不安のキザシ
半日前。
落日の名残も消えかかったヤエン・シュトラーゼのアスファルトに立ち、無残に撒き散らされた火星長虫の残骸を囲む四つの影があった。
「まさか……小四郎様ほどの手練が、一瞬で……! 如月せつな! 許さん!」
そう言って、三ツ編みにまとめた豊かな黒髪をワナワナと怒りで震わせているのは、紫紺の瞳を夕闇に煌めかせた可憐な少女だった。
甲賀朧谷衆のくノ一 、焔だ。
まだJKにも満たない、あどけないとさえ言える貌立ちの娘だが、忍び装束に包まれたその全身から、どこか不可思議な色香を感じさす美少女である。
蟲塚小四郎のことを、憎からず思っていたのだ。
「落ち着け、焔。忍びの務めは修羅の地獄、小四郎は、力足りず天運がなかった、それだけのことよ」
金色の双眸から強烈な殺気を放った、身の丈六尺を超える偉丈夫が少女向かって冷徹にそう言い放った。
朧谷衆の首領、空我弦之助である。
齢は二十歳を過ぎたばかりの若者であるが、己の業前一つでもって甲賀衆を率いてきた自信と気概が、まるで陽炎の如く全身から立ち上っているようだ。
「左様、小四郎は我ら『甲賀五人衆』の中でも最も『血』の薄い男、残った我らでかかれば、粗末なサイボーグ如き恐るるに足らん」
樫の杖をつき、腰の曲がった老人が、頭部の菌状腫をフルフルと揺らしながら不気味に笑う。
アミガサ粘菌斎。『五人衆』の中では明らかに最長老だ。
一見緩慢な動きの中に、よく見ればまるで隙がない。どこか底知れぬ業前を予感させる奇怪な老人である。
「しかし妙ですな。小娘の体一つを掠うなど、赤子の手を捻るようなものだったはず。だのに……」
ぼろ布を纏った全身から腐った魚のような強烈な悪臭を放ち、陀厳状介が首をかしげた。
血色の悪い図太い手足の指の間には、まるで蛙のような水掻き。そして、その顔はさながら人と魚と蛙の合いの子だ。
「おかしなサイボーグは出るは、小四郎は『魔法』に討たれるは、『炎浄院エナ』とかいう娘、やはり何かあるのでは……?」
金色の魚眼を猜疑に曇らせながら、そう呟く魚面の怪人に、
「状介! 余計な詮索は無用! 我らはただ、務めを果たすまでじゃ!」
焔が、状介をキッと睨んでそう叱咤した。
「四人衆よ……」
不意に、四人の背後から、甲高い声が響いてきた。一斉に声の元を振り向く四人。
一際濃さを増した闇の奥に、灰色のローブに身を包んだ、男女の別も分からぬ何者かが立っていた。
「これは『すきすま様』! わざわざお越しになられていたとは!」
闇にかしずく四人。彼らの依頼主がやってきたのだ。弦之助の額を冷たい汗が伝う。甲賀の首領にして地上最強の忍者を自負する彼ですら、今回の『クライアント』には得体の知れない恐怖を感じていたのだ。
「『炎浄院エナ』は『学園』に身を隠した。探し出し、捕えるのだ。失敗は許さぬぞ……!」
灰色の頭巾の奥から響いてくる、どこか人を不安にさせる甲高い声。まるでハイエナの笑い声を無理矢理人語にまとめたような声で、灰色頭巾が四人にそう命じる。
「は……はは~~~!!!」
四人はアスファルトに額を着くと、その数瞬の後には闇の中に跳躍四散し『すきすま』の前から姿を消した。
夜のヤエン・シュトラーゼを疾風の如く走り去って行ったのだ。目指す先は『学園』だ。
#
「じゃあよろしくな、如月くん。クラスは炎浄院くんと同じ、2年C組にしといたからな。あと学園に早く馴染めるように、記憶の方も少し『チューン』しといたからな!」
理事長が、中学生になったせつな(14)の肩をたたく。
「ちょ……ちょっと待って下さい。こんな体で、どうやって彼女を!」
狼狽するせつな。
「大丈夫じゃ。君の怪しげな右腕と目玉の機能は残してあるからな」
せつなが体を検めると、たしかにその通りだ。
「いやでも、『これ』はなんか目立つんじゃ……」
せつなは、グラサンがなくなって剥き出しになった金色に輝く左眼『イーブル・アイボールセンサー』を指差して抗議する。
「それもそうか……」
理事長が懐から何かを取り出す。よく見るとそれは、黒い眼帯だった。
「じゃあこれで隠しときな」
彼がせつなに、眼帯を手渡した。
「まったく強引だな~。」
黒の眼帯をかけて理事長室をあとにしたせつな。
彼はブツブツ言いながら渡り廊下を歩いて2年C組の教室に向かった。
だが、何かが妙だった。
……すれ違うダチやパイセン、ハイコーの顔は、皆初対面のはずなのに、どこか見覚えがあるのだ。
「『記憶をチューンした』って……どゆこと?」
首を傾げながら教室にたどり着いて、怪訝そうに席につくせつな。
きんこんかんこーーん。
SHRが始まろうとしていた。
「如月くん、おはよう!」
せつなの隣の席で既に教科書、ノートを取り出して始業を待っていたのは……
艶やかな黒髪をツインテールにまとめ上げて、キラリと眼鏡を光らせた真面目そうな一人の女子。
炎浄院エナだった。
「うああ……」
エナの顔を見て一瞬混乱に陥るせつな。いや、まて。
「ん……ああエナ。おはよう」
彼は気を落ち着けてそう答えた。何を慌てているのだ。せつなは思い出した。
エナはせつなのクラスメート。貌立ちは綺麗だが几帳面で四角四面な性格が面倒くさい、クラスの風紀委員だった。
「どうしたのその眼帯? それに、なんか疲れた顔してるけど?」
「いやちょっと……地球破壊軍5のやりすぎで……」
心配そうに尋ねるエナに、せつなが適当に答える。
「まったくゲームばっかしてて! 試験も近いんだから、少し勉強にも身を入れないと!」
朝からお説教が始まった。これだから彼女の隣はいやなのだ。
「皆の者、おはよーである!」
教室の引き戸を威勢よく開けて、燃え立つような紅髪のショートを弾ませた女子が、意気揚々とせつなのすぐ前の机に歩いてきた。
どこか子猫を思わせる、愛くるしい顔をした少女だ。
「冥条さん、今日も遅刻ギリギリなんだから! 少しは気を付けたらどうなの!」
エナが、後ろの席から眼鏡を光らせながら突っ慳貪に少女に言った。
冥条琉詩葉だ……。せつなは思い出した。
聖痕十文字学園理事長、冥条獄閻斎の孫娘にして超財閥『冥条コンツェルン』の令嬢。
せつなのような平民などはちょっと気後れしてしまうような、セレブリティの筈なのだが……
「まま、い~ってこと、い~ってことよエナちゃん!」
エナの叱責も、琉詩葉全く意に介さず。大口を開けて笑いながらエナの肩をバンバン叩いた。
エナとは正反対の豪放磊落な性格、といえば聞こえは良いが、要するに大ざっぱなアホなのだ。
ぎりり! エナの口元から洩れる歯ぎしり。
あーまたひと悶着か……せつなが二人から顔を背ける。
「ん……! せっちゃん、あたしより早いなんて、今日はめずらしいじゃん」
琉詩葉がエナをガン無視、今度はせつなに声をかける。
「今日、コーちゃんは?」
コーちゃん? せつなは首を傾げる、何かを、思い出しかけた、その時だ。
「やっべ~! 間に合った! せ~~~ふ!」
誰かが、勢いよく教室に飛び込んでくる。
学ランを肩に羽織らせて琉詩葉の隣の席に駆けこんできたのは、カバンに「KILL THEM ALL」とかなんとか書かれたステッカーを貼った、見るからにボンクラそうな、ツンツン頭の男子だった。
学業においては琉詩葉と最下位の座を争う、学年の『双璧』。
せつなの親友で、遅刻大王の時城コータだった。
「うぉおおお!」
少年の顔を見たせつなは、思わず椅子から跳ね上がった。
「どした? せつな?」
不思議そうに彼を見るコータ。
いや、落ち着け。せつなは必死で自分を抑える。
コータの顔を見た瞬間、せつなの胸に何か嬉しいような悲しいような、言いようのない激しい思いが湧き上がって来たのだが、なぜだか理由は分からなかった。
こいつの遅刻だって、いつものことじゃないか……。
「コ……コータくん、今日も遅刻ギリギリなんだから……少しは気を付けてよね……!」
エナが、ツインテールを揺らしながら、伏し目がちに、おずおずとコータに言った。
「まま、い~ってこと、い~ってことよエナ!」
コータ全く意に介さず。大口を開けて笑いながらエナの肩をバンバン叩いた。
「ちょっとも~、痛い……!」
エナが顔を赤らめながらコータを振り払った。
「わるいわるい、そんな事よりさエナ! 四限目の数学、宿題写させてくれ!!」
エナに手を合わせながら頭を下げるコータ。
「しょ、しょうがないわね……今日だけなんだからね!」
エナが目を伏せながらスクールバッグからノートを取り出した。だがその時。
ばっ!
琉詩葉が、エナからノートをひったくった。
「やった~ラッキョ~! ありがとうエナちゃん!」
「こら! 琉詩葉! 俺が先だ!」
「い~ってこと、い~ってことよコーちゃん!」
ノートを取り合いながら揉み合う琉詩葉とコータ。
エナの眼鏡がギラリと光った。
ぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎり……
せつなの隣の席で、絶え間なく鳴り始めたエナの歯ぎしり。
「うぅ……」
また一波乱ありそうだ。せつなは、なんだか胃が痛くなってきた。
#
「こらこらお前ら! 静かにせんか!」
教室に、テンガロンハットをかぶって腰に革製の鞭をひっかけた厳めしい中年の男が入ってきた。
担任の轟龍寺電磁郎。顔も言動も暑苦しい体育教師で、学年の生活指導主事でもある。
「起立、礼!」
始業の挨拶もそこそこに矢継ぎ早に点呼を取っていく電磁郎だったが、その時。
ガラリ。
再び教室の入り口の引き戸が開いた。
「先生、申し訳ありません。来る途中で、立ち眩みがして、保健室に行っていて……」
鈴を振るような声で教師にそう言いながら、教室に誰かが入ってきた。
ふわり。
一瞬、教室の中を涼やかな風が渡り、夏水仙の甘い香気が香った気がした。
入ってきたのは、一人の少女だった。
なぜなのか? 身に纏っているのは学園のブレザーとは違う、真っ黒なセーラー服。
長い髪は纏った服に同じく夜空を流し込んだような漆黒のストレート。
どこか陰りのある切れ長の目、雪をも欺くような白い肌、朱を差したような唇、まるで人形のように整った貌。
まさに、目の覚めるような美少女だった。
ざわざわざわ……
男子どもの間に声にならないどよめきが走っていく。
「夕霞裂花だ! せつな! すげーぞ!」
ご多分に漏れず色めき立ったコータが、せつなを後ろからつっつく。
「…………!」
せつなは、呆然として、しばらくコータに答えることができなかった。
せつなは彼女を、夕霞裂花と呼ばれた少女の貌を見ていた。
美貌に息をのみ、圧倒された、というのもある。
だが、それだけではなかった。せつなはうなじの毛が逆立ち、全身に冷や水を浴びせられたような気分になっていた。
少女の貌、どこかで、会ったことがある。何か、彼女に、とても嫌な思い出があったような気がしたのだ。
せつなは必死に『学園』での自分の記憶を探った。
だが、『夕霞裂花』については、何も、思い出せなかった。
「会ったこと無いはずだ……! 知らない貌だ、知らない……!」
混乱しながら、どうにか気持ちを整理しようとするせつな。
そうこうしている内に……
静々と、まるで滑るような足取りでせつな達の方に歩いてくる少女。
ぴたり。
裂花が、せつなの前の席で立ち止まる。
「うう……」
わけが分からず狼狽するせつなの顔を、裂花が、じっと、見つめる。
「せつなくん、やっぱり……来ていたのね」
そう言って、少女がせつなに微笑んだ。




