおやつの時間じゃない」
「えー。お父さん…」
「そうだな。母さんの手伝いをしてくれたら、いいんじゃないか?」
何気ない家族の光景であった。私はそれを見て、じんわりと胸が温かくなる思いがした。
「…リルも…子供…」
「うん。でも、あなたと私じゃ種族が違うから出来にくいことはわかっているのよ。それに…私の両親はあまり褒められた親ではないと思ってるから」
母は父に魔物を操る力を隠し続けた。その不安、負担を父と背負うことをしなかった。父もまた、勘違いから始まり、私を殺そうとしたのだから。だから、子供が気になっていても、私にはまだ大切にできるかどうか…。
「そうか………でも…もし子供がほしいなら……言ってくれ。………仕事をしばらく……屋敷に持ち込む……減らすか…早く終わらせる……」
「一緒に子供を育てるってこと?」
「あたりまえだ……二人で……」
金色の瞳が優しげに私を見つめた。その奥に描かれている未来はきっと必ず、幸せなものなのだろう。
「考えておくことにするわ」
隣国に来るときよりも前から悩んでいたことだ。前のほうが考えはまだ薄かったが、今は真剣に悩み始めていた。
「少なくとも、明日も悩みそうね」
「待ってる……ゆっくり…」
額にキスしてくれる。私はそのまま近づいてきた顔の頬に、口づけをした。今までは彼だけが私にして終わっていたけど。チラッとその顔を見ると、少し日に焼けた肌色が紅潮していた。
城に戻れば、アルクトスには仕事が残っている。彼と別れると、なぜかすぐに王妃に捕まってしまった。
「エンリル、女子会よ女子会」
王妃の部屋に連れこまれて、王妃は鍵を締めた。
座る場所に困っていると、彼女が二つ椅子を運んできて向かい合わせにした。
「あなた、子供がいないのよね?」
「?はい」
「子供の作り方は知っているわね?」
「な、王妃は何を聞きたいのです?」
思わず大きな声が出ていたらしい。王妃がシーっと、指を口に当てた。
「こういう話、向こうの国ではできる機会がないと聞いているわ。シリーナ国の王も王妃が亡くなってしまっているし。こういう話をしてあげられるのは、私ぐらいでしょう」
まあ、確かに。王妃は頭の上にある大きな丸耳をピコピコしながら、私の手を握った。
「あなたの境遇も、夫に教えてもらっているわ。だから、あまり強くは言えないのよ。でも、これは忠告。子供は早く産まないと、後々子育てが辛くなるわ。年齢が上がるにつれて死産も多くなるし。何よりも、相手が待ってくれなくなるのよ」
「と、突然ですね」
「ええ。そんなことわかってるわ。でも、あなたが心配なのよ。その…アルクトスは、獣化の力も強いでしょう?子供を作るとき…その…ね?」
アルが貪るように私の体を強く抱くのを想像した。
「あ、アルは優しいですから!!」
顔を真っ赤にして叫ぶと、再びシーッと宥められた。王妃、急になんの用事かと思ったけど、子作りのこと……
「あなた、あの顔に騙されちゃだめよ。寝ぼけたような口調だし、穏やかな顔してるけど、アルクトスの裏の顔、知らないでしょう?」
「は、はあ…」
「学園を卒業してから、本当に酷かったのよ」
その話は、皆からされるが、本当に何が酷かったのやら。私はそれを尋ねることにした。王妃は長話になりそうだといいながら、私に話してくれた。
時は遡り、アルクトスが学園から卒業してからのことである。




