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傷の癒え

再び馬を走らせ、屋敷に帰れたのは取り返してから数日後の夜だ。

屋敷に連れ帰ってすぐ、俺はリルをベッドの上に寝かせた。


「旦那様、奥様は」


執事長が聞いてきた。俺は首を横に振って答えた。


「命はある…でも……心が壊れてしまった…」


すやすやと眠り続けるリル。今度は、狼に命を救ってもらえたからいいものの、心に負った傷は深かった。

自分が誰かと分からないのに、俺のことだけは思い出してくれていた。

帰り道の時に目を覚ました彼女は、ただ何も感じていないようだったが、少しずつ目の焦点はあいはじめていた。

だから、俺がすることは一つだ。


「執事長……公爵領の統括をまかせたい…」


執事長は俺の父上の代から支える信用できる人だ。既に髪の色は真っ白で、顔にも柔らかなシワができたおじいさんだ。だが、その仕事ぶりは、全盛の頃と変わらず、この屋敷を守ってくれていた。

執事長は、俺のこれからすることを汲み取って頷いた。


「承知しました。私め、善処いたします。どうか奥様の心を、取り戻してあげてください」


心強い執事長の言葉に、俺は再びリルの手を握った。


シャワーを浴びて汗と汚れを流し、寝る準備をした。

その間にメイドが、リルの着替えもしていたらしく、リルは目を開けて天井を見ていた。


「リル……」


ベッドに入り込むと、彼女を抱いた。傷だらけになった背中を、俺の方に向けてもうこれ以上きずつかないようにした。

彼女の燃えるような赤い髪に顔を埋めると、温かくて、ふんわりとした花の匂いが心をくすぐった。


「アル」


「なに……」


俺の名前を呼んだ彼女。


「ここはどこ」


「君の居場所……俺の屋敷だよ…」


“公爵”というキーワードは出さないように、彼女の小さな耳に語りかけた。

こうして抱いていると、とても温かくなる。体もそうだが、心までも癒されて温かくなる。

力を入れることも忘れた彼女は、ただ俺にその鈴のような声で質問した。


「ここは夢なの」


「違うよ…ちゃんと現実だ……」


「でも、アルが生きてる。抱きしめてくれてる」


そうか、君にとってはそれが夢のようなくらいに幸せなんだね。

心が壊れてもなお、君は幸せなことをちゃんと覚えてくれているんだ。

ありがとうと、彼女の手に指を絡めた。


「怖いの。痛くて」


胸が苦しくなった。ラモン公爵に行われた酷い傷を思い出した。

背中の肉は何十箇所とえぐられ、魔物の襲撃でできた傷を再び開かせていた。

右腕にはいくつもの深い切り傷が残っていた。垂れる血液が彼女の白い指先まで流れた。

腕も背中も血でいっぱいに濡れていた。

それに加えて、彼女はクマの生首を少なからず俺だと勘違いした。

これが追い打ちになって、彼女の心をここまで壊してしまったのだ。


「リル…こっちを向いてくれるか…」


腕の力を緩めると、彼女は寝返りをうってこちらに体を向けた。

赤い宝石のような瞳が輝きこそ失っていたけれど、綺麗に俺を見た。


大切な人に君は何度傷つけられても、その澄んだ瞳はかわらなかった。

でも、確実に君の心をえぐっていたことには違いない。


俺は彼女をもう一度、腕の中に抱いた。


「痛いよな…辛いよな……でももう大丈夫だ…」


彼女の頭を撫でて、艶やかで絹糸のような髪の質感を手で確かめるように優しくした。


「リル……愛しているよ…たとえ君が……俺との記憶を…忘れていても」


何度だって言ってやりたい。

どんなにリルが俺との記憶を忘れてしまっても、俺からの愛は変わることのないものだって。

そういうと、彼女は静かに目を閉じて腕の中で眠り始めた。

番がこの腕の中に戻ってきてくれた、それだけでも俺は嬉しかった。


次の朝、目が覚めると彼女がまだすやすや寝息を立てて、俺の腕の中で眠っていた。

可愛らしい赤色の小鳥にも見えた。


「かわいいな…」


我慢できなくて、その小さな唇にキスをした。つい長いこと離せなくなっていると、彼女の目が開いた。

赤い瞳は驚きつつも、そのまま俺に委ねてくれた。


「んんつ」


彼女の声で気づいて、俺はようやく唇を離した。

いつの間にか、息ができなくなるくらいにしてしまったようだ。

彼女が忙しなく肩を動かして呼吸を整えた。


「なにしたの」


目こそまだ何も感じてないようだったが、頬も耳も赤くして言った彼女。

彼女の中からは、キスという記憶さえも全てが抜けてしまっていることが分かった。

少しだけ寂しい思いになりながらも、彼女の花のように赤い髪を撫でてから微笑んで見せた。


「これはキスだ……一番甘いもの……」


「きす?」


自身の孤月のように丸い唇を細い指でなぞる仕草をした。

少しづつでいい。少しづつ思い出してくれれば。

朝食を取ったあと、俺は手紙を出した。

公爵がこの世からいなくなった今、リルはもう誰にもその身を追われていないのだから。

その手紙にはすぐに、吉報の知らせと共に返信が来た。

午前は屋敷に送られた城での勤めを果たしつつ、午後はリルと極力一緒にいる生活を初めて一週間。


「旦那様、お客さまがお見えです」


「すぐに…通してくれ……」


執事長に頼むと、その人物は部屋に入って来た。入ってすぐに、椅子の上に腰掛けていたリルへと抱きついた。


「あなた、だあれ」


「お嬢様、私です。サリーです」


その人物は、昔からリルの側に支えていた侍女サリーであった。

サリーとは約束の宿屋で落ち合った時に、互いが連絡を取れるよう、郵便の宛先を交換しておいた。

先週手紙をサリーに送ったのも、リルが心を取り戻すために何かしてやれないかと考えて一番に思い付いたことだ。


サリーはリルの白く細い美しい手に手を重ね、涙を流した。


「お嬢様。次お会いする際は、幸せな姿だと思っていたのですよ。アルクトス様からお聞きしました。本当に、お辛かったですね」


赤い髪を何度も撫でる姿は、まるで母親のようだった。

人形のように感情も忘れてしまった彼女を、サリーはいたわった。


「アルクトス様に愛されておられるのは噂で耳にしました。すごいですよお嬢様は。ヒューテルの国にまで、ミコラーシュ夫婦は仲がいいと噂になっているのです」


サリーもその口から公爵という言葉が出ないよう、話しかけた。

俺は使用人に、リルの座る隣に椅子を持ってこさせるとサリーに座らせた。

自分は向かい側に座る。


「どうですか、アルクトス様は。お嬢様が愛されすぎて、困ってるんじゃないかって、私心配してるんですよ」


「……愛しすぎて何が悪い…」


「お嬢様、いつでもサリーに泣きついていいのですからね。アルクトス様はかなり執着心がお強い方ですから、耐えられなくなりましたら、いつでもこちらに来てください」


侍女はリルに笑いかけた。

リルはそれに特に何も様子を見せなかったが、少しだけ変化した。


「サリー?」


彼女の小さな口から、侍女の名前が出てきた。


「はい!お嬢様、どうされましたか」


「わたし、おじょうさま?」


彼女はきょとんとした顔でサリーに聞いた。

自分が過去にどういう立場の人であったのかさえ、彼女から抜け落ちている。

手紙にも書いておいたが、そのショックはあまりに大きいものがあった。

サリーは、再び涙を数滴流してから、俺に頼み込んできた。


「髪のブラシを借りてもよろしいですか」


俺は頷いて、すぐに使用人に持って来させた。サリーが髪のブラシを受け取ると、リルを支えながら立ち上がらせ、鏡台の前に座らさせた。

リルを支え歩く姿は、さすが長年彼女の下働いただけあり、スムーズに彼女を移動させた。

鏡台の前に座ったリルの後ろに立ち、サリーはブラシを使って彼女の髪を梳かした。

サラサラと真っ直ぐに流れる赤い絹糸のような髪。

サリーは片手でひと房とふんわり掴みながらそれを一つ一つ、毛先から上の方にかけて何度も丁寧に解いた。


「お嬢様の髪、いつもこうしてとかせてもらいました。本当に美しい髪だと、お支えし始めた時から思っていたのですよ」


「うつくしい?」


「ええ。もうそれは花のようにです。こんなに綺麗な赤髪は、お嬢様以外に見たことがありません」


リルの髪をひさしぶりにとかす侍女の顔は、懐かしそうに目を細めて嬉しそうに口角をあげていた。

赤い髪はブラシを入れた場所がスーッと流れるたびに、一本一本の毛が色を変えるような艶やかさを持っていた。


「サリー」


「はい」


「いつも大切にしてくれた。ありがとう」


それは、彼女が不意に見せた笑顔だった。

鏡台の鏡越しに、その笑った顔が見えた。


「お嬢様、思い出してくれたのですね。嬉しいですっ」


サリーは泣きながらも、髪を梳かし続けた。

先程の笑顔。まだ彼女は全てを思い出したわけではなさそうだが、あの無邪気な笑い方、人を温かくする顔は太陽の微笑みと似ていた。


人形のように壊れていた心に、歯車が一つはめこまれたようだった。


サリーを呼んだことが、リルのためになっていたと思うと嬉しかった。

この調子で、彼女がだんだんと思い出してくれれば。


「さあお嬢様、できました」


鏡台の前に座る彼女。髪がとかされ、さらにサラサラになった。

部屋に入り込む窓からの風が、赤い髪を撫でフワリと持ち上げた。


「サリーありがとう」


再び微笑んだ彼女は、花の芽吹きを告げる春の女神のように美しかった。

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