目前の死
アルクトス視点です
左腕から多量の赤い血を流しながらも、彼女は俺を咄嗟に抱き込んだ。
貧血をおこしそうなくらいの血を流しながら、その細い腕で弱った力を振り絞って。
彼女の小さな背中に、大きな影が立っていた。影は彼女の何倍もの巨体を持つ魔物のものであり、魔物の爪は振り下ろされた。
何度もこの手で抱いた小さい背中の柔らかい肉を容赦なく爪がえぐった。焼けたようにこびりつく鮮血の匂いと、目の前でほとばしった赤。
今、何が起こっているのか理解が追いつかなかった。
気づいた頃には、俺の肩に血を吐いて、その身から生気が消えていく彼女。
ガーネットのようなキラキラとした美しい瞳が、慈しむように俺を見た。
泣いている俺を、慰めるように力なく笑った。
もう自力で立つ力も無くなった彼女の姿が信じられなかった。
腕の中に抱いた彼女はあまりに軽かった。それがいっそうこれから起こってしまうことを考えさせた。
日華のように可愛らしく笑う顔をもう見れなくなる。
花のように心をくすぐる髪も嗅ぐことができなくなる。
その鈴の鳴るような心地よい声が聞けなくなる。
ハチミツよりも甘い口づけが出来なくなる。
温かい体をもうこの腕の中でだきしめることができなくなる。
涙が出てきた。君がいなくなったら、こんなにも多くのことができなくなるんだと。
死ぬな
一生のお願いだ…頼むから
君に生きる希望を与えると言ったのは俺だ。だけど、生きる希望をくれていたのは、君の方なんだ。
君の隣が俺の居場所なんだ。唯一絶対の、大切な場所。
涙が何度も落ちては彼女の頬を濡らした。
まだ君の願いを叶えきれていない。永遠に繋がるような愛を、注ぎきれていない。
彼女は最後の力を振り絞って言った。
「ァ…ル……大好き…」
俺の愛称を初めて呼んでくれた声は、掠れて消え入ってしまいそうな声だった。
目を閉じて俺の腕の中で動かなくなった愛おしい人を精一杯に抱いた。
「ああああああああああ!!」
心が悲痛に耐えられずに俺は声に出して叫んだ。彼女の血で濡れた手が、ぶるぶると恐怖で震えていた。
なによりも大切な彼女を守るとそれだけを目標に強くなったというのに。俺は彼女に守られて、守ることができなかった。
「リルっっっ……死ぬな…死ぬなっ……目を覚ましてくれっ」
呼びかけても、彼女は反応しなかった。なんて残酷な運命なんだ。
俺の太陽は二度も奪われないといけないのか。やっと互いの気持ちも通じ合って、添い遂げられると幸せだったのに。
こうも簡単に崩れ去ってしまうものなのか。
「クーン…」
狼もそばに近寄り、彼女の頬を舐めた。俺の涙と彼女の血で濡れた頬を拭うように。
ただただ心に広がるのは、やるせなくて苦しい気持ちだった。
腕の中で冷たくなる彼女がこれ以上温かさを失ってほしくないと、俺は密着するように強く抱えた。
神様、もしいるのなら彼女をまだ連れて行かないでください。俺に返してください。
でも彼女の温かさ、命の光を失われていくのを肌で感じていた。
「バウ!バウ!」
狼は彼女を抱え崩れている俺の隣に座った。魔物は彼女の死を理解していないのか、鼻先を彼女の頬に押し当てた。
「狼…リルは……」
もう目を覚まさないんだ。そう言おうとした時、気づいた。
微かに彼女の口から息の出る音がしていた。本当に小さな呼吸だった。針が一本落ちたくらいに小さな音。
それでも彼女は息をしていた。
「アルクトス!」
「バーグナー馬をかせ!リルは…まだ息をしている」
急いで俺はリルを医者のところへ運び込んだ。
城に戻り彼女が集中治療を受けている間、治療室の廊下で俺は気が気でなかった。自分も相当体に負荷がかかっているのは分かっていた。獣化の力の使いすぎで、神経や骨の組織にまで影響が出ていたから。けれど、彼女の方がもっと危ういのだと苦しくなった。
両手を合わせて、天に願った。
彼女を奪わないでほしい。連れて行かないでほしい。
日輪のような温かい魂をもつ彼女はきっと、神にも好かれる。だからすぐに神は彼女を奪ってしまいそうだと思った。
でも呼吸があった。小さな希望だった。どんなに小さな希望でも、信じたかった。
きっと助かる。彼女ならきっと、また目を開いて笑ってくれる。
そう思おうとしても、もうダメなんじゃないのかという考えは拭えなかった。
「アルクトス、聞いてもいいか」
リルの治療を廊下で待っていた俺は、戦地で指示を出し終え城に帰ってきたバーグナーに話しかけられた。
「エンリルちゃんのあの力は何なんだ」
もう気づかれてしまったか。時代と共に失われ忘れさられていく能力のこと。
獣人では幼い頃に迫害の歴史を色濃く学ぶ。獣人はかつて虐げられていた存在であったからそれを忘れないようにするためにだ。
でも、魔力持ちのことを確かにそこで学んでいてもほとんど覚えていないだろう。
なぜなら魔力持ちは絶滅したとされているからだ。
その力は獣化の能力とは違い、血が必要だ。親が魔力持ちでなければ、能力を持った子は生まれない。なにより、獣人にその力を持つものは生まれない。
俺は正直に話した。
彼女は魔力持ちであることを。
「そういうことか。エンリルちゃんは優しいな。自分の故郷でないのに、国を救ったんだ」
彼女は確かに優しい心を持っている。何度だって俺の心を溶かした。
学園で、親が魔物に襲われて死んだと話した時に、彼女は涙を流してくれた。
あれほどに美しい涙を見たのは初めてだった。
懐かしい記憶を思い出していると治療が終わったらしい。医者が出てきて、俺たちを入れてくれた。
何もかも白い清潔感溢れる部屋で、リルは静かにベッドの上に寝かされていた。
赤い髪が枕に広がり、彼女は花のようだった。
王も遅れて部屋に入ってきた。
「リルは…どうなんだ」
恐る恐る聞くと、医者は首を横に振った。
「息はありますが、また目を覚ますかといわれると、助かる見込みはほとんどかと…」
「そうか…もうよい、ご苦労だった」
俺はその時、全身から力が抜けた。呼吸する仕方すら忘れ、心が恐ろしく冷えた。
彼女が助からない…?
急にこの白い部屋が天国なのではないかと感じた。彼女が最後に、美しい姿で眠れるように用意された真っ白な天国の部屋。
目の前で眠る花のような彼女は、まだ確かに息をしている。
またその日輪のような髪を揺らし、キラキラと可憐に輝く瞳を俺に向けて、今にも笑ってくれそうなのに。
目前にいながら、どこか遠くにいってしまいそうな彼女を呆然と見ていた。




