さいはての部屋
せつなが目を覚ますと、仰向けに寝転がった彼の眼前に、ベージュ色をした6ドア式の冷蔵庫があった。
「おわ!」
慌てて飛び起きた、せつなの頭上をかすめて、
ゆらん。
冷蔵庫が宙を漂いながら、どこかへと流れて行く。
「冷蔵庫が、飛んでいる?」
何が起きているのかよく理解できないまま、せつなは両足で立ち上がり、辺りを見回して、
「あ……」
その時、ようやく気付いた。
両足があった。両手があった、白い砂粒になって闇に流れ去ったはずの彼の全身が、元に戻っているのだ。
ふわん。
踏み出した足は、なんとも頼りない、柔らかな感触に包まれた。
よく見れば、彼自身が踏みしめているのは床でも地面でもなかった。
彼の体は、球形に膨らんだ透明なビニールの被膜のような物の内に在った。
被膜は、それ自体が薄っすらと金色の光を帯びており、せつなが足を踏み出すとその方向にコロンと転がって、足元に何もないこの場を、空中を彼が移動するための、助けになっているようだった。
それは丁度、せつなを包んだ巨大な光のシャボン玉のようだった。
せつなが足元を見下ろせば、光の被膜の向こうには、どこまでも果て無く続く、底知れぬ闇があった。
「一体、何が……」
自身に起きた変化が理解できず首を捻りながら、せつなは再び周囲を観察した。
飛んでいるのは、冷蔵庫だけではなかった。
そして、ただ漫然と宙に浮いているわけでもないようだった。
シングルベッド。タオルケット。毛布。箪笥。クローゼット……
即席ラーメンの束。冷蔵庫。食器棚。ダイニングテーブル。電子レンジ。システムキッチン……
スナック菓子の袋。色とりどりのキャンディ。クッキー。チョコレート。ゼリービーンズのボトル……
何種類もの百科事典を棚に並べて数十連と並んだ、図書館の書架。パソコン。ケータイ。タブレット……
何か『用途別』に配されているらしい、それぞれの日用品や書棚が、等間隔に規則正しく並べられて、楕円を描きながら、ゆっくりとこの場を、薄桃色の光で満たされたこの空間の内部を回転して行くのだ。
「ああ、もう! どうして上手く行かないのよぉ!」
そして、空中を回転する幾重もの楕円の中心から、声が聞こえた。
「あれは!」
せつなは声の方を向いて、驚愕に目を瞠った。
人がいた。
どこかで見たような学校の制服を着ている。
あどけない顔をした、お下げ髪の少女だった。
齢も、ちょうど今のせつなと同じくらいだろう。
「コーラ!」
再び、楕円の奥から少女が叫ぶ。
すると、くるん。
冷蔵庫、食器棚、ダイニングテーブル……『飲食』にカテゴライズされているらしい楕円が大きく回転すると、少女の目の前に『冷蔵庫』を運んで行った。
がこん。
きゅぽん。
ごくごくごく……
冷蔵庫を開けて、中からコーラの瓶を取り出して、何かに苛立ったような顔をしながら、一気にそれを飲み干していく少女だったが、
「ん……! あ、目を覚ましたのね!」
せつなに気づいた少女が、そう言うと、
「せつなくん!」
再び楕円の奥からそう叫んだ。
すると、くるん。
せつな自身を包み込んだ光のカプセルを配した、『書架』にカテゴライズされた楕円が回転して、
「うお!」
せつなの体は一瞬で、少女の目の前に運ばれた。
「今回は、色々と大変だったね、せつなくん!」
少女が屈託のない笑顔でせつなに向けて言う。
「君は、一体……!」
会ったことのない少女に名を呼ばれ、当惑するせつなだったが、
「でも、もう大丈夫。あの女は、今度こそ完全にやっつけたわ。あの階層に上って来たところを直接滅ぼしたんだから、もうこの世界に現れることはない。完全に消滅したわ!」
せつなの様子にはおかまいなしに、少女が続ける。
「あの女って、裂花のこと……? あっ」
せつなは、ようやく気付いた。
吸血姫夕霞裂花が何度となく口にした『主』のことを。
裂花が取り入ろうとした、せつなの『主』。
世界創世の神。
再創世者……!
「君が、この世界の、神さま!?」
唖然としてせつなは少女を見た。
こんなに小さな、自分と背格好も変わらない、女の子……!
「ええ、まあね」
少女があっさりそう答えると、
「それよりもせつなくん、こっちに来ていきなりで悪いんだけど、また『世界』に戻ってほしいの。あの女が余計な事をしてくれたせいで、急にあなたの力が必要になった。見て!」
少女はせつなにそう言いながら、指先で中空に大きな円を描いた。
ゆらん。忽ち、せつなと少女の前に、巨大な鏡が現れた。
鏡は世界の様々な物を映し出しながら、テレビのチャンネルを変えて行くようにめまぐるしく被写物を変化させていくと、
「あ……!」
次の瞬間、鏡に映し出されたものに、せつなは息を飲んだ。
茜の空に走った金色の亀裂とそれを縫い留める禍々しい棘持つ蔓。そして空一面に咲いた無数の巨大な深紅の薔薇。
せつなが、どこともしれない平原で裂花と見上げた光景が、いまや彼の見知った多摩市の上空の全面に展開されていたのだ。
「あの忌々しい薔薇のせいで、もう『こっち』からは、上手く『リセット』出来ないの!」
少女が、あどけない顔を怒りに歪めながらせつなに言う。
「お願い、せつなくん。今すぐ世界に戻って、天使の力であの薔薇を断って! あなたの体も、あなたの力も、元のように戻しておいた。世界の内から天使の力を用いれば、あんな薔薇、どうってことないわ!」
力強くせつなに声をかける少女だったが、
「『リセット』……!」
せつなは戸惑った。
夕霞裂花が、何度も忌々しげに唱えた言葉。
リセット、その言葉を聞いて、せつなの胸にもまた一抹の不安がよぎったのだ。
「教えてくれ、神さま……」
せつなは名も知らぬ少女にそう尋ねた。
「俺が、天の薔薇を断ったら、君は、そのあと……」
「ええ、世界を『再起動』する」
少女は悲しそうな表情で頷きながら彼に答えた。
「今度の『世界』もまた、上手くいかなかった。清浄なものが傷つけられて、汚らわしいものが地に溢れた。エナさんの一途な想いは報われず、コータさんは、何処かに逃げ去ってしまった。だから、『もう一度やり直す』……!」
少女の瞳には、揺るぎない決意の光があった。
「ちょ……ちょっと待ってくれ!」
せつなは、慌てて少女に言った。
エナの行動を『一途』の一言で片付けたことも相当引っかかったが、それ以上に気にかかることがあった。
「あいつから聞いたぞ、き……お、お前は、もう、何万回も世界をリセットしてるって!? 本当か?」
少女に詰め寄るせつなに、
「そうよ」
少女が、あっさりそう答えた。
「じゃあ、世界は、お前が上手くいかないと思った時点で、何度も終わって、何度も始まっている……!」
「そうよ。何事も仕込みが肝心だもの。最初の方でコケてたら、それ以上やっても意味ないわ。でも大丈夫!」
少女が確信に満ちた目でせつなに言う。
「もう、あの女も滅びた。世界の秩序を乱す、魔なる者の首魁。あのクソビッチ。夕霞裂花はね。今度こそ世界は『善きもの』に生まれ変わるはずよ!」
「むちゃくちゃだ!」
せつなは愕然として、少女に抗議した。
「じゃあ、それまでの世界で生きて来た、みんなの幸せとか、頑張りとかが、いったん全部『無かった事』にされて、最初からやり直されるって事じゃないか!」
「そうよ。どうして?」
少女は不思議そうな表情でせつなに尋ねる。
「『リセット』は一瞬で済むわ。それにあたし、ちゃんとマニュアルで調べたのよ。誰も苦んだり、痛い思いをすることなく、『世界』は元あった地点から『やりなおされる』だけ。せつなくんだって、何も覚えていないでしょ?」
少女は憮然としてせつなに問う。
「みんなのことだって、ちゃんと考えてるわ。あたしが目指すのは、誰も傷ついたり、悲しんだりすることのない『理想の世界』! 悪い奴や、いやらしい奴に、きっちりと罰が下される『正しい世界』!」
せつなにそう言って、少女は誇らしげに胸を張った。
「うう……!」
せつなは言葉を詰まらせた。
確かにそうだ。
世界の終りの事なんて、何も覚えていない。
苦しい思いをした記憶なんてない。
それに……
せつなは、此処に来る前の事を思い出す。
少女の管理する『世界』の中で、まだ自分が『探偵』としての仕事に絶対の自信と、誇りを持っていた頃。
そうだ。せつなは頭を振る。
『あの頃』の俺は、とても強かった。
世界の中で、怖いものなど、何もなかった。
そうだ。全てがおかしくなったのは、あの女と、夕霞裂花と出会ってからだ。
せつなは歯噛みする。
全部、あいつのせいじゃないか。
あいつに会って、俺は何故だか急に『弱く』なった。
これまでに感じたことのない『無力さ』や『惨めさ』を、彼女から厭というほど味わわされた。
少女に出会って、せつなは変わってしまった。
永遠に、取り返しがつかないくらい。
だが……
そうだ。取り返しなら、つくじゃないか。
俺は何度でも『あの頃』の俺に戻れるんだ。
今のせつなには、それは何だか、とても魅力的な事のように思える。
一体『リセット』の、何が問題だというのだろう?
むしろ……
せつなは、何処とも知れない平原から夕霞裂花と見上げた茜の空を思い出していた。
あの地獄のような景色。
天に咲く薔薇、脈打つ蔓。地に流れたのは紅い血の河。
あいつによって、『リセット』が阻止された『今の世界』の方が、よっぽど酷い有様だったじゃないか!
「さ。準備出来たよ。せつなくん」
少女がそう言ってせつなに微笑む。
「あ……!」
せつなは自身の身の内に起こった変化を感じて驚きの声を上げる。
ぼおお……。
突如せつなの周囲に燃え上がった金色の炎。
その炎が、再びせつなのものとなった黒銀色の右腕『イマジノス・アーム』に、吸い寄せられ、吸収されていく。
「ぬうお!」
せつなは、突如、顔を押える。
眼帯に隠された左眼に強烈な『パワー』の迸りを感じたのだ。
金色の左眼。生まれ持った選ばれし者の力『イーブル・アイボールセンサー』。
「今のせつなくんは、これまでよりも、更に強い。せつなくんの『力』なら、あの女が仕掛けた細工を破るのも簡単だわ」
少女はせつなの左眼から噴きあがる金色のパワーを満足そうに見つめると、
「さあ、せつなくん。『世界』に還る時よ! あたしの与えたその『力』で、『大天使』の力で、あの汚らわしい薔薇を切り裂いて! そうすれば、再び世界は浄化される。もと在った、清浄なる姿へと立ち返る……!」
力強くせつなに命じた。
「ああ。わかった!」
せつなもまた力強くそう答えた。
体中に力が漲る。
今までに、味わったことの無いような高揚感と全能感がせつなを後押しする。
せつなは『世界』を正すため、眼下に広がる闇に、世界めがけて身を乗り出そうとした。
だが、その時だった。
いや、待て。
せつなの中の何かが、それを制した。
「そうだ、あいつは……」
せつなは逡巡する。
せつなは裂花の言葉を思い出す。
闇の中、金色の稲妻に打たれてその身を散らせた哀れな少女の、必死の訴えを思い出す。
この世界は清浄なモノばかりで構成されているわけではないわ。
不浄なモノ、淫猥なるモノ、条理にそぐわぬモノを嫌って、封じ込めてしまっては、世界はまともに機能しなくなる。
炎上院エナのような者の『一途な愛』だけを認めていたら世界は大変なことになる。
ゲームじゃないんだから。自分の思う通りの世界にならないからって、子供みたいにいちいち駄々をこねないで。
少しは中に在る者の気持ちも考えてよ。
せつなは裂花の悲哀を思い出す。
闇の中、少女の血を通じて垣間見た、彼女の心を思い出す。
奉ろわぬ者。呪われし者として神から否定された者の悲しみ。
変貌し、失われた世界への哀惜と、深い愛情。
「……まりか。聞いてくれ」
唐突に、せつなは少女を向いてそう言った。
何故なのか?
今日ここで、はじめて出会ったはずなのに、今、突然にせつなは少女の名前を思い出したのだ。
「今度の『事件』……最後まで、俺に任せてもらえないかな?」
せつなは、おずおずと少女に切り出す。
「あいつが、裂花がしでかした事にも、何か、理由があるような気がするんだ。その秘密を探り当てるまで……俺が、『探偵』として事件を『解決』するまで、その……『リセット』は、止めて欲しいんだ」
言葉を選び選び、せつなは少女にそう伝える。
「どうして? 何故そんな無駄な事を?」
少女は訝しげにせつなを見て、眉を寄せた。
「あの女のやっていた事に、意味なんてないわ! ただ自分の欲望の赴くままに人々を闇に取り込んでいく。前世界の亡霊。忌むべきもの。ただの、あたしへの叛逆者よ!」
少女の顔が、徐々に険しくなって行った。
「せつなくん。まさか、あなたも何か、あの女に言い含められたの?」
忌々しげに首を振り、少女はせつなに詰め寄った。
だが、
「まりか!」
せつなも思わず、語気が荒くなった。
そういうことじゃない。
あいつが、裂花がしたかったのは、そういうことじゃないのに。
彼は強く少女の名を呼び、厳しい顔で少女を見た。
だが次の瞬間、せつなは継ぐべき言葉を失った。
「な、なによ……!」
せつなから後ずさりながら、少女は、泣きそうな顔をしていたのだ。
「あなたまで……せつなくんまで、あたしのことを否定する気なの!? あたしが、これだけ頑張ってるのに……今までにない、素晴らしい世界を創ろうと努力してるのに!」
小さな肩を震わせながら、少女はせつなに訴える。
「何度やっても、うまく行かない……。何度やっても、汚らわしいモノが溢れ出す。誰も傷つかない世界。誰もが無垢でいられる世界。そんな『善き世界』で、みんなに、お父さんにも、お母さんにも、せつなくんにも生きていて貰いたいのに……! どうしてみんな、あたしの言うことを聞かないの? どうしてみんな、あたしの悪口を言うの!?」
ひとしきり捲くし立てると、少女は疲れた顔をして、せつなにポツリこう言った。
「せつなくん。あたしの『願い』は、あたしの『世界』は、間違っているの?」
「まりか……」
せつなは小さく少女の名を呼び、当惑した顔で少女を見た。
せつなは、胸に湧き上がって来る様々な思いを少女に伝えたかった。
せつなにも、もうわかっていた。
世界は、ただ一種の考え方だけで治めることなど出来ないことを。
少女とせつなが力を振うだけでは、この世界は一向に変わらないことを。
世界には『正しさ』や『秩序』と一緒に、『間違い』や『混沌』が、『多様性』が必要なことを。
夕霞裂花の世界彷徨のことを。彼女なりの尽力のことを。
不可触者として一か所に押し込まれた者たちの怨嗟と悲しみのことを。
だが……
「まりか……」
せつなには、少女にかけるべき言葉が見つからない。
彼の胸に、理由のわからない強烈な後悔と、自責の念が去来する。
一体、誰だ?
せつなは少女を見つめて自問する。
この子だって、もとは普通の、人間の子供だったはずだ。
それが、一体、なぜこんな場所で、こんな『仕事』を?
まだ年端もいかない。
大人の事情なんて知らない。
少し前のせつなと同様、『善い』と『悪い』でしか物事を量れない。
そんな素朴な、夢見がちな子供を、こんな場所まで連れて来たのは、誰だ。
たった独りで何時までも、剥き出しになった世界と向き合いにならなければいけない、そんな役目を少女に強いたのは……
一体、誰だ?
「…………!」
せつなはしばし言葉を失い、己の内に言葉を探る。
何か、もっと、良い方法があるはずだ。
紡ぐべき言葉があるはずだ。
「まりか……」
そして、せつなは意を決した。
いま一度、静かに少女の名を呼び、こう続けた。
「そのさ……俺にも、探偵としての『プライド』があるんだ!」
せつなは右手の親指で自分を指さし、ニカッと笑った。
「感じるんだ。この事件、まだまだ『裏』があるような気がする。探偵の勘さ」
せつなは少女の周囲をグルリと廻りながら、自分の額をチョコンとつつく。
「夕霞裂花は、ただの実行犯にすぎない。裏から奴を操っている、この事件の『首謀者』がいるはずだ。『本当の悪』がいるはずだ。そいつを探し当てれば、もしかしたら……」
せつなはふと、コータの言葉を思い出す。
「まりか。俺は俺で、世界を良くする方法を探しているんだ。まだ、世界には、お前の目の届かない場所、俺の巡っていない場所がたくさんある。そう、世界は『秘密』に満ちている! そこを探れば、もしかしたら、お前を悩ませている世界の混乱の原因が、『本当の理由』が、わかるかもしれない! 世界を、より善いものに変える方法が見つかるかもしれない!」
友の言葉を反芻しながら、せつなは少女むかって熱っぽく語り掛ける。
「色々な場所を捜査してみたいんだ。南極大陸を横断する巨大山脈。邪宗門『グランドオーダー・オブ・オリエンタル・トワイライト』の魔屍導師達が錬成する魔影器物『シュバルツァイス・ファウスト』の武器工房。宇宙超弦連合の盟主『ベアード』の私設軍隊『ゲシュペンスト』の軍事教練施設。超時遍在獣性『牙一族』が潜伏する異界間集落。真死法調停者『ネオノミコス』の秘密法廷。邪導戒律執行機械『ミートボールマシーン』の生産拠点インダストリアルコロニー。魔影世界十二ヵ国を統べる女王の塔。そして『冥府門』……」
何時か、せつなの母がそうしたように、せつなは懐から取り出した扇子を広げながら、大げさに身振り手振り、思いつく限りの『設定』を捲くし立てる。
大丈夫だ。言葉は真実になる。
「だからさ、この事件はしばらく俺に任せてくれ。『リセット』は、そのあいだ、少しだけ待ってくれないか? なにしろ、この俺は世界創世の女神に選ばれて在る、唯一無二の大天使。いかなる魔をも討ち滅ぼす大いなる者。世界を巡る調律者。依頼案件解決率100%の名探偵。万能の右腕『イマジノス・アーム』に出来ないことは無いし、生まれ持った金色の左眼『イーブル・アイボールセンサー』の秘密を知る者は、俺以外には誰もいないんだ。知った者は全て死ぬからな! だからさ、少しは……俺を信頼してくれよ!」
何時か、せつなの父がそうしたように、せつなは胸を張り両手をひろげ、精一杯の虚勢を張る。
大丈夫だ。力は、あとからついてくる。
「はー。せつなくん……」
少女が溜息をついて、せつなを見つめる。
「やっぱり、あの女や下級天使たちに、何か吹き込まれたのね?」
少女は困ったように首を傾げてそう言ったが、その顔には、余裕を取り戻した様な、悪戯っぽい笑みがあった。
「それにしても、せつなくん。全知全能のこのあたしの前で、『まだ見ぬ世界の秘密』がある、なんて! ずいぶんなハッタリねえ……」
意地悪っぽく、せつなにツッコム少女に、
「うぐう!」
言葉を詰まらせ、固まるせつなだったが、
「うそよ……」
少女はフッと、自虐的な様子で言った。
「今のあたしの『目』が及ぶのは、『大きな事柄』『目立つ事』だけ。『細かい事』を任せるために、あなたを『造った』。だから、いいわ」
彼女は、何かを察したように、せつなに笑ってそう答えた。
「リセットはしない。一回だけ、せつなくんに任せてみることにする。あなたの思うようにやってみて!」
少女は、せつなをまっすぐ見つめて、少し寂しそうな顔で彼に言った。
その時だ。
ぴちん。ぴちん。ぴちん。
せつなを包んでいた光のシャボン玉に細かな無数の亀裂が走っていく。
「時間がきたわ、せつなくん。またしばらくのお別れね」
少女は、すまなそうな顔をしながらせつなに続けた。
「せつなくん。あなたには、色々な事を押し付けてしまって本当にすまないと思ってる。でも……お父さんや、お母さんには、こんなこと頼めないし、あたし、せつなくんの他に、こんな仕事を頼める人を、知らないの……」
顔を伏せてそう言う少女に、
「まりか……」
もう、時間がない。
せつなは、胸に湧き上がって来る様々な疑問、モヤモヤした思いを、咄嗟に少女にぶつけた。
「教えてくれ、まりか。俺が天使になる前、『最初の世界』では、俺は一体、何者だったんだ? 探偵か?」
そう訊くせつなに、
「いいえ、違うわ」
少女は首を振る。
「じゃあ、どうして今、俺は『探偵』なんだ? この右手は、この左眼は、いったい何時から……?」
疑問の晴れないせつな。
「せつなくん……」
少女は、言いにくそうな顔で、せつなにこう言った。
「あたしが初めて世界を再起動した時、もう、あなたの存在は粉々になって世界に飛び散り、分かち難く世界に食い込んでしまっていたわ。どうにかあなたを再生させようと、世界中からあなたの欠片を集めてまわった。でも、集まったのはあなたの一部だけ。あなたが子供の頃の、『中学生』くらいの頃の記憶と、何だかおかしな『自己認識』だけだった。それが今のあなた。その名前も仮のもの。かつてのあなたの名を与えるには、今のあなたは、あまりに『足りなさ』すぎる……」
「え……!」
せつなは唖然として目を見開いた。
ぎゅん。
瞬時、せつなの脳裏をよぎった何時かの記憶。
#
ぷぷぷぷぷ……
普段とは何だか様子が違う。おかしな呼び出し音が続いた後、コータが電話に出た。
「コータ。暇なんだろ。今家にいるからさ、例の洞窟の『ミッション』、今日終わらせるぞ。九時からだ!」
「それが、ごめんжжж……!」
電話の向こうのコータの声が妙に遠い
「もうしばらく……ここには、いられそうもない……」
あいつの声が、苦しげだ。
#
「ううお!」
何時から何処かで交わしたコータとのやり取りを、彼は唐突に思い出した。
『如月せつな』……!
違う。俺はもともと、そんな名前じゃあなかった。
その名前は……『せつな』は、彼が一時期ハマっていた、MMORPGのハンドルネームだ!
「せつなくん。あなたが広く世界を巡るなら、あなたの『欠片』に出会うこともあるでしょう。それを取り返し、集めなさい。そうすれば、何時かは元の『あなた』に辿りつくかもしれない!」
少女がせつなにそう告げる。
ぴちん。ぴちん。ぴちん。
亀裂がシャボン玉の全面に広がる。
「ま、まりか。もう一個だけ教えてくれ……」
自分の名前が、急に小っ恥ずかしくなってきたせつなは、顔を真っ赤にしてモジモジしながら、なおも少女に訊いた。
「俺の周りにやってくる『下級天使』……ってゆうか、女の子なんだけど、もう少し、何とかならないのかな? 刑事とか、忍者とか、魔王とか、おかしな恰好をした凶悪な連中ばっかり寄って来るんだが……」
「そ、それは……」
少女は、とても困ったような様子で、せつなから顔をそらしていたが、
「おじさんが、『そうゆうの』が好きだからでしょ!」
何かを決めたのか、顔を上げ、呆れたようにせつなを向いて、冷たくそう言い放ったのだ。
そして、途端、
ぱちん。
せつなを包んでいた光のシャボン玉が、金色の飛沫になって一瞬にしてはじけると、
「そ、そんな~~~~!」
光の足場を失ったせつなは、情けない悲鳴を上げながら、少女の在る階層から再び足元の闇へと、凄まじいスピードで光の名残り、金色の奇跡を描きながら墜落して行き、やがて、かつてせつなの在った闇の奥底、明日をも知れない『世界』の中へと消えて行った。




