彼の夢
アルクトス視点
獣人公爵アルクトス・ミコラーシュ。
その獣化の能力を巧みに使いこなし、獣王国シリーナで最強の獣人として名を連ねた。
これも全て、エンリルのためだった。
学園の時、俺は彼女に恋をした。
いや、恋という言葉だけでは足りない。
番とか、愛とか、魂の片割れを見つけたようなものかもしれないな。
とにかく、その時からいつか手に入れたいと思い続け、何年も時が過ぎてしまった。
あるとき、獣王国の城下町に視察に出かけていると、噂が耳に入った。
ヒューテルの国の王子は不貞な野郎で、婚約者を裏切り愛人の手を取ろうとしていると。
その噂を聞いて、俺は藁にもすがる思いでヒューテルの国へと赴いた。
王に無理矢理押し付けた一週間の休暇。休暇を取るといった矢先、ほとんど持つもの持たずして国境を越えた。途中何度も馬と御者を変えながら、馬車を走らせた。
彼女を取り返せると思うと同時に、約束を果たすときが来たと肌で感じていた。
街のとある宿屋に泊まって、三日目の深夜のことだ。エンリルの侍女であるサリーが訪ねて来た。
「約束を覚えていらしたのですね」
約束というのは、俺と侍女が秘密裏に交わしていたものだ。
エンリルが裏切られたとき、公爵領にあるこの街のこの宿屋で落ち合おう。宿屋の酒場の一席に座る俺に、侍女は向かい合って座った。主人のために約束を果たすとは、本当に忠実な良き使用人だと思った。
ふと俺は侍女が目を赤く腫らしていたのに気づいた。
「お嬢様を救ってください。お願いします」
頭を下げた侍女。腫れ具合からしておそらく、昨日から侍女は泣いていたのだろう。
「もちろんだ……」
「ありがとうございます。公爵様に守られるならば、私も安心でございます」
そもそも、侍女がここに来ただけで、俺の方こそ救われたと思った。
この宿屋で会う約束が果たされたということは、彼女をあの不貞から取り返す時が来たということ。
卒業してからもエンリルをずっと想っていた。
募る思いはエドワードがいるせいで抑えなければならなく、彼女へのこの想いは、実らぬものと思っていた。
もうずっと心が傷んでいたんだ。彼女が自分にとってかけがえのない存在であるのに、運命がそれを引き裂いたとしか考えられなかった。
あまりに悲しく、あまりに残酷な運命だと。
俺はこんなに苦しめられるくらいなら、死んだ方がマシだとさえ思った。
だが、それは明日には解決し始めること。
「エドワード……やはり裏切ったか……」
サリーの婚約破棄された場面の一部始終を聞いて、俺は机の下で拳を握った。
エンリルを手放してくれたことには感謝するが、彼女を大いに傷つけたことに変わりない。
湧き上がる殺意に俺は歯を噛み締めた。
俺の太陽を何年と奪っておきながら、最後にやつが言ったことは“興味がなかった”だそうだ。侍女のしてくれる説明に胸が痛んだ。
憎悪と憤怒の渦巻く心で獣化の暴走が始まりそうだったが、次の言葉で冷静さを取り戻した。
「死にたい、とお嬢様が言ったのです」
日華のような笑顔も、星のようにキラキラした輝きを持つ瞳さえもが彼女から消えた。
侍女から聞いた話に、それは不味いと思い、俺はすぐにでも会いに行きたくなった。
「早く会わせてくれないか」
「それはできません。旦那様はお嬢様を部屋に閉じ込めておいでです。今は常に旦那様の監視下に置かれているので、明日、私が手を回して警備を薄くします。そういうことで、その時に迎えてください」
旦那様というのは、エンリルの父にして冷血公爵ローマン・ラモン。娘をどうとも思っていないらしく、サリーによると政略結婚の駒としか見ていないそうだ。
母も幼き頃に亡くし、家柄に縛られた政略結婚によって王妃教育を迫られた彼女。
彼女はなぜ父からも婚約者からも不当な扱いを受けなければならないのか。学園のときの彼女を思い出した。
いつも何か勉強していて、他の令嬢がサロンや別荘に行く休暇でさえも、王妃教育をさせつづけられていた。
ある時彼女は、図書館で涙を流していたのを俺は知っていた。
“□月□日
妃教育を頑張らないと、エドワード様には迷惑をかけてしまうわ。でも、もうどうしようもなく辛いの”
彼女がいつの時か図書館に忘れていった日記帳のページを、彼女の嘆く姿を見て思い出した。
静かに本棚の影に隠れて嗚咽していた彼女を、どれほど慰めてあげたいと思ったことか。
神がこのような運命にしたというのなら、俺はたとえ地獄に落ちても、この手で殺したいと思った。
日華のような笑顔。
美しい星のようなキラキラとした赤い瞳。
花のような香りを漂わせる艷やかな赤髪。
ホタルの光のように落ち着いた心地よい声。
人を信じる優しい心を持ち、幾度となく影ながら君は学生たちの悩みを聞いてあげていた。君のことを悪く言う令嬢に対しても、君と関わることをやめた子に対しても、柔らかな態度で聞いてあげていた。
君の瞳は慈雨のように、綺麗だった。
自分の幸せよりも、人の幸せを願い微笑む彼女。
いつか彼女の心がどんどん圧迫され押し込まれて、呼吸のし方も忘れて生きづらくなり、壊れてしまうのではないかと思っていた。愛情もない彼女の父親も、彼女を苦しめるエドワードにも圧迫されて。
何もしてあげられない自分も、何度憎んだことか。
「サリーはどうするんだ……エンリルを助けたあと…」
目の前の侍女は違う。彼女を一番に考えて実際に守ってくれた人だ。
それを意識して、これからのことを尋ねた。
「私には夫が構えている店があるので大丈夫です。それよりも、お嬢様が」
再び涙を流し始めた侍女に、特に何も感じてやれない俺は冷酷だと思った。
エンリルのためなら何でもするが、他人に対しては全くと言っていいほど感じてやれない。
バーグナーや、タウラヴなどの友人は確かに大切にはしている。だが、エンリルに対する思いとは全くと言っていいほど何かが違うのだ。
とりあえず模範的な行動を、と思いハンカチを渡してやった。こういうのはまず外堀から攻めるとか、聞いたことがあったな。
「お気遣いありがとうございます。公爵様も、お嬢様を取ったあとどうなさるか、お聞かせくださいませんか」
エンリルを取る。
つまりは、彼女を半ば拉致し、獣王国に招き入れたあと、どうするかということだ。
俺はずっと心に決めていたことを打ち明けた。この侍女には少なからず、エンリルが支えられていたのだから、話してもいいだろう。
「エンリルと…生涯共に添い遂げる………彼女を…俺の側において……ずっと見守る……それが俺の夢だ」
「ああっ…」
感涙して侍女が言葉を続けた。
「お嬢様が幸せに笑う顔が見えます」
自分の幸せかのように侍女は笑った。
「お嬢様が学園のときに公爵様とあった日のこと、今でも鮮明に思い出せるのです。名前もまだ聞けていない人だというのに、頬を染めて楽しそうにお話しして。熱がこもった目で、この気持をどうしたらいいのかと。気恥ずかしそうにしておりました。その時から恋をした女の子として、ますます気品高くあろうとご努力されて。あのときのお嬢様は、世界で一番可愛らしいお姿をなさっていました。ですが、エドワード様のことも頭の中にあり、王妃教育のたびによくお一人で泣くようにもなられて…」
彼女の明るい表情が思いついた後、一転して、彼女の泣いた顔が浮かんでいたたまれない気持ちになった。
君も俺に恋をしてくれていたのを知っているよ。だからこそ、君に告白して断られた時も、失恋より罪悪感が残った。
俺へ恋をしてくれた心が、少なからず君を苦しめていただろうから。
今すぐに会って、君を苦しみから解放してあげたいよ、エンリル。
君が雫を落として泣いた分、すぐに駆けつけて俺がその雫を拭って甘やかしてやりたい。
君が生きる気力を失って光を見つけられなくなった分、俺が希望を持たせてその手を繋いで一緒に並んで歩いてやりたい。
君が傷ついて苦しんだ分、俺はこの身をもって君を守り傷つかないようにして、その苦しみを払ってやりたい。
君が俺に恋してくれた分、君と生涯を通して側にいて、愛して、幸せにしてあげたい。
「あの、公爵様。今お嬢様にしか見せれない顔をしてますよ」
願望が頭の中で雲のように大きく広がっていた。それが表情にも緩んで出ていたようだ。
幸い、宿屋の酒場は飲んだくれで溢れかえっているので、間抜けな顔をしていても大丈夫だろう。
とりあえず、と俺は一咳し、侍女に向き直った。
「必ず…エンリルを幸せにする……」
「公爵様、お嬢様を裏切ったら本当に許しませんから」
そんなの、しないに決まっているというのに。
獣人は番を裏切りなどしない。人間の国でも、獣人は番が死ねば、本人だって死ぬと言われている。
確かにそれは獣人には少し大袈裟かもしれない。だが、俺にとっては本当のことで、彼女との相性が相当良いらしく、彼女と出会ってからそういう呪いのような、本能が芽生えたのだ。
獣化の能力を持っていることも、おそらく、彼女に執着する力の要因のひとつかもしれない。クマというのは一度味をしめると、異様な執着をするというから。
「魔力持ちのお嬢様と、獣化の能力の公爵様。先走りなことは承知ですが、生まれる子供はきっと、強い力を持つでしょう。全て守れるという自信は」
「ある……エンリルも子供も………俺の命の輝きだ…」
エンリルとの子供を考えるのは、侍女の言う通り早いことかもしれないが、想像すると笑みがこぼれた。
この先も彼女が俺と一緒にいてくれることを望んだら実現すること。
彼女との子供なら、幸せがたくさん増えることだ。エンリルを守るため、つまりは彼女と彼女の幸せを守るためにと、俺はそれだけを考えて強くなったのだから。
「返答が早すぎです。それと、どれだけお嬢様にご執着なさるつもりですか」
「ずっとだ……世界の果て…終天の時まで……彼女に執着するだろうな…」
できることなら、来世でも。
そのまた来世でも、彼女の側にいたい。
生まれ変わって、彼女が自分を覚えていなかったとしても、俺は隣りにいてずっと一番に支え続けたい。
強い気持ちを汲み取ってか、侍女が少し辛辣そうな顔に変わった。
「これは…ある意味、お嬢様の男運を心配せずにはいられません」
侍女は何かを呟いて項垂れた。
そうだ。きっと俺は、彼女の隣をずっと歩いていたいと思うだろう。
先程、神を憎んだが、神が願いを叶えてくれるなら。
何度生まれ変わっても、例え植物になろうとも、人でない魔物や動物になったとしても、彼女の一番側にいさせてくれと願うだろう。
それからしばらくサリーから話を聞かされたあと、また明日迎えに来ると言って、サリーはそのまま宿屋を離れていった。俺はそのまま宿屋に泊まった。必要最低限のものしか持ってきていないが、仕方がない。エンリルを思うと、勝手に体が走るのだから。
雲ひとつない銀河が見える夜空を、開け放した窓から見上げた。
あの星の輝きのように、この世界の終天まで君をずっと照らして守り、導きたい。
「愛おしい…エンリル……」
そのとき、一つの流星が尾を引いて流れた。




