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刹那、らんだまいず!  作者: めらめら
第7章 毀れゆく世界で
31/36

毀れゆく世界で

 じじ……じじじ……じじじじ……


「ねえママ。キテェちゃんに口がついてない理由、知ってる?」

 僕がママにそう訊くと、


「うーん。知ってるけれど、一応聞いておこうかな……」

 ママが首をひねりながら僕に答える。

 なんだ、知ってたのか。

 今日学校で友達から『理由』を教えてもらって、すごいなるほどーって思ったのに。


「キテェちゃんはね、お友達の気持ちに合わせて、泣いたり、笑ったり、怒ったり、表情を変えることができるように、わざと口をつけてないんだって!」

 クラスメートのるっちゃんから仕入れてきた情報をママに話してあげると、


「かーーー! やっぱりそうきたかーーー!」

 ママが、思わせぶりに眉を寄せて、残念そう首を振った。そして、


「それはね。ヨンリオの広報さんが言っている、『表向き』の理由なの……」

 真面目な顔で僕にそう言ってきた。


「お、『表向き』?」

 何を言っているのか、よくわからない僕に、


「本当はね、別の理由があるのよ。ヨンリオの『上層部』が必死で隠している、もっと恐ろしい『本当の理由』がね!!!!!」

 本当の理由? どういうことだろう。


「1975年に初めてグッズが発売された頃にはね、実はキテェちゃんにも口がついていたの。ω←こんな感じの、『せこにゃん』みたいな可愛い口だったわ。でもね……」

 ママが得意げに僕に話し始めた。


「最初のグッズ、『プチバース』が売りだされてからしばらくして、ヨンリオにクレームが殺到するようになったのよ。『子供が怖がって、がま口を捨ててしまう』ってね……」


「捨てる……? どうして?」

 首を傾げる僕に、ママが顔をよせて真剣な顔で続けた。


「さすがにおかしいと思ったヨンリオの担当者は、がま口を買った子供たちに直接話を聞くことにしたの。そうしたらね、その子供たちは口をそろえて、こう言ったんだって。『夜になると、キテェちゃんが、喋りはじめる』ってね……」


「喋る?」


「そう、それもただ喋るだけじゃない。『お前をさらって、猫の国(ピュルピュルランド)の奴隷にしてやるー』とか、『お前の弟もいっしょにさらって、皮を剥いで三味線にしてやるー』とか、とても怖いことを話しかけてくるんだって……」


「うそだあ……」

「本当よжжж(§¶Θ)。当時ヨンリオの総務部にいた、加藤佐和子さんという人から直接聞いた話だもの。間違いないわ!」

 ママが自信たっぷりな様子で胸を張った。


「事態を重く見たヨンリオの製品担当者は、当時発売されていたキテェちゃんグッズを、全部自分の家に持って帰って、何かおかしなことが起きないか、夜通し見張ったの。でも、キテェちゃんが喋りだす様子はなかったわ。いや、もしかしたら? 担当者は考えたの。ひょっとして、大人には聞こえない声なのではないか? 子供がいるときだけ、何かおかしな事が起こって、キテェちゃんが喋り始めるんじゃないか? ってね……」

 そこまで話して、ママは悲しそうに首を振った。


「それでね、彼女は恐ろしい事をしてしまったの。当時小学生だった自分の娘の子供部屋に、あらんかぎりのキテェちゃんグッズを持ちこんで、その子に言ったのよ。夜寝ていて、なにかおかしい事がおきたら自分を呼ぶようにってね……」


「それで、どうなったの?」

 恐る恐る、僕がママにそう訊くと、


「次の朝、その担当者は会社に来なかった。いえ、その次の日も、次の次の日も、永遠に。彼女は、自分のマンションの七階から飛び降りてしまったのよ……」


「ど、どうして……!?」

 震える僕に、


「わからないわ。でも多分、自分の子どもが、どこかに消えてしまったから。警察が彼女のマンションを調べた時、彼女の子供の姿はどこにも無かったんだって。学校にも来ていない、朝食をとったようすもない。永遠に行方不明……。そしてね……」

 ママが恐ろしい貌で僕に応えた。


「子供部屋に残された、たくさんのキテェちゃんの口許は全て、マジックでグチャグチャに塗りつぶされていたり、鋏でそこだけ切り取られていたんだって、まるでそこにいた誰かが、必死でキテェちゃんの口を、塞ごうとしていたみたいだったんだって……」 

 ママが僕の顔を覗き込む。


「その事件以来、それまで発売されていたキテェちゃんは、全部ヨンリオに回収されたの。新しく売り出されたキテェちゃんの顔には、口がついていなかった。デザインを変更したのね。ただ……」

 ママがダメ押し。


「今でもね、そのへんにあるキテェちゃんの顔にマジックで口を描くとね、夜、喋り出すって言われてるのよぉ……」


 その夜僕は、怖さと異様な興奮で、布団の中で震えながら一睡もできなかった。

 いつも戸棚の中にママが買い置きしてあるキテェちゃんドロップの缶のラベルに、「口を描いてみたい」という衝動を、必死で抑え込んでいたからだ。


  #


 この話が全部、お袋の法螺話だと気づいたのは、それから随分あとの事だった。

 

 一体、何を考えていたのだろう。

 当時小学生だったこの俺に、お袋は自分の頭の中で、それこそ湯水のように湧いてくるのであろう出任せや法螺話を、出し惜しみなく、たっぷりと吹き込んでくれたものだった。


 『しま次郎』のお兄さんの出生にまつわる、身も凍るような秘密の話。

 二千円札が世の中から消えてしまった本当の理由。紫式部の呪い事件。

 震災の日のあの朝、幾人もの人間が目撃した怪異。丸々とした体を滑空させながら、まるでアホウドリ(アルバトロス)の様に朝焼けの空を渡っていく、何百羽ものブロイラー(・・・・・)の大編隊。

 

 お袋の法螺が始末に悪いのは、「当時○○会社にいた○○さんから直接話を聞いた」とか、「永山図書館においてある○○という作者が書いた○○という本には当時の記録が残っている」とか、虚実入り混じった会社や人物や文献の名前を話に織り交ぜ、出鱈目極まる設定に、妙なリアリティを加味しているところだった。

 まだ親を疑うことを知らない素直な子供だった俺は、それこそコロッと騙されてはクラスの友人にその話を吹聴してまわったものだ。

 今でも世の中に出回っている「本当にあった怖い話」や「都市伝説の真実」系の本をパラパラめくってみると、当時お袋が吹いて回った法螺話が一つか二つ必ず混ざっていて、呆れかえることがある。

 彼女は、ちょっとした都市伝説のタチの悪い捏造者であり、確信犯的な伝道師だったと思う。


 以降お袋の、この妙な性癖は俺が中学校に上がる頃まで続いて、ある時を境にピタリと途絶えた。

 その頃には俺も分っていた。お袋の嘘が暴走するのは決まって親父の帰りが遅い時期、泊まり仕事の多い時期、そして電話で、時には居間で親父をきつくなじる事のあった時期と丁度重なっていたのだ。


「ねえжжж(§¶Θ)。秘密を知った人が全て死んでしまうという、禁断の『金目様』のお話、まだしていなかったよね?」

 いつもの調子で俺に話しかけてきたお袋に、


「知らねーって! そんなの!」

 生意気盛りで、常に何かにイライラしていた当時の俺は、きつい口調でそう答えた。


「どーせ、いつもの出任せだろ! 母さんの駄法螺は、いいかげん聞き飽きたんだよ!」

 俺はイラつくような、情けないような、いたたまれないような、どうしようもない気分になって、ついお袋にそう言ってしまった。


「父さんが外でいろいろヤってるのは知ってるけどさ! なんでそんな回りくどいやり方で自分の気持ち誤魔化そうとしてんだよ! 俺だって迷惑だっつーの! もう、少しは黙っててくれよ!」

 思わず口を突いて出た言葉に、次の瞬間、俺も気まずくなって言葉をのんだ。


「あら……そう……」

 お袋も気まずい様子だった。


「ごめんなさいねжжж(§¶Θ)

 俺から顔をそらして、おちつかない目線で床の方を眺めながら、それでも、


「それでもね、私には、時々、どうしようもなく『本当の理由』や、『秘密』が()ることが……あるのよ」

 混乱した様子で、悲しそうに首を振りながらお袋が言った。


「あなたにまで、変な話を押し付けてしまって、ごめんなさいねжжж(§¶Θ)……」


  #


 そんなお袋も、俺が二十八の時に病を得て死んだ。


「本当、心配かけちゃってごめんなさいねжжж(§¶Θ)

 最後に病室を訪れた時、もう流動食も喉を通らなくなって点滴に繋がれたお袋は、俺の顔を見ながら力ない声で、それでもニッコリ笑ってそう言った。


「でももう、そんなに痛くもないし、苦しくも無いのよ。жжж(§¶Θ)も体に気をつけてね。編笠さんにわけて貰った紅茶キノコ、またお部屋に送っておいたからね。жжж(§¶Θ)は生活が不規則だから」

 逆に心配されてしまった。


「お袋、俺の方こそ、ごめん。最後まで心配かけ通しで……」

 俺はお袋の手を取ってそう答えた。

 本当、最後の最後まで心配のかけ通しだった。

 ペン一本、ワープロ一つで見てきたような嘘を書き、SF作家としてこの身一つでやっていくと胸に決めたはいいものの、実際のところは鳴かず飛ばず。同居中の彼女にどうにか食べさせてもらっているのが現状だ。

 嘘を愛し、幻想を糧にしようとしていたという点において俺は結局、お袋に似ていたのだと思う。


「大丈夫! жжж(§¶Θ)は私の子供だもの。法螺話なら才能があるわ、きっとやれば出来る(・・・・・・)!」

 お袋が語気を強めて俺に笑いかける。

 その言葉は法螺でないと信じたかった。

 俺は無性に悲しくなって、なぜだか右目だけから、ポロポロ涙が零れてきた。


「あと心配なのは、あなたと、お父さんのことだけよ。お願い、どうか二人で、仲よくね……」

 そう言った、お袋の目からも涙。


「ああ……」

 俺は言葉に詰まった。

 自信が無かった。

 病室の外、廊下の待合室の椅子に腰かけて、今ではすっかり小さくなってしまった肩を震わせている、俺の、親父。

 子供の頃から苦手だった。

 地元の喫茶店やレストランの八店舗を切り盛りしていた経営者。

 外ではやり手と評判で、実際俺の家は裕福なほうだった。

 だが家庭では大雑把で、強引で、浮気性で家を空けることが多かった。さんざんお袋を泣かせてきた。

 親父自身が、まるで大きな子供みたいなところがあった。

 俺が両親に作家を目指すと宣言した時も、ものすごい剣幕で俺を罵った。


「作家なんてな、海のものとも山のものとも知れん。お前はそんな何者でもない(・・・・・・)半端者として、一生やってけるつもりでいるのか? жжж(§¶Θ)!」

 親父があの時俺にかけてきた言葉、今でも忘れることができない。


 だが、それでも……


「安心しろよ、お袋……」

 俺は再びお袋の手を取った。

 

「俺だってもう大人なんだから、親父の面倒くらい、ちゃんと見られるさ!」

 今の俺に吹くことのできる、精一杯の法螺だった。


  #


 じじ……じじじ……じじじじ……


「……うおわぁ!」

 何か、悲しいような、苦しいような、鮮烈なイメージが頭をよぎって、せつなはその場から跳ね起きた。


「ここは……一体!」

 頭をふりふり、せつなは記憶をたどる。

 メイアを助けようと空中に跳び出して、そのまま荊に巻き取られて、何かにグルグル巻きにされて、閉じ込められて……そこでせつなの記憶は途絶えていた。


 せつながいるのは、そこかしこに緑色の燐光を明滅させた、どこまで続いているのかもわからない、薄暗い、荊のトンネルだった。

「くそー出口は! 出口は!」

 せつなが出口をさがして、あてども無くトンネルの奥へと進んでいくと、


「くすん……くすん……」

 どこからか、すすり泣く声。


「あ……!」

 せつなは気づいた。トンネルの路傍、一糸も纏わぬ姿でうずくまり、ツインテールを震わせて泣いていたのは、炎浄院エナだった。


「エナ! こんなところに居たのか!? 探したぞ!」

 『パルテノン』で出会った時と寸分たがわぬエナに、せつながドギマギしながらそう声をかけると……


 ごおお! エナの胸から、緑色の炎が吹きあがって、


「せつな! この役立たず!」

 路傍から立ち上がったエナが、恐ろしい貌でせつなを睨んでそう叫んだ。


 がしっ!


 せつなに飛びかかったエナが、物凄い力で、せつなの喉首を締め上げる。


「ぐううっ! エナ! どういうことだよ! 俺は、お前を、助けに来たのに!」

 必死でエナに抗うせつなだったが、


「今さら助けなんかいらない! お前は、あたしとコータを守るために、わざわざ学園に呼んだのに、なんの役にも立たなかったじゃないか!」

 せつなを絞めつけ、ののしるエナ。


「コータ、また行ってしまった。なんで……! コータを、どこにやったのよ!」

 トンネルにエナの絶叫が響き渡る。


「エナ……!」

 せつなは悲しい気持ちになった。

 せつなにも、何かが分かりかけてきた。

 エナもまたせつなと同様だった。『何か』が歪み、『何か』が欠けているのだ。


「うわあ!」

 突如、せつなから手を放し、エナはツインテールを掻き毟りながら悲鳴を上げた。


「ちがう……! この炎はもう、あたしのじゃない! この心だって……! あたしのじゃない!」

 ごおお。エナの胸から噴き上がった緑色の炎が、彼女の全身を包んで行く。


「コータ、コータ、コータ! 何処にいるの!? 答えて!!!」

 そう悲痛な叫びをのこして、炎に包まれたエナの体は跡形もなく、その場から消えてなくなった。


 幻だったのだろうか?


「せつな、エナを許してやってくれ……」

 どうにか立ち上がったせつなの背中から声が聞こえてきて、振り向けば、


 せつなの前に立っていたのは、時城コータだった。


「コータ! お前、いったい!」

 せつなは当惑した。三日前裂花に刺されて、死んだはずのコータ。

 コータの姿は、ボンヤリと薄らいで背後の荊が透けて見える、幻の様だった。

 そしてその姿は、せつなが見知っているツンツン頭の中学生から、彼の十年前の相棒だった探偵助手、そして黒いTシャツをきたブクブクに太った大男、あるいは白銀の甲冑(プレートメイル)を身に纏った中世の騎士、タイツのような宇宙服に光線銃を携えた宇宙探索者へと、次々にその姿を移ろわせていくのだ。


「あいつも、悪気があってやってるわけじゃない……ちょっと周りが見えないだけなんだ……」

 そう言って悲しそうに微笑みながら、コータはせつなに何かを差し出した。


「これは……」

 差し出されたのは、右腕だった。赤金と黄金色の装甲に覆われた、キラキラ輝く、機械式の右腕。


「片腕じゃあ、なんか様にならないだろ? せつなはひょろくて弱っちいからな、これ、使えよ!」

「あ……ああ!」

 せつなが戸惑いながら右腕を受け取ると、がちゃん。

 不思議と右腕は、せつなの斬り飛ばされた上腕にぴったりとはまり込んで、黒銀色の液状金属装甲に覆われていった。


「コータ! こんなところまで来て、助けてくれたのか!? ありがとな!」

 涙ぐむせつなに、


「当たり前だろ……友達なんだから!」

 移ろいゆくコータの目からも、確かに涙が一筋。


「さ! 俺、もう行くよ!」

 そう言って踵を返したコータに、


「行くって、何処に!?」

 せつなは尋ねる。


「俺は俺で、エナを助ける方法を探しているんだ。まだ、世界には俺の巡っていない場所がたくさんある。そう、世界は『秘密』に満ちている! そこを探れば、もしかしたら、エナがああなってしまった『本当の理由』や、助けるための『秘術』が見つかるかもしれない!」

 せつなを振り向いて、コータはニカッと笑った。


「せつな! お前は、此処でまだ、やることがあるだろ! さあ行け!」

 そう言ってコータは歩き出し、その姿は薄れていき、闇の中に消えていった。


「ああ……わかった! 絶対また会おうなコータ!」

 せつなは闇に叫んだ。


  #


 それからせつなが、トンネルの奥向かって歩き始めてから、どれくらい経っただろう。


 ぽたり。ぽたり。


 荊のトンネルの天井から落ちてきて、せつなの肩や顔を濡らす滴りに気づいて彼が天井を見上げると、


「あ……!」

 せつなは愕然とした。

 滴っているのは、真っ赤な、血だった。


 ぽたり。ぽたり。ぽたり。


 滴る血はみるみるうちにその量を増して、せつなの足元を、周囲の壁を深紅に濡らしていくと、次の瞬間、


「挨拶は終わったみたいね、さあせつなくん、『お務め』の時よ!」

 トンネルに響き渡った澄んだ声。夕霞裂花の声だった。途端、ずるん。


「うわああああああああ!」

 血に浸されて真っ赤に染まった荊のつるが、せつなの、手に、足に、まとわりついて彼を縛り上げ、身体の自由を奪った。


 そして……!


 まとわりついた荊のつるが、いつのまにか、棘もつ薔薇の茎へと姿を変えて、


 ぽっ ぽっ ぽっ ぽっ ぽっ ぽっ


 見る間に茎に葉が茂り、蕾が生じて、幾つもの、真っ赤な、大輪の薔薇が花開いていく!

 

 そして……!


「ひ……ひぃいいいいいいいい!」

 開かれた薔薇の内に在ったものの正体を知って、せつなは恐怖の悲鳴を上げた。


「おまたせ、せつなくん……」「せつなくん……」「せつなくん……」「せつなくん……」「せつなくん……」

「じらしてしまってごめんなさい……」「ごめんなさい……」「ごめんなさい……」「ごめんなさい……」

「さあ、ひとつになりましょう!」「ひとつになりましょう!」「ひとつになりましょう!」「ひとつになりましょう!」


 せつなくん……


 無数に花開いた薔薇の大輪の中央には小さな、ヒトの貌があった。

 真っ白な肌、濡れた花弁のような唇から、譫言のような歌を漏らした、いくつもの夕霞裂花の貌だった。


 ざわざわざわ……


 薔薇の茎が、せつなにからみついて、剥き出しになったかれの手や足や頬の皮膚を切り裂く。


 ぬるぬるぬる……


 薔薇に裂かれたせつなの創口に、無数の裂花の貌がたかってきた。


 ちろちろちろ……


 濡れた花弁の奥から這い出た微細な彼女の舌先が、せつなの創口を執拗に舐めまわす。


「ふぎいいいいいいいいいいいいいいい!」

 裂花の冷ややかな舌先が、せつなの全身を愛撫しながら、彼の中に、潜り込んで来た!


「せつなくん! あなたの中に、私を挿れて頂戴!」

 せつなの耳元で、睦言の様に囁く、薔薇の花弁の裂花の唇。


 薔薇の茎はなお執拗にせつなにくいこみ、やがて、ズルズルと彼の全身の創口から、せつなの身の内に這入ってきた。


「いぃぐううあああああぁああぁああああああ!」

 全身を引き裂く凄まじい苦痛。と同時に、まるで細胞の一つ一つを貫かれるような、これまで味わったことのない信じられない快楽!

 次の瞬間、


 ぎゅんっ!


 せつなは、自分が何か(・・)と結ばれ、一つになったと、感じて、

 

 見開かれた 彼の 眼前に 赤黒い闇が 降りてきて せつなの意識は 闇へと堕ちていった


  #


 コータ……コータ……コータ……!


 エナは、どことも知れない漆黒の闇の中を一人漂っていた。


 何処なの……何処なの……何処なの……!

 探さないと……探さないと……探さないと……!


 いつものように何度も自分にそう言い聞かせ、再び闇の中に体を寄せ集めようとするエナだったが、


 ぼおお。


 だめだった。いつの頃からかエナ自身を超常の中にとりこんで、彼女に不死の肉体と、万能にも等しい力を与えていた、あの狂おしい緑色の炎は、いまやすべて彼女の身体から抜け落ちていた。

 エナの胸には、もはや熾り火さえ残っていない。


 いったい、いつからだったろう。エナをこの世に繋いでいた、コータへの妄執も、彼女の命の炎と共に、急速に拡散して消えかかろうとしていた。


 もういいや……もう還ろう……


 既に形をなくした唇から、力なく漏れ出た溜息のようなエナの声。


「エナ……エナ……」

 闇の奥からエナを呼ぶ、懐かしい誰かの声。

 

 母さん……!

 エナは思い出した。エナには母がいなかった。

 エナに二度目の命を与えて、災禍に消えた。優しく悲痛なその記憶も、幾千年も過去の事。


「エナ……。あんなことをしてごめんなさい。辛かったでしょう。もう、重荷をおろして……」

 エナを優しく包み込む、慈愛に満ちた母の声。


「エナ……エナ……」

 闇の奥からエナを呼ぶ、懐かしい誰かの声。


 父さん……!

 エナは思い出した。エナには父もいなかった。

 崩れゆく父の城、学園での再会を果たした直後、砕けた世界に波濤と消えた。痛ましく峻厳なその記憶も、幾万年も過去の事。


「エナ……。私を許してくれ。さあ、一緒に帰るんだ……」

 エナを雄々しく包み込む、力強い父の声。


「父さん、母さん、ああ。そうだわ、ようやく会えたのね……」

 安堵に満ちたエナの声。闇間に流れたエナの涙。


「帰りましょう、エナ」

「帰ろう、エナ」

「ええそうね、父さん、母さん……」

 エナが安らかに呟いた。だが、その時だった。


 ぽっ。


 エナの胸に、何かが灯った。


「これは……!」

 エナが戸惑いの声を上げる。

 灯ったのは炎。だがその色は、エナから奪い去られた緑ではない、さらに不吉に燃え盛った、紫色の炎のゆらぎだった。


「なぜ!? その炎は一体!?」

 闇に響いた母親の驚愕の声。


「エナ! だめだ! それを捨てるんだ!」

 狼狽した父親の悲痛な声。


「いいえ……だめよ! まだ、終わっていない!」

 エナの声に、力が戻った。

 ごおおおおおおお! 闇間を紫の炎が奔った。


「母さん、父さん……、あたし、行くわ!」

 エナは両親にそう告げた。


「およしなさいエナ! またあの狂った世界に戻って、地獄のような狂騒に身を浸すというの!?」

 母がエナをひきとめる。


「いいえ、行くわ! コータがあたしを待っているもの!」

 エナは母にそう応えた。


「ゆるさないぞエナ! あんな男を、そうまでして追いまわす必要がどこにある!?」

 父がエナに追いすがる。

 

「いいえ、行くわ! あたしの勝手よ! だってあたし、コータが好きなの!」

 エナは父にそう応えた。


「そう……、本当に仕方のない子ね。行きなさいエナ! 悔いを残さないようにね!」

 何かをあきらめた様子の母親の声が、それでも少し嬉しそう(・・・・)な様子でエナにそう告げる。


「そんなー! 駄目だ! 行かないでくれエナ!」

 あきらめきれない様子の父親の声が、なさけない調子でエナに呼びかける。


 ありがとう、お母さん、二度まであたしに命をくれて。おかげで、こうしてコータさんを愛することが出来るのだもの!


 ありがとう、お父さん、あたしに学園を遺してくれて。おかげで、何度でもコータさんを捕えることが出来るのだもの!


 ありがとうお母さん。ありがとうお父さん。


 あたし、もう行くわ。


 さようなら……お母さん……

  さようなら……お父さん……

   さようなら……さようなら……


  #


「ああ!」

 エナは目を見開いた。

 エナが肉体を成したのは、風雲急を告げる多摩市の上空。緑に光った荊の虫籠。

 足元には、胸から赤い血を流したコータの骸。


「コータ……」

 エナはコータによりそった。


「今度こそ、あなたを捕まえる。もう、絶対に、離さない……!」

 ツンツン頭の中学生から、そして黒いTシャツをきたブクブクに太った大男、あるいは白銀の甲冑(プレートメイル)を身に纏った中世の騎士、タイツのような宇宙服に光線銃を携えた宇宙探索者へと、次々にその姿を移ろわせていき、やがては中学生の姿へと形を定めたコータの死体。

 エナはコータの半身を抱きおこして彼の耳元でそう優しく囁くと、冷たくなったコータに貌をよせて、つっと、唇を重ねた。


 ぼおおおおおお……


 コータとエナの体を、紫色の不吉な炎が包み込み、やがて二人の体が炎と溶け合って一体となる頃、炎は空に舞い、闇に散り、中秋の月に照らされた多摩市の夜景を漂いながら、ホタルのような紫の輝きを瞬かす幾千もの光の微塵へと変化して、一片、一片と夜の空へと立ち昇って行き、やがて、消えた。


  #


「あのガキ……! 上手くやれたのかなあ……!?」

 多摩市は聖ヶ原公園の夜の芝生に、その身を横たえて、胸にポッカリと穿たれた穴から、なおドクドクと血を流しながら、蓬髪の男が苦しげに呻いている。

 バルグルだった。


「なに、大丈夫よ! あの子は、やればできる子だって!」

 男の傍らに立った桃髪の少女、キルシエが夜空を見上げてそうつぶやく。


「だいたいねえ! 最後まで見ていられなかったのもバルグル! 全部あんたの浮気が原因でしょうが!」

 恐ろしい形相でバルグルを見下ろす少女に、


「す、すまねえ! 俺の悪い癖なんだよぉ!」

 瀕死のバルグルが情けない声でキルシエにそう侘びた。


「まあいいか。此処での仕事、жжж(§¶Θ)の手伝いは、もうここまでね。さあ! 帰るよあんた!」

「わ、わかったよぉ……!」


 びゅうう! 


 キルシエが花吹雪に変じて秋の夜空に桜が舞うと、もうそこには男の姿も女の姿も既に無かった。


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