口づけはできない
「口づけっていうのはね、約束なの。わたしたちにはそれができない。だから、できないの」
そう言って、彼女はいつも口づけを許してはくれなかった。
それ以外はどんなことも許してくれたのに。
志保子さんと出会ったのは、僕が社会人になったばかりの二十二のときだった。
隣町の役所に勤めることになり、その配属された部署にいたのが彼女だった。
「初めまして。加野志保子です」
差し出された手の薬指には、ダイヤの指輪が光っていた。
僕がじっと見つめていると、
「ああ、これ? わたし婚約しているの。去年お見合いしてね。もうアラサーだし、そろそろいいかなって」
そう言って彼女は上品に笑った。結婚式は今年の十月を予定しているという。
どうして、もっと早くに出会わなかったのだろう。
彼女は理想の女性だった。
僕より少し低い身長で、見上げてくるその目が細められると、まるで彼女の興味を僕だけが引いているかのように錯覚させられた。
体形は痩せすぎでも太りすぎということもなく、健康的な体つきだった。
穏やかなその声は耳に心地いい。
ああ、ダメだ。彼女は僕の仕事仲間だ。初対面からこのような感情を抱くのは間違っている。
僕は努めて冷静に言葉を返した。
「そうですか、おめでとうございます。これからいろいろとご迷惑をおかけするかもしれませんが、どうぞご指導よろしくお願いいたします」
「ふふ。こちらこそ。よろしくお願いしますね」
握手をした手はやわらかく、さらに僕の心をつかんだ。
志保子さんは僕よりも五歳年上で、とても仕事のできる先輩だった。
課長から無茶なお願いをされ、来所した区民の対応に追われているのが常だった。
ひと月が経ったころ、そろそろ僕の歓迎会を、という流れになった。
課長は当然「来るだろ?」という圧をかけてくる。
志保子さんはまあまあと課長をなだめながら、僕にも選択の自由があると援護してくれた。
「無理に付き合わなくてもいいから。でもわたしも少し、お酒の席でゆっくりお話してみたいかな」
遠慮がちにそう言われて、僕は断る選択を放棄した。
「いえ。歓迎会していただけるなんて光栄です。ぜひお願いします」
その結果、週末、仕事終わりに飲みに行くことになった。
金曜の夜だというのにそこは落ち着いていて、どこかほっとできる店だった。チェーン店ではなく、個人店だったからかもしれない。区役所からそう遠くもないところに、こんな店があったとは。僕は柄にもなくワクワクとしていた。
予約したのは当然、志保子さんだ。
僕は志保子さんのセンスにあこがれた。
「あ、お疲れ様。とりあえず何飲む? あ、飲むっていってもお酒じゃなくてもいいんだよ。ノンアルでも全然いいから」
渡されたメニュー表には、お酒の他にもソフトドリンクが豊富に取り揃えられていた。
僕は迷った末に、ウーロン茶を頼んだ。
乾杯をするころには部署のメンバーが十人以上集まっていた。僕は志保子さんの席の隣で、全員の前で挨拶をすることになった。
「山木瞬です。このような場を設けていただき、ありがとうございます。まだまだ慣れないことも多いですが、これからもよろしくお願いいたします」
拍手され、いよいよ乾杯となった。
「乾杯~」
課長の合図で、皆がそれぞれグラスをぶつけ合う。僕は隣の志保子さんとグラスを鳴らした。
今思えば、あれが最後の飲み会だったように思う。
翌年には新型コロナが流行りはじめ、会を催すことが禁じられたからだ。志保子さんの可愛らしい顔も、あのうっとおしいマスクに覆われていない時期だった。
「あれっ、山木君。顔が赤いよ? まさか、誰かのと間違えちゃったのかな」
志保子さんに指摘されるまで、気付かなかった。
どうやら僕のグラスは、ウーロン茶から誰かの頼んだウーロンハイに変わってしまったようだ。
「大丈夫?」
「ええ。少しふわふわしますが……大丈夫です」
「良かった。でも、ふふっ、すぐ赤くなるのね。かわいい」
志保子さんは日本酒を頼んでいるのに、まったく顔色が変わっていなかった。課長が「こいつは酒豪だからな」と説明してくれる。意外だった。志保子さんは「課長は断酒されてるのにいいんですか?」とちくりと返している。
「前回の健康診断でひっかかってね。妻や医者からも止められてるんだが……。山木君も気を付けろよ」
「はい」
課長はそう言うが、また次のビールジョッキを頼んでいる。
僕はいろんな人に挨拶しにいったり、また志保子さんのとなりに戻ってきたりしていた。二杯目からはちゃんと普通のウーロン茶に戻り、ふわふわした気分も落ち着いてくる。
志保子さんの左手の薬指にダイヤが光っていた。
志保子さんはそれを眺めながら、「結婚って、どういう感じなんだろうね」と僕に尋ねてくる。
「さあ。僕にはまだよくわかりません」
「ふふ。そうだよね。まだ二十二だもんね」
酒豪ということだったが、四杯目を口にしている彼女の目はうっすらととろけはじめていた。僕は急にドキリとする。
「こ、婚約者の方ってどういう方なんですか?」
気まずくなって、そんなプライベートな質問をしてしまう。
彼女はうーんとうなってから、あどけない笑みを返してきた。
「いい人よ。優しいし、稼ぎも良いし。税理士さんなの。向こうのご家庭もね、とっても親切にしてくれるの。でも、わたしはまったく想像つかなくて」
「何がですか?」
「結婚したあとのわたし。ご飯を作ったり、洗濯したり、子育てしたり。仕事はやめなくていいって言われてるけど、そういうの両立できるのかなあって」
「家事は得意なんですか?」
「全然!」
あはは、と笑って志保子さんはぐいっと冷酒のグラスを飲み干した。
会が終わり、それぞれの帰路につく。
自転車組の僕らはタクシーを駅前で拾うことになったが、なかなか捕まらない。
課長は家族の方が自家用車で迎えに来て、帰って行った。
「うう……。ごめん、もっと早くに解散するべきだったね」
電車組もバス組ももういない。
金曜の夜はみんなふらふらになった人間がタクシーを利用するので、こんな遅い時間だとあまりターミナルに残っていないのだ。
「山木君は飲むつもりなかったんだから、今日も自転車で来てたんだよね? 自転車はどうしたの」
「庁舎の駐輪場に停めてあります。でも、この時間はもう門とか施錠されてて取り出せないですよ」
「自転車で帰るつもりだったんでしょ?」
「まあ……でも飲まされることも考えて、置いてきました。先輩は今日は自転車じゃないんですか」
「うん。飲み会がある日はね、いつもバスで来てるんだ。でも今日は自宅がある方向のバスがもうなくて……。ああ、ほんともっと早くに解散すべきだった」
深く反省している志保子さんに、僕は思い付きで提案する。
「歩いては、帰れませんか?」
「え」
「歩いて帰れる距離なら、歩いて帰りませんか」
「ええ?」
「遠いですか。なら婚約者の方に迎えに――」
「向こうも今日は飲み会だって言ってた。だから、無理」
「そうですか……」
志保子さんは考えに考えたあげく、タクシー乗り場から歩き出した。
「いいよ。じゃあ、歩こう」
「え、先輩?」
「歩いているうちに、別のタクシーを拾えるかもだし!」
「そうか。そう言われればそうですね」
そういったメリットもあるか。
僕たちは夜の大通りを歩き出した。歩道は少し狭く、並んで歩くのには少し難しかった。志保子さんは前を歩き、ときおり僕を振り返りながらしゃべる。
「山木君ちってどっち方向なの」
「隣町なのであっちです」
「へえ、遠いね」
「でもまあ、歩くの好きなんで」
「わたしは隣町までじゃないけど、頑張ればたどり着ける距離、かな」
「じゃあそこまで送っていきますよ。女性ひとりは危険だろうし」
そこまで言うと、志保子さんはびっくりしたように僕の肩をバンバン叩いてきた。
「やぁだ、そんなことしなくていいよー。大人だからさ、わたしも。気を使わなくて大丈夫!」
「いや、気を使ってるとかじゃなくてですね……」
「そんなこと言って。山木君と一緒に帰る方が危険じゃ――」
ハッとして志保子さんが口をつぐむ。
「あっ、ご、ごめん。失礼なこと言っちゃったね。ほんとごめん」
「……」
気まずそうにまた歩き出す志保子さんに、僕は駆け寄った。
「先輩」
「え?」
「やっぱり送らせてください。自宅知られたくないとか、僕に送られるのが嫌とかならやめますけど」
「え、別に嫌とか……ではないよ?」
「じゃあ、送らせてください。先輩は可愛いから、心配です」
言ってしまってから後悔した。
先輩が目に見えて動揺している。
「ちょっ、そっ、そういうことは軽々しく言っちゃダメよ! もう、年上をからかって!」
「すいません。でも、ほんと心配なんです」
「あーもう。なんか、お酒が一気に回った……。こんな酔うことなんてめったにないのになあ」
そう言った彼女の家になだれ込んだのは、十五分後だった。
熱と。
汗と。
罪悪感と――。
それからはたびたび彼女の家を訪れた。
彼女は僕を受け入れてくれた。
でもなぜかずっと口づけだけは、許してくれなかった。
志保子さんが結婚すると言っていた十月、彼女は予定通り式を挙げた。
式には部署の人たちが何人か呼ばれた。
僕はまだ若いというのと、日が浅かったので招待されなかった。でも、理由はそれだけじゃなかったと思う。
「おはようございます。先輩」
「おはよう山木君」
今日も志保子さんは僕の勤務先にやってくる。
口づけも、それ以外もできなくなった愛しい人が。
完




