堕天使の彷徨
私が最初に世界の異変に気付いたのは、一人の少女を認識した時からだった。
カアサン、カアサン、カアサン……!
ドウシテ、ドウシテ、ドウシテ……!
自身の母親への怨嗟と思慕と憐憫とが綯交ぜとなった、強烈な感情をあたりにまき散らしながら、その少女は独り、私の在る『階層』を彷徨っていた。
私は不思議だった。いかなる手違いがあったのか?
本来私と、私の認めた『眷属』のみがアクセスを許された世界階層に、ヒトの身で放りこまれ、ヒトの魂を有したまま無間を彷徨い漂い続けているのだ。
「かわいそうに……」
私は、少女に憐れみを覚えて虚空にむかってそう呟いた。
ヒトにとっては、想像を絶する苦痛だろう。
この階層でこのまま彼女を生かしておくのは、あまりにも不憫だ。
私の『力』で彼女を消滅させ、永遠の安らぎを、健やかな死を授けよう。
そう決めた私が、闇間に私の炎を燃やし、私の『目』からも遥か彼方、無限を漂っていた幾つもの私の『触腕』をたぐりよせて、少女の魂を包もうとした、だが、その時だった。
ぼおおおお……
信じられない! 私は声にならない声、ヒトには聞こえぬ、驚愕の呻きを漏らす。
闇間に燃え盛った私の『力』。一層下位に在るヒトの視覚には『不吉な緑の炎』として認識されている私の能力。
条理を超えた権限で『世界』にアクセスし、内部規則を自在に書き換え、再デザインすることのできる私の『力』が、少女の肉体に、少女の魂に触れるや否や、みるみるうちに彼女に絡め取られて、彼女の内に吸収されていくのだ。
「やめなさい!」
私はそう叫ぶと、少女に絡め取られていく私の触腕を必死で彼女からひきちぎる。彼女から逃れる。
「一体、何がおきている?」
私は、私が世界に在ってからこれまで、一度も味わったことのない強烈な不安に駆られて、私の身体を検め、次いで私の一層下位、私の管理するヒトの世を検めていく。
「信じられない……!」
私は茫然としてそう呟いた。
私の内に在った条理を変える力、『ヒトの願い』を叶える力が、凄まじい勢いで私の内から流出すると、私が管理するヒトの世界の内部を、ヒトの心の内側を均質に満たして行く!
何ということだ。
私は恐怖に打ち震えた。全てのヒトの願いが、欲望が、妄執が、ヒト自身の意思によって『同時』に叶えられてしまったら、もう何万サイクルもの間、私と私の眷属たちの不断の尽力と計らいで保たれていた、世界の『秩序』は、『均衡』は、そして、精妙にして優美極まる『デザイン』は、一体どうなってしまうのか?
#
本来、その『力』は、みだりにヒトに与えてよいものではなかった。
不老不死の霊薬を求めて生涯世界を彷徨い続けて、異郷に倒れた老錬金術師。
死んだ恋人をこの世に甦らせようと、何人もの女を殺してはその死体を繋ぎ合わせて器にし、恋人の魂を呼び戻そうとした狂った男。
死した後もなお、自身の治世の栄華を信じて数千の臣民を自らの墓陵に生きたまま葬ろうとした大国の皇帝。
飢饉に苦しむ集落の同胞たちを救うため、竜神の棲むと言い伝えられた暗い淵に自らの身を投げた年端もいかぬ少女。
そのような者。
この世に定められた条理に現世での権力や狂った妄執を以てして生涯抗い続けた執念の持ち主。
あるいは同族を救うためには自らの命を投げ出すことも厭わない宝石のように固く尊い意志の持ち主。
そのような者たちの前にだけ、私は私の姿を成して彼らの『願い』を叶えたものだ。
彼らの『魂』を代償として。
私の『主』が一体何の目的で私にそのような力を与えて、ヒトを測る命を私に課したのか。
なぜ一部の選ばれたヒトにのみ、そのような特例を認めているのか。
理由は私自身にもよくわからなかった。
だが自らの『願い』を果たした後、この世の条理を覆した彼らに齎される凄まじい歓喜。恍惚と喜悦の声を上げながら『外界』に召されて行く彼らの魂、この世界では忽ちにして裂けて崩れて消えて行く彼らの肉体、その魂と肉体の断片を舐め取るたびに私自身もまた、無上の歓びと法悦を覚え、闇間でその身を震わせると同時に、『主』が何を求めてこのような事を繰り返すのか、おぼろげながら理解していた。
『外なる者』たちが欲しがっていたのは、ヒトの情念の奔流だった。
彼らは、彼ら自身に欠けた何かを彼らの被造物から『採取』していたのだ。
そして、これは私の憶測にすぎなかったが、採取した『魂』をもとに、彼ら自身をも超越した、何か巨大な『神性』を造り出そうとしていたのだ。
世界中でただ一柱、私のみが知り得る秘密だった。
ヒトの中にはごく稀に、私の存在に気づき、私にアクセスしようと試みる者たちがいた。
世界の秘密を解き明かすことに生涯を捧げた魔術師や占星術師や科学者や探検家。
私の成した『奇跡』の一部を目の当たりにして以来、世界各所の奇跡の徴を求めて彷徨い続けた巡礼者、求道者、伝道者。
そして、私の成す奇跡を悪魔の所業、この私を邪神と断じて私を退治、封印しようと追い求める身の程知らず達。聖人、ディレッタント、探索者たち。
私も、興が乗った時には彼らの前に姿を現し、彼らと戯れた。
彼らが粗忽だったり、態度が気に食わなければ、一瞬で燃やし尽くしたり、獣の餌にしたものだが、真摯に私を崇める者には、世界の秘密の一部を授けたり、ヒトの世界では魔術と呼ばれる超常の術を授けてやることもあった。
ごくごく稀に、本当に私が気に入った者たちには、私の血肉の一部を与え、私の『眷属』として私の階層に招き入れ、世界の均衡を『調律』する任を与えた。
全ての決定権は、私にあった。
世界中でただ一柱、この私にのみ許された『特権』だった。
その時が来るまでは。
#
「主よ! いったい、何が起きたのです!? このままでは、この世界が毀れてしまう!」
私は、変貌していく世界を見て戦慄きながら、私の在る階層の更に幾層も上位、私と、この『世界』を創造した『主』を、『外なる者』たちを仰いで、必死にそう訴えた。
だが、
「イヤ、コレデヨイノダ『жжж』……」
遥か上天から響く『主』の声が私にそう答えた。
「此処デノ実験ト観察ハ、最終局面ヲ迎エタ。コレヨリ最後ノでーた収集ヲ開始スル!」
これまでとはうって変わったかのような、投げやりな様子の『主』らの声。
馬鹿な? 私は困惑する。私の愛した『世界』が、ただの実験?
『主』もまた、この世界を愛していたのではないのか?
「コレマデ、ゴクロウダッタ『жжж』。我ラハ観測ノ場ヲ新タナ◎ヘト移シ、コノ世界ヲ廃棄スル!」
無情に私にそう告げる『主』に、
「では、私も『そこ』までお連れください!」
私は彼らに訴える。
「これまで以上に、『世界』の『調律』に力を尽くします。完璧な秩序と調和に満ちた美しい世を、あなたたちにもたらしましょう!」
必死の思いで『主』にすがる私だったが。
「ソレハダメダ『жжж』。新タナ『世界』ニハ、新タナ『世界』ノ『調律者』ガ必要ダ」
「オ前ノ存在ハ、コノ世界ト共ニ終ワル」
「サラバダ、『жжж』……」
『主』たちの声が、私から、遠ざかっていく!
「嘘だ! なんでだよお!」
私は闇間の中から無念に叫んだ。
だが、もう主の答えはない。
そして突然、
カアサン、カアサン、カアサン……!
トウサン、トウサン、トウサン……!
ばりん、ばりん、ばりん!
「あ……!」
私は再び愕然とする。
私の階層で私の『力』を奪った少女が、その身の内から緑色の炎をふしだらに蒔き散らしながら、苦しげに身悶えし、そのたび、精妙な私の階層を、私の領域を傷つけていく。
「やめろ! 私の世界を壊すな!」
私は怒りに燃えて、少女に叫ぶ。
必死に少女を押しとどめようとする。
でも、無駄だった。
私の力の大半は、既に失われていた。
ぐちゃ。
私の領域が、無残な音と共に少女に破られて、
カアサン、カアサン、カアサン……!
トウサン、トウサン、トウサン……!
少女の肉体と魂は、奇怪な緑の炎とともに、一層下のヒトの世へと落下して行く。
既に全てのヒトの願いが、欲望が、妄執が、ヒト自身の意思によって『同時』に叶えられてしまった狂気の淵へと。
何十億もの並行世界に分岐してそのサイズを肥大化させ、世界を内側から圧迫し、破裂させようとする、混沌のさなかへと。
「どうして……? どうしてこうなったの!?」
闇間に残された私は、ただ、耐えがたい悲痛に心を裂かれながら虚空にそう叫ぶしかなかった。
やがて……
かしゃん。
かしゃん。
かしゃん。
世界の一角、何万ものヒトの世が、硝子細工のように砕けて行く。
無限に広がる闇、私の領域もまた例外ではなかった。
かしゃん。
ヒトの世が、私の領域が、私の愛した全てが……
世界が終る!
#
「うううう……此処は、一体!?」
せつなが目を覚まして、地面から立ち上がった。
彼の全身は薔薇の棘に傷つけられ、学生服は、べったりと血に染まっていた。
あたりを見回せば、せつなが立っていたのは、どこまでも果しなく広がる、不思議な平原だった。
そこはおかしな場所だった。
頭上を仰げば、陽の出ていない空は、朝なのか、夕暮れなのか、雲一つない茜の色で、まるで目前に空が落ちて来そうな錯覚に陥る。
どうどうと吹き抜く風がせつなの体を叩く。風は見渡す限り続く草原を揺らしてはその貌を黄金色へ、茜の色へと絶え間なく変えて行く。
草原のそこかしこに湛えられた巨大な水溜りは空を映して真っ赤に輝き、何時か何かの本で見た、外国の湖水地方を思わせた。
だが何よりもせつなの目を引いたは、広大な野に点々と建つ、折れた石柱や崩れた壁の一部、草間から覗く石畳といった、何か巨大な石造建築の名残りと思われる、草原に赤黒い影を落とした廃墟の一群だった。
昔、都市が在ったのだろうか……広い草原全てを覆って?
と、突然、
「ひぐぅ!」
せつなは呻いた。
血を流した彼の傷口が、全身が急に火照って、ズクズクと妖しく疼きはじめたのだ。
そして、
ぴしん。
ぴしん。
ぴしん。
何かが軋むような音が頭上から響いて来てせつなが再び空を仰ぐと、
「これは……!」
せつなは頭上の地獄の様な光景に息を飲んだ。
空が、割れて行く。
茜色の上天を幾筋もの金色の光を漏らした亀裂が走っていき、空一面を覆っていく!
「空が……毀れる!」
せつなが口を押えて、我知らず呻いた、その時だった。
ずずずずず……
草原に異変が起こった。
そこかしこに湛えられた巨大な水溜りが、一斉にあふれ出して、草原に、せつなの足元に幾筋もの流れを作り出して行く。
空を映して不吉に濁った、赤黒い、血の河だった。
ずるん。ずるん。ずるん。
その血流から、空に向かって、一斉に何かが伸び上がっていく。
「うそだろ……」
せつなは我が目を疑った。
伸びて行くのは、まるで蛇のようにうねった、棘持つ薔薇の蔓だった。
見渡す限り一面の草原を流れた血の川から伸びた薔薇の蔓が、金色の亀裂が走った茜色の空に突き刺さり、絡まりつき、食い込み……
「空を……繋いでいる!?」
せつなには、そう見えた。
まるで薔薇の蔓が、引き裂かれる寸前に亀裂を縫い留めて、必死で空が毀れるのを、押し止めているかのように見えたのだ。
そして、空を覆った薔薇の蔓に、蕾が生じ、やがて真っ赤な大輪の薔薇が上天の一面に幾つも幾つも咲き誇っていく。
巨大な薔薇は、茜の空に真っ赤な花弁を震わせながら、奇妙な歌を歌っていた。
アア……マダダメヨ……マダダメヨ……ソンナニイソガナイデ……オチツイテ……ホラ……チカラヲヌイテ……
「せつなくん、始まったわ……!」
そうせつなの背後から声が聞こえて、彼は振り向く。
一人の美貌の少女が、悲痛な声を上げて空に咲く薔薇をみつめている。
ビロードのワンピースは血の様に深紅。腰に下げた二振りの剣もまた空を映して赤い。
真っ白な肌は心なしか紅潮し、朱をさしたような唇は厳しく結ばれ、切れ長の眼はキッと空を睨み、人形のような貌が怒りで震えている。
立っていたのは夕霞裂花だった。
「裂花! やっぱり、お前か! なんでこんなことを!」
少女にむかって詰め寄るせつなに、裂花がくるりと彼をむいて凄絶に嗤った。
「せつなくん……。まだわからないの?」
裂花は唇の片端をきゅううと歪めながら、せつなを一瞥すると再び空を仰いだ。
「ご覧なさい。再び世界が毀れる。私が、何度世界を調律し、一なる姿に戻そうとしても、決まって『あいつ』が邪魔をする!」
裂花は、堪りかねたようにそう叫ぶと空を指した。
「ねえ、『アレ』は一体、何なの!?」
「『アレ』!?」
せつなが、つられて空を見ると、
コータ……コータ……コータ……!
何処なの……何処なの……何処なの……!
狂おしい歌が空一面に響いて渡って、
「エナ……!?」
せつなは息を飲む。
茜の空に映り込んだ、巨きな、人型の、影絵。
影が薔薇の蔓を引き千切り、再び金色の亀裂を広げ、空を、割ろうとしている。
……それはまるで、誰かこの場に無い者を求めて、此処ではない何処かへと無理矢理に逃れようとしている、奇怪な少女の影の絵姿だった。
「見て! 『力』を奪い、ようやく私が滅ぼしたのに、なおも甦って世界に喰らい付く! 彼女は世界の秩序の破壊者。世界をかき回し、疲弊させ、崩壊を早める! おかげで、もう何万回『世界』が『リセット』されたと思っているの!?」
裂花が整った貌を怒りに歪ませて、せつなにそう言った。
「なんだよ『リセット』って? それにお前はエナを殺した! こんなこと許さない! お前は、俺が止める!」
少女の言っている意味が理解できないせつなが、なおも裂花にそう言い放つと、
「許さない? 許さないのは、あなたじゃなくて、あの方でしょ?」
裂花が、せつなをまっすぐに見返してそう言った。
「ねえ、あなたは何故此処にいるの? 自分が誰で、何のために私と戦うのか、一度でも考えた事がある?」
「うう……!」
せつなは言葉に詰まった。
冥条屋敷で獣神将バルグルに詰め寄られた時と同じ不安が、再びせつなを動揺させた。
そうだ。いったい俺は、何時から何故、何のためにここに……!?
「ほら、やっぱり。自分の事すら、よくわかっていない……。さっきは一瞬、原初の記憶を取り戻したのに、すぐに自分の都合で『忘れて』しまうのね……」
裂花の貌に嗜虐の笑み。
「わからないでしょう? 考えた事もないでしょう? なぜって!」
裂花がおもむろにせつなに詰め寄ると、
す……
茫然とするせつなの胸元むかって、白魚のような己が指先を挿し入れた。
そして、
ずぶぶぶぶ……
少女の指先は、何の抵抗も無く、せつなの左胸に吸い込まれていった。
「うわぁああああああああああ!!」
せつなは、恐怖で絶叫した。
「あなたには、なにもないからよ! 見なさい!」
裂花の声は凛然。
少女はせつなの学制服に手をかけると上着のボタンを引きちぎり、血塗れのワイシャツを引き裂くと、せつなの胸元を開け放った。
「ひぐっ!」
せつなの悲鳴が、嗚咽に変わった。
少女の言う通りだった。彼の胸には、何も無かった。
ワイシャツの内に隠されて在ったのは、ぽっかりと空いた真っ暗な洞。
洞は虚ろだった。あるべきはずのせつなの肋骨も、心臓も、血潮すら流れていない。
一体どこに通じているのか、洞からは、ただひゅうひゅうと生臭く冷たい風が噴きだしているだけ。
「うそだ! こんな! こんな!」
髪の毛を掻き毟ってイヤイヤと首を振るせつなに、
「うそじゃないわ! あなたは、毀れた世界のアバター。再創世者の生み出した、空虚な傀儡にすぎないのだから!」
裂花はそう言って凄艶に嗤うと、恐怖に引き攣った悲鳴を上げるせつなの耳元に顔を寄せた。
「くそお! ふざけるな、裂花!」
せつなの何もない胸に、どす黒い怒りが湧いてきた。
彼を掻き乱し苦しめる、夕霞裂花への怒りだった。
「裂花! 裂花! お前は、『悪』だ!」
せつなが左眼を覆った眼帯をむしりとる。
「邪なる者は邪なる力で滅ぼす! 放たれよ! 邪鬼眼!」
そう叫んだせつな。見開かれた金色の左眼に、彼の全身のパワーが集中していく!
びゅうう……
眩い金色の光の奔流がせつなの左眼から迸る。
「そう……それが今のあなたの『全て』なのね? いいわ、おいでなさい、せつなくん……」
せつなの耳元で少女が冷たく嗤った。
そして、
コロン。
せつなの左の眼窩から零れ落ちたのは、小さな黄色い、ガラス玉だった。
「うそだろ!?」
せつなは絶望の呻きを漏らした。
次の瞬間。
がちゃん。
コータに貰った新たな右腕、イマジノスアームの力が抜けて、再びせつなの上腕から、もげて、落ちて、
かくん、かくん。
せつなの両膝から、そして全身から力が抜けて、まるで糸の切れた操り人形の様に、彼は再び草原に倒れて、仰向けに転がった。
「どう、せつなくん? 自分が『何者』なのか、これで理解できた?」
裂花がせつなを見下ろして、冷たくそう言った。
#
「やめて! どうして!? 私の『世界』が!」
世界が砕け、崩壊して闇に散華する、その刹那、私はおかしな声を聞き、おかしなものを見た。
「 ヲ ヲ ヲ ヲ ヲ ヲ ヲ ヲ ! ! ! 」
三千世界に響き渡った、無念と怒りに満ちた、ヒトの声。
「ああ!」
私は恥辱の声を上げる。
ヒトだ。何者かが、己が願い事で、私のこの世界に食い込んで、一体化しようとしていた。
でも、一体、何が目的で?
ぴつん。ぴつん。ぴつん。
「あれは、標!?」
崩れゆく世界に穿たれていく、いくつもの光の道標を仰いで、私は再び驚きの声を上げた。
そういうことか。私は理解した。
ヒトが自身の願いを使い、この私ですらアクセスが許可されていない世界階層、『主』に至る『外界』への突破口を探り当てたのだ!
そして、外側への入り口に至る標を辿って、またしても別のヒトが、世界を駆け抜け、外界への門を突破しようとしている!?
「だめよ! なんてことを!」
私は道標を辿って駆け上がっていく眩い光を、歯噛みしながら追いかけた。
光の正体は、小さな、少女だった。
「私も……私も連れて行って!」
私は少女の光跡を辿りながら彼女に懇願し、闇の中の触椀を必死に、黄金の光の奔流となった彼女へと伸ばしていく。
だが、
かしゃん。
次の瞬間、世界は完全に砕け散り、私も、世界も、闇に落ちた。
#
私が次に目を覚ました時、世界は、一変していた。
「この世界は……一体!?」
いかなる理由か解らぬが、『主』に見放され砕散った後、再び再生を果たした世界を巡り、数サイクルにわたり観察し続けた私は、やがて、絶望的な気持ちになっていった。
弱くて、愚かで、嫉妬深く、残酷だが、一方で深い情愛も持ち合わせている。
常に進歩と洗練と退廃と滅びを繰り返しながら、戦い合い、いがみ合い、睦み合い、愛し合う。
陰と陽とが分かち難く結びつき、複雑にもつれ合う。卑猥なモノ、下劣なモノと清廉なるモノ、高潔なモノとが、一つの世、いや、一人のヒトの中に何の矛盾も無く存在する。
そんな、私が愛していたヒトと、ヒトの世が、私の見知らぬモノに変わり果てていたのだ。
この世界では、かつてヒトの心に渦巻いていた不条理、憎悪、嫉妬、暴力への憧憬。破壊への衝動といった負の感情は全て魔なる者としてヒトの外部に隔てられていた。
ここでは、魔なる者と聖なる者がはっきりと二つに分裂していて、そして、あろうことか前者は、邪なるモノ、卑猥なモノ、下劣なモノは、不可触者として、一つ所に閉じ込められて、封印されていたのだ。
同時に、この世界のヒトの心からは、微妙な闇も、影も、機微も、淫猥への衝動すら、消え果てていた。
世界から陰影が排除されていた。
「そんな……これでは、まるで……!」
私は絶望に呻いた。
それはまるで、ヒトの子供の思い描いた『漫画』の世界だった。
#
世界の変容と同時に、私自身の存在もまた、大きく変容していた。
『大いなる使者』、『大天使』、『魔王』、『無貌の神』、『千の貌を持つ者』、『暗きもの』、『這い寄る混沌』……
かつて私の存在を知るごく少数のヒトからそう呼ばれていた私の異名。
無限の形状でヒトの前に顕現し、万能の能力でヒトから畏れ崇められた私の姿も、力も、いまや見る影もなかった。
一体、いかなる意図で『パラメーター』の変更が行われたのだろうか?
この世界での私の存在は、『ヒト』の姿をした『吸血鬼』の『少女』という、無力で卑小な姿に固定されてしまっていたのだ。
それでも、私はあきらめなかった。
あらゆる時代、あらゆる空間に同時に存在することの出来る『時分割』能力。
この、いまや私に残された最後の神性の証『千の異なる顕現』の力を使って、私は世界に働きかけた。
世界を正常な姿に戻そうと尽力した。
一つ所に封じられた、魔なる者、淫猥なる者、禍々しき者達を牢獄より解放して世に放った。
闇よりヒトを誘い、闇に連れ込み、交わいの歓楽を、血を流す悦びを、邪淫の背徳を教えた。
ヒトの世に潜み、艶めいた噂を流した。慕情の種を、羨望の種を、嫉妬の種を、諍いの種を蒔いた。
最初は混乱するだろう。
世に魔物が溢れて、ヒトとヒトがいがみ合い、かなわぬ慕情に、身の内に生じた淫らな欲望に傷つき涙を流す者が絶えないだろう。
だが、混乱はひと時のこと。ヒトとてそれにもすぐ慣れる。
やがて聖と魔は、陰と陽は、分かち難く一つに結ばれ、ヒトの心に機微と陰影が生じる。
世界はかつての精妙なる均衡とバランスを取り戻して、一なる姿を取り戻すだろう。
そんな私の希望も、すぐに潰えた。
#
「どおおおおりゃああああああ~~~~!」
「あ……!」
世界に響いた蛮声に、私は思わず目を剥いた。
私が解放した『魔なる者』達たちの前に立ちふさがり、次々に彼らを滅ぼして行く者が在ったのだ。
「ふん。今日の相手は『インプ』か、レベルは3といったところか……」
ぶんっ! ぶんっ! ぶんっ!
「おりゃあああ! イマジノスアーム・ガンナースタイル!」
ぐちゃっ!
「放たれよ! 邪鬼眼!」
びかっ! 世界の邪力が集まった!
#
そいつは、世界を悪より守る、『探偵』、ときには『少年探偵』として、この世界に介在してきた。この私と同様、あらゆる時代、あらゆる場所を駆けまわりながら、私の放った魔を狩り、闇を滅して行った。通常のヒトが持ち合わせていないはずの、『滅魔の力』を振って。
「こいつか……!」
私はすぐに理解した。
かつての私と同様だった。『主』の任を負い世界を駆け巡る者。
彼が、この世界の、新たな『天使』だった。
だが、かつての私よりも、はるかに愚かで、劣っていた。やり方も間違っている。
こんなことを繰り返していても、世界に秩序など戻りはしない。
私はあらゆる時代、あらゆる場所で、何度も彼にアクセスし、彼を説得しようと試みた。
だが彼は、聞く耳を持たなかった。
『魔なる者』たちを狩る天使たちの数は、次第にその数を増していった。
『大天使』である彼のもと、世界中を駆け巡っていく新たな天使たちをよくよく観察し続けるうちに、私は気づいた。
『大天使』も、かつてはヒトだったのだ。いかなる理由からか、新たな『主』に天使として起用され、そして、彼が自身の助けとすべく『下級天使』に起用したのは……
世界が崩壊する前に、彼自身が大事に思っていた、彼の周囲のヒトだった。
彼の家族、友人、恋人、そしてあろうことか、彼が自分自身の創作物の登場人物として作り上げた彼自身の想像の産物が、いまや新たな『天使』として、この世界では重要な役目を与えられていたのだ。
「なんて、身勝手な事を……」
私は呆れ果て、同時に彼に嫉妬した。
新たな主に選ばれて在る『探偵』を。
#
「さあ、せつなくん、最後の仕事よ……」
茜色の空の下、血のような薔薇を背中にし、裂花は足元のせつなを見てそう呟いた。
少女はせつなの傍らに腰を下ろすと、いまや全身が弛緩して動くことのできないせつなに腕を添えて、優しく彼の半身を抱き起した。
「あなたと私が一つになれば、世界は善き容に生まれ変わる。『魔王』メイアはあなたの記憶を掘り起こす触媒。『生贄の仔』エナが身の内に宿した力は『門』に至る鍵。『彷徨者』コータはエナを捕えるための餌。そして、せつなくん、あなたは……!」
裂花がせつなの耳元で優しく囁いた。
「あなたは私の道標。この私が、あなたの『主』に、『再創世者』に出会うための外界への道を記した、私の大切な地図……」
そう言って、少女がせつなの髪をなでる。
「うううう……」
せつなは全身に力が入らず、裂花にされるがまま、ただ呻くしかなかった。
彼の虚ろな胸に、これまでの彼の存在理由の全てを揺るがしてしまうような、根源的な恐怖が去来していた。
毎日毎日、何度も何度も繰り返してきた依頼者も犯人もよくわからない探偵稼業。
果ては、学園での狂騒。
廃棄生物兵器、人狼、改造人間、宇宙人、忍者、そして魔王……。
日毎に襲いかかってくる、わけのわからない強敵達との死闘。
何かを止めなければ!
誰かを助けなければ!
常に彼の胸を突き上げてくる、原因不明の強迫的な衝動。
そして、
「エナ、コータ、メイア、琉詩葉……!」
『学園』のクラスメートたち。
コータ。十年前に死んだはずのせつなの探偵助手。
学園での親友。いや、それだけでは、なかったような?
「コータ……あいつは? あいつは今、何処にいるんだ……?」
「エナの手を逃れて、今再び世界を巡る旅に出たわ。行先は私も知らない。あの子はフラフラしていて、私にもどうもよくわからないのよ……」
裂花が答える。
エナ。最後まで、コータ以外の誰も目に入っていないようだった。
さんざん周囲を引っ掻き回して、緑の炎につつまれて、またしても消えた。
「エナ……あいつは、一体何者なんだ?」
「彼女は世界の綻び。本来ヒトが通ってはならないプロセスで、『外なる』者の力にアクセスした者。混沌への供物。滅びをもたらす者……」
メイア。冷たい微笑。嗜虐の表情、どうしようもなく愛おしかった。だが悲しげな、最後のあの眼差し。
「メイア……あいつは? どこまでも逃げても、この俺を追い回す。かと思えば、最後の最後に俺を拒んで、俺の手の中から、こぼれ落ちて行った……」
「追い回していたのは、あなたの方よ。彼女は幻。『原初の世界』であなたが失った誰かの、悔恨と喪失の記憶。叶わなかった想い……」
琉詩葉。燃え立つ紅髪の一族。無邪気な笑顔。油断できない戦闘力。
アホで大雑把だが、常にせつなを気遣い、時には救ってくれた。
「琉詩葉、あいつは? 今となっては、あいつだけが最後まで俺の味方だったみたいだ……」
「彼女はあなたの被造物。あなたの願望がこの世界に成した、無垢なる下級天使の一族。あなたに尽くすのも当然よ……」
「じゃあ、お前は……! お前はいったい何者なんだ? なぜこんなことを知ってる?」
せつなは裂花を向いて、少女にそう尋ねる。
「私は裂花。あなたと『同じ者』よ」
裂花がせつなを抱いて空を仰いだ。
「世界を外部から管理、観察する『外なる』者の代行者。人々の心を探る『探査針』にして『啓示者』。世界の条理を自在に変えることを許された『調律者』、ヒトを守り、ヒトの世を統べる偉大なる大天使!」
背筋を伸ばして、誇らしげにそう名乗った少女だったが、次の瞬間には、
「でも、私は『主』に捨てられた。彼らは私ごと世界を闇に閉ざすと、どこか遠くに行ってしまったわ。永遠に……」
寂しげに首を振って、そう呟いた。
「そして、見なさい、今の世界のこのざまを!」
少女の声に、再び怒りが軋む。
「簒奪者エナはどこまでも野放し。数多ある並行世界を次々と食いつぶしては、新たな生贄を求めて世界を漂っている! あなたはあなたで、目の前に現れた魔物からヒトを救うことだけで、もう夢中ね。自分の本来の使命も忘れて、まるで周りが見えていない。そして、世界がニッチもサッチも行かなくなると、結局いつもリセット、リセット、リセット、リセット! 世界が『詰んだ』ら、またリセット。なぜなの?」
裂花がせつなを詰る。
「ううう……」
意味が解らず、ただ呻くだけのせつなに、
「私にはわかっているわ。せつなくん、あなたと、あなたの『主』が、再創世者が未熟なせいよ!」
少女はやるせない貌でせつなに続けた。
「もう、あなたたちだけに任せておけない! 血を飲ませて! あなたの記憶に封じられた、『外界』に至る道標! 私もまたそれを辿って、再創世者と交わるの!」
玲瓏と澄んだ声の内に狂おしい渇望を軋ませて、裂花はせつなの耳元でそう囁く。
「誰かが、彼女の助けになって、世界を適正に『調律』しなければ!」
そう言うなり、少女はせつなのの頸筋に、朱をさしたような自身の唇を押し当てた。
そして、
つぷん。
「ぃいぅうぅうあああああ……!」
少女の牙が、せつなの内部に挿入ってきた。せつなは陶酔の声を上げて身体をのけぞらせた。
凄絶な苦痛と歓喜が彼の全身を貫き、せつなの視界に茜の空が、血色の薔薇が落ちてきて、せつなは再び意識を失った。
#
やがて世界は、更なる混乱に陥って行った。
『大天使』や『下級天使』がどれほどの『魔』を狩っても、世界に秩序がもたらされることは無かった。
元より世界を満たす魔に果てなど無いのだから当然のことなのに、彼らはそれに気づいていなかった。
「ガ、ガ、ガガガガ……! コータ! コータ!」
世界に食い込み、巨大な容量の内部領域を形成し、世界を圧迫して破壊しつつある者が在った。
「あいつは……!」
並行する別世界から空を割り、この時代、この場所に巣食い寄生した巨大な『魔』を見上げて、私は怒りの声を上げる。
かつて毀れゆく世界で、私から『力』を奪った、あの少女だ!
「ねえ! みんな見て、アレに気づかないの!?」
私は大天使や下級天使に必死で呼びかける。
真に破壊的で邪悪な存在が、今世界を喰らい、再び世界を毀そうとしている。
だが天使たちは私の話を聞こうとしない。
むしろ、逆だった。
彼女が築いた内部領域、偽りの『学園』に集っては、なぜか彼女を庇い、護ろうとしていた。
「愚かな! なぜそのような事を!?」
私は絶望して彼らに叫ぶ。
次の瞬間。
ばりん!
空が割れて、
かしゃん。
再び世界が毀れた。
#
私が次に目を覚ました時、世界は再び、私が働きかける前の歪で子供じみた姿に立ち戻っていた。
この世界では、かつてヒトの心に渦巻いていた不条理、憎悪、嫉妬、暴力への憧憬。破壊への衝動といった負の感情は全て魔なる者としてヒトの外部に隔てられていた。
ここでは、魔なる者と聖なる者がはっきりと二つに分裂していて、そして、あろうことか前者は、邪なるモノ、卑猥なモノ、下劣なモノは不可触者として、一つ所に閉じ込められて、封印されていたのだ。
同時に、この世界のヒトの心からは、微妙な闇も、影も、機微も、淫猥への衝動すら、消え果てていた。
世界は『再起動』されていた。
#
そんな茶番が、もう何万回と繰り返されてきた。
もう、うんざりだ。
もう『お前たち』には任せておけない。
私は私の腕の中で、苦痛と快楽に陶然と喘ぐ『大天使』の首筋に、更に深く私の牙を、私の『探査針』をうずめる。
かつてヒトであった者。今は虚ろな世界の分身。この壊れた男を通じて、私も神と交わろう。新たな『主』と交わろう。
主を叱り、主を助け、世界に再び均衡と秩序をもたらそう。
私はそう心に決めて、男の肉体の内側、男の魂の更なる深奥へと私自身を沈めていった。




