暴走
□月□日
もう耐えられないわ。あなたがいないということ。(汚れが染みていて読めない)…戻ってきて、アルクトス。
それから三日、眠りもできない日が続いた。
彼が魔物の襲撃に対処しに行って三日目。その日の朝一番に、待ち受けていた報告が来た。
「アルクトス様がっ……暴走しました」
運が悪いのか良いのか。私がたまたま廊下を通る途中で、その王への連絡の声が聞こえてきた。
アルクトスが…暴走?
「獣化の能力を発動し、一昨日から魔物を斬っていたのですが、今日、危うく騎士を一人殺害しかけました。幸い、軽傷ですんだのですが、その目が光っていたとのことで」
「眼が光るだと!?暴走の症状ではないか!」
アルクトスは今、本能に負けそうなのだ。暴走、もしそのまま長時間戦えばもう彼が人に戻ることはない。
「一昨日から発動するなど……獣化はもって半日の力なんだぞ!?」
「はい。そうとう無理をされておられました」
「クソっ。アルクトスまでもいなくなっては…」
キーンと耳鳴りがした。視界がグラグラ揺れ、立ってさえいられなくなった。
彼が暴走。人に戻れなくなってしまっては、彼は魔物よりも凶悪な獣へと身を堕とす。
彼からの抱擁は、まだ足りないのに。
彼の温かい笑顔を、もっと見たいのに。
彼の柔らかな髪を撫で、正直で私だけの獣耳を触りたいのに。
永遠の愛だって、まだ注ぐことを始めたばかりではないか。
彼がいなくなったら、私は何を求めてこれからを生きればいいのだろうか。彼に代わる生きがいなど、そんなものはない。
恐れていたことが頭を激しく突いた。
「エンリルちゃん!」
頭を抱えて倒れそうになったとき、支えてくれたのはバーグナーさんだった。
なぜこの人がここにいるのかと思った。でもすぐに、王が近辺の貴族たちにも要請をかけているのだと理解した。
魔物がいない方の安全な門を開けてまで、戦力を追加しないと間に合わないくらいなのだ。そのくらいに、今回の魔物の襲撃が大きな被害をもたらしていた。
「バーグナーさん…」
「無理すんな。水を持ってきてやるからな」
そういうバーグナーさんの袖を私は掴んで離さなかった。
我儘だとはわかっている。相手を困らせてしまうことを認めながら、私は言った。
「私を戦地に、城壁に連れて行ってください」
「バカか!それこそ、アルクトスが恐れていたことになるぞ」
私は首を横に振った。どうしても私はこの我儘を通さなければならない。
「私だってどうしても、守らなければならないものがあるの」
獣人には魔力持ちがいないと、サリーから聞いたことがあった。魔力持ちが生まれるのは決まって人間なんだと。人間ですら、その力に恐れをなして、過去に私達を迫害をしていたが、獣人は違った。
村の人達の顔を思い浮かべた。知らない力を持った見ず知らずの人を、あそこまで受け入れてくれた。王だって、魔力持ちと知りながら赤色を持つ私を、褒めてくれた。
それなのに、獣王国の方が魔物の襲撃の回数は人間の国より圧倒的に多かった。加えて被害の規模も圧倒的に多いのだ。
私を大切にしてくれる人、私が大切に思っている人がここに多くいる。
何より、彼が守ろうとしている国。彼がいる国なのだから。
今まで多くの獣人が私を歓迎してくれた。
彼がこうしてここに連れてきてくれたから、人の優しさにまた触れることができた。
彼がいたからこそ、私は今を生きれていられる。
彼の隣が私の居場所だ。
だからこそ、今度は私が守る番だと、守りたいと心底請い願うのだ。
「お前も死ぬかもしれないぞ」
「いいのです。彼と逃げ出す前は死ぬつもりでしたから」
微笑んで見せると、バーグナーさんはため息をした。
「支度してこい。軍が動き始めている」
私は急いで着替えた。動きやすい服に自ら袖を通した。シャツにズボンを着て、髪を一つに結わえた。
腰のベルトに小剣を携え、彼から貰ったペンダントと腕輪を確認して。
狼も連れて、バーグナーさんのところに戻ると、軍の人を何人か連れて待っていた。
彼らは騎士とは違い、敵国からの攻撃と魔物から国を守るための厳しい訓練を受けている精鋭部隊だ。
騎士が市民の治安を守り、軍は国を脅威から守るためにある。
軍を連れるバーグナーさんは、騎士よりも軍の人と縁が深いのだ。
「エンリルちゃんは、相変わらず何でも似合うな」
「ありがとうございます。さあ、早く行きましょう」
彼らはそれぞれ馬に乗った。私は狼さんの背に乗ると、軍人とともに走りとばしてもらった。
静まり返った街中を横切り、城下町を囲う大きな壁に沿って走らせた。
城壁に小さな扉が見えた。そこだけ木の扉がつけてあり、開くとそこは階段が続いていた。狼の背をおりて薄暗い階段を、バーグナーさんの後ろについて上った。
階段を上れば、都市を囲う部厚い城壁の上にある回廊へと出た。鉄の臭いがすぐに鼻をついた。それが血の匂いだということに気づくのは早く、今まで嗅いだことのないくらいに濃く嫌な臭いを発していた。
そこはまさに地獄だった。
騎士は血だらけになりながらも、弓やボウガンを携え矢を放っていた。目前にまで壁を上ってきた魔物には槍を投げ飛ばすか、押さえつけていた。仲間が倒れ、一人になった騎士は魔物に食われ、命が絶えていった。座り込んでいる怪我人には、腕や足が無くなっているものさえいた。
城にいた時にはこれほどの状況を想像できていなかった。
私を大切にしてくれた獣人たちがこの地獄に立ち向かい、家族と仲間を助けるために戦っていた。
「アルクトスはどこに」
近くにいた騎士に聞くと、指を指して教えてくれた。身を乗り出す勢いで、壁の外にいる彼を見た。見下ろす形で、そこに焦げ茶色の毛皮を持つアルクトスが見えた。彼はこの地獄の中、一人壁の外で獣化して戦っていた。
しかし、その動きは前に見せてくれたものとは違っていた。獰猛な獣のように縦横無尽に暴れまわって、魔物を倒し、食らいつくその姿はまるで本物の獣のようだった。
「アルクトス!!」
名前を呼んでも彼は反応しなかった。目が金色に輝き、私の声も届かない。この事実が、どれほど残酷な意味を表すか。
バーグナーさんも確信しているようだった。
「どうにか……どうにかできないのですか」
必死にバーグナーさんに聞くと、首を横に振った。
「分からない。獣化の能力持ちは少いから過去の資料も少ないんだ。己の本能に打ち勝つしか」
「っ……」
アルクトスは依然として暴れていた。周辺の魔物を食い散らかし、騎士と魔物の血の匂いが混ざった。
「化け物」
一人がつぶやいた。その目は恐怖に染まり、茶色のクマを見ていた。血に染まる大きな口と、大きな銀の爪を見て言った。
「違う!アルクトスは…アルクトスは、化け物じゃないわ!」
思わず激高して、怒鳴りつけた。彼らも命がけで市民を守ろうとしてくれているのに、叱ってしまった。
今彼は己の本能と、国を守るために戦っている。だから、化け物なんて言ってほしくなかった。
騎士が手足を、命を捧げようとも、魔物は一向に数を減らさず、他所の方面から次々に移動してくるようだった。
アルクトスもこのままでは、魔物の海に溺れて死んでしまう。それだけは絶対に避けなければ。
私は腰にあった小剣を右手に構えた。
「おい!エンリルちゃん、危ないからこっちに来い!」
回廊の縁に立ち、私は壁の外を一望した。魔物は今やこの高い回廊に、同胞の屍を山積みにしてまでまで登ってこようとしていた。バーグナーさんが連れてきた軍人も応戦しているが、このままでは間に合わないだろう。
私が止めなきゃ。
これは力を持った人の責務であり、何よりも彼が守ろうと戦っているのだ。
彼の守りたいものは、私も守りたい。
彼が戦っているのなら、私だって共に戦おう。
私は自然と口ずさんでいた。それは、口ずさむ私にも知らない言葉だった。どこの国にもないどこか遠い地の言葉。
それを一通り発すると、魔物はみんな足を止めて私の方を見ていた。
「魔物が動きを止めた?」
一人の騎士がきょとんとした声を上げた。
そうだ。この言葉は魔物の注意を私に向ける古の言葉。
私は左手を宙にかざした。彼がくれたブレスレットは手首に当たる日によって、美しく照り生えた。
「魔物よ。私は赤を身に宿すもの。かつてのように血を、分け与よう」
魔物を元に戻す方法。誰かから聞いた話。
そうだこの話は、お母様から聞いた話だ。幼い頃、お母様が話してくれる物語に出てきた方法。
ためらうことなく、私は小剣で自身の左腕を切った。左腕からは血がとめどなく流れていった。腕の肉を小剣で切りさいた痛みは、貧血をも起こさせたが私はただ耐えて、血の落ちていくのを見届けた。左腕に流れる血は一滴一滴形を成しては、流れてゆく。
意識が薄れる中、私はぼんやりと思い出していた。
『魔力持ち。魔を制する能力。その血肉は、暴走する魔物さえも元に戻せるのよ』
『すごい!なら、お母様も私も、友達を戻してあげれるの?』
『うふふ。そうね、正しい方法で行えばあなたにもできるわよ、リル』
『やったー!なら、私が王妃になったとき、国で魔物の襲撃があったら』
『それはだめよ。魔物を操る能力を持っていることはね、とても強い力をもっているということ。人々にまた恐れられて、あなたが危ないわ』
そう言って、お母様は微笑んだ。
どうしてこんなに大切な記憶を忘れていたのだろう。朦朧とした意識の中、私の血は流れ落ちていく。
魔物は一斉に地面に落ちた私の血へと群がった。彼等はその血を貪るように舐めていく。
「魔物が」
「帰っていってる」
血を舐めた魔物から、我を取り戻したかのように、壁から後退りしていった。次々と帰っていく魔物たち。
もう魔物はこの城壁にはいない。
「狼さん、連れて行ってくれる?」
「バウ!」
狼は一声鳴くと、私を背に乗せてくれた。しっかりその背をつかむと、壁から飛び降りた。
物の落ちるときにかかる風圧が、赤い髪を流した。
高さが人の何倍もある壁から、ストンと上手く着地した狼の背から降りると、獣の姿をしたアルクトスがこちらを見ていた。
「愛しい人。私と分かるかしら」
「グルルル…」
苦しげに唸っていた。本能にまだ、対抗しているのだ。
「ヴルグアアアア!l
突如として牙を剥き出したクマに、私は微笑みさえ浮かべた。
なぜか、狂おしいほどに愛おしく思えたのだ。
「大丈夫」
本能的に私は分かっていた。この血は、彼にも通用するのだと。
私は左腕から滴る血を彼にも飲ませた。クマの舌は、私の血を何度も何度も舐め取た。
一人であなたは最前線を守った。あなただって、私に甘えることができていないじゃないの。
もっと、頼ってほしい。あなたの望みなら、何でも引き受けて叶えてあげる。
赤い鮮血を舐め、獣の体は光になった。光がおさまると、彼は人の姿へと戻っていった。
「アルクトス」
「リル…」
ボロボロになったアルクトスを抱いた。またこんなに無茶をして。
人のために己の命を厭わない人は、本当に早死してしまうわ。
私は彼の頭に手を回して、柔らかな髪を何度も撫でた。
ただ、愛おしかった。
彼がまた人に戻ってくれて、またこうして、強く抱いてあげれることが嬉しかった。
「エンリルちゃん!後ろっ!!」
バーグナーさんが壁の上から叫んだ。私は油断していたのだ。
まだ一匹、魔物は残っていた。
狼が立ち向かうが、敵う大きさではなかった。狼が飛びかかるも地面に叩きつけられた。魔物は黒い鉤爪を振り上げた。
私はその瞬間に、アルクトスを胸に強く抱きこんだ。
この人だけは、絶対に傷つけさせないと。
勝手に体が動いていた。魔物の重い一撃に、私は耐え抜いた。
魔物は私の背中を深くひっかいたあと、返り血がついたおかげか、我先にと他の魔物のように巣へと引き返した。
「リ……ル…?」
「ゲホッ」
私は咳と共に、彼の肩に血を吐いていた。
「リル!」
愛しい人が私を抱えた。いつだって安心させてくれる彼の腕の中だと思って嬉しくなった。
激しい痛みよりも、彼の腕の中の温かさを感じていた。
抱擁が好きな彼。私が隣にいるのか不安になるから、毎日していると言っていた。
綺麗なハチミツ色を帯びた金の瞳から、雫が出てきて私の頬に垂れた。それは彼が見せた初めての涙だった。
「死ぬな……リルっ!」
簡単に死ぬなと、再会したときに言われたことを思い出した。
あれから、こんなに彼のことを好きになるとは思わなかったな。
学園にいた時あなたに一目惚れをした。エドワードに対する気持ちよりも情熱的に溢れる思い。それが今となっては、愛をも育み始めている。
「なか…な…いで」
笑顔でいて欲しい。彼の笑顔は世界で一番優しい顔をしているから。
最後になるかもしれない彼の顔が、涙で終わってほしくなかった。
「お願いだ……死ぬなリル」
震える声を必死になって絞り出す彼。
その願いを叶えてやりたいのに。私だって、彼とずっとずっと一緒に歩いていたいのに。
背中からも流れる血が、ベットリと服と肌を貼り付ける。
銀河の輝く夜空の下、手を繋いで彼と一緒に歩いていた。今まで、彼が道の先で私が来るまで待っていてくれていて、私の手をとってくれた。それから二人並んで歩いていた。
でも平穏な日々は、こうも簡単に崩れてしまう。私が先に、彼と共に歩いていた道を外れ、彼を道の中に一人残してしまうのだ。
ごめんなさい。永遠の愛を望んだのは私だというのに。
まだこれからだというときに、先に旅立ってしまいそう。
ポタポタと何滴も落涙する彼に、これだけは伝えたかった。
「ァ…ル……大好き……」
初めて呼んだ彼の愛称。もっと早くからそう呼べばよかったのに。お互いを愛称で呼び合うのが妙に気恥ずかしく出し惜しみしていた。
永遠の愛。それがあるなら、どんな姿でもいい。ただ彼の側にいたい。
例え木になろうとも、彼の側で育ちたい。
花になったら、彼が癒されるような花を咲かせたい。
鳥になったら、彼の疲れている時に美しく鳴きたい。
でも叶うことなら、まだこのままの人生を歩みたい。
神様、いらっしゃるならどうかまだ私を、迎えないでください。彼の隣にいさせてください。
私の視界は暗くなった。




