幕間 =昏い歌=
じじじ……じじじじじ……
頭の中で、何かが軋む音がした。
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じじじ……じじじじじ……
「また新しい話なのね。今度は、どんな話を書いているの?」
テーブルでノートパソコンのキーボードを叩いている俺の背中から、そう彼女が話しかけてきた。
秋の日は釣瓶落とし……か。さっきまで部屋中を茜色に染めていた夕日も、あっと言う間に消えかかって気が付けば居間全体が蓋をされたように、すっかり暗い。それでも立って電気を点けるのさえ億劫で、俺はキーボードを叩き続ける。
「SF。ハードボイルド。並行世界の『この街』で、サイボーグの探偵が女の子を守って戦うんだ!」
「んー。なんかありがち、ってゆうか、どっかで聞いた話よね。この前の学園バトルものはどうしちゃったのよ?」
彼女が痛いところを突いてきた。
「いやあ、жжжと、その友達に途中まで読ませたら、あんまり面白くないって言われてさ。少しへこんだよ。それでちょっと……」
「そりゃそうよ。主人公はグウタラ寝てばかりで、お祖父ちゃんしか戦っていないじゃない。看板に偽りありよね!」
決してお祖父ちゃんだけが出ずっぱりな訳ではないのに、読んだ奴皆にそう言われる。
「そ……そうかなあ? ミュータント忍者軍団も投入して、かなり独創的な感じのバトルになったと思うんだけど……」
反論する俺に、
「独創的? 本気で言ってるの? 本を読んだことあるのかしら? 忍者の件が長すぎるし、文章も古臭いよね……」
彼女が、いつになく手厳しい。
「神様の炎を盗んだ女の子の話は? あれはどうしちゃったの?」
別の話につっこんできた。
「うーん。あれも書いていて、何だか気が滅入ってきちゃってさ……」
死ねなくなった女の子の、地獄めぐりの物語。俺の手には余った。
「当たり前よ。女の子が神様の罰を受けて、地獄で延々と酷い目に遭うだけの話だもんね。ヤマなし。オチなし。イミなし」
喋りながら腹が立ってきたのか、だんだんと彼女の語気が強く、そして冷たくなってきた。
「それと……。あっちこっちで出てくる吸血鬼の女の子。一体なんなの? 話に関係ない場所で、意味なくエッチな事をするだけじゃない? あなたの趣味丸出しで、正直気持ち悪いんだけど!」
呆れたような馬鹿にしたような、冷やかな彼女の声。
吸血鬼? 女の子? そんなキャラクター、出した覚えはないぞ?
「まあ、もうどうだっていいんだけど。毎日毎日、売れるあてもないのに……小説。頑張って続けてよね……」
俺のすぐ背中から、戸口まで遠ざかっていく、彼女の声。彼女の足音。
鳴、待ってくれ。せめて電気を点けていってくれないか。
「もうだめよ、жжж……」
待ってくれ鳴。
「あなたはだめ。責任が取れない!」
鳴!
俺は思わず座布団から跳びあがって背中を振り向いた。
すっかり日が落ちて真っ暗になった部屋に居るのは、当然の事だが俺だけだ。
テーブルの上には暗い部屋でモニターだけがギラギラ目に痛いノートパソコン。
昼に食べたカップ焼きそばの容器。トマトジュースのペットボトル……
さっきまで、一体、誰と喋っていたんだ?
いかんいかん。俺は頭を振る。書きながら眠ってしまっていたのだろうか?
俺は立ち上がって電気を点けて、散らかり放題の居間を見回す。
サイドボードには依然未練たらしく、一昨年に彼女と出掛けた秋川渓谷の写真。
いや、未練たらしくなんかないさ。たしかこの時は、近所に住む姉夫婦と姪、家族と一緒に遊びに行ったんだしな。
とりとめもなく言い訳めいたことを考えながら。俺はボンヤリ写真を眺める。
ほんの一昨年なのに、もうずいぶんと昔の事の様に思える。
その頃は、期間採用とはいえ昼間は働いていたし、それでも空いた時間で精力的にものを書いていた。
次から次へとアイデアが浮かんできて、書けないテーマなど無いような高揚感を覚えて夜中まで熱心に執筆に打ち込んでいた。プロ作家デビューなど時間の問題のような気がしていたものだ。
それにしても、タイミングや扱うテーマが悪かったのだろうか?
会心の出来で応募した作品はなかなか賞に引っかからず、だんだんと焦りが募って来たのも、その頃から。
宝飾店に勤めていた彼女に、ズルズルと甘えるような形で作家に『専念』したいと頭を下げて昼の仕事を辞め、徐々に昼夜が逆転し始めた頃からは、姉夫婦とも疎遠になってきた。
彼女が出て行ってから、もう三ヶ月たった。
いいかげん気持ちも落ち着いて、一人にも慣れたはずなのに。
引っ越さないとな。このアパートは、一人だとガランと広すぎる。
あんな変な夢を見るのも、きっとそのせいだ。
家賃も、いい加減払い切れないしな……
引っ越さないと、引っ越さないと。
もう二週間も前からそう思っているのに、新しい部屋を探す気も、散らかり放題の部屋を整理する気も、一向に湧いてこない。
ただ日がな一日パソコンに向かっては、とりとめもなく頭に湧いてくる文章を書き散らしているだけなのだが、どうにも頭がボンヤリして、とても小説に纏まる気がしないのだ。
「くそっ!」
俺は思わず、パソコン向かって一人毒づく。
今狙っている賞の応募期限まで、もう間もないというのに、小説は一向に捗らない。
今回も見送りにするか? もう少しブラッシュアップに時間をかけて、来年の○○賞に回すというのも手だ。
そう考えると、少しは肩の荷が下りた気がするが、散らかり放題の床に目を遣れば再び気分も重くなってくる。
問題の先送りにすぎないのだ。小学生や中学生なら、夏休みの宿題をサボっていたら親や教師に叱られる。
でもこの齢になると違う。放っておいた宿題は、提出しなくてもずっとそのまま。誰も気にも留めやしない。宿題の事も、俺のことも……
ああもう。気晴らしにどこかに出かけようか。いやだめだ、金も無駄遣いできない。少しまとまった仕事をしないとな……。
仕事。仕事。仕事。またジワジワと気分が悪くなってきた。
ほんの一時、仮の仕事。
何度自分にそう言い聞かせても、最近はなんだかそれすら億劫で気が重い。
まだ何事も成していない。名刺を持っていない。免許証が無い。
ただそれだけのことで、あいつらの俺への態度は、どこか冷笑的で、よそよそしい。
落ち着け。俺はイラつく気分をどうにか鎮めようと、クドクド自分に言い聞かす。
そうだ、世の中が厳しいなんて当たり前のことだ。世間というのはそういうものなのだ。
それは百代前、俺がまだ素戔嗚尊だった頃から変わらない、永劫不変の大原則ではないか。
そんな簡単な真実に気づかない世の中のボケどもを影ながら守り支えるのが俺の宿命。
高貴なる義務ではなかったか。「何事も成していない」だって? あいつら如きに、何がわかる!
そうだ。世の中の肥え太ったブタどもを影ながら守り、永遠深紅の大決闘を戦い抜くのが俺の正義。真の宿命。
負けられない。絶対に負けるわけにはいかないのだ。敗北イコール悪イコール闇。闇に生きるが俺の定めか。
だが、そんな絶対正義特異点の俺でも、時にはくじけそうになることがある。
責任が取れない責任が取れない責任が取れない……
否。断じて違う。
責任が取れない責任が取れない責任が取れない……
「やめろ! ああくそ!」
一人でいると、気が変になりそうだ
俺は近所の友達、時城コータに電話する。
あいつなら暇だろう。いつも家にいる。
ぷぷぷぷぷ……
普段とは何だか様子が違う。おかしな呼び出し音が続いた後、コータが電話に出た。
「コータ。暇なんだろ。今家にいるからさ、例の洞窟の『ミッション』、今日終わらせるぞ。九時からだ!」
「それが、ごめんжжж……!」
電話の向こうのコータの声が妙に遠い
「もうしばらく……ここには、いられそうもない……」
あいつの声が、苦しげだ。
「コータ? どうしたんだよ? 怪我でもしたのか?」
携帯から聞こえてくる苦しそうな喘ぎ声に、おれは不安になって聞き返すが。プ。それっきりで通話が途切れる。
「コータ!」
俺は突然、激しい不安に駆り立てられて座布団から跳びあがるとアパートの戸口に駆け出す。
あいつの、あいつの処に行かないと!
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じじじ……じじじじじ……
気が付けば、どことも知れない森の中にいた。
目の前には人。暗い夜の森の中、ひやり湿った草原に横たわって、トレードマークの黒Tを着たコータが、苦しげに息をしている。
胸からは止めどなく溢れている血。血。血。
「コータ! どうしたんだ! 怪我してる!」
慌てて駆け寄ってコータの半身を抱き起すが、血が、止まらない。
手当……できない! 医者! 救急車!
慌ててポケットに在るはずの携帯をまさぐるが……
「жжж、しくじったよ。頼みがあるんだ……」
そう弱弱しい声でコータが俺に言う。
「………を……くれ……」
何を言っているんだ? 耳元で消え入りそうなコータの声。
「コータ! 聞こえない……何を話してる!?」
必死にコータに呼びかける俺だったが、
「………」
コータの目から光が失せて、身体からは急速に力が抜けていく!
「うそだ! コータ!」
俺は森の中で絶叫する。
なんで死ぬ!? なんで行ってしまう!? なんで俺を遠ざける!?
コータも、彼女も、姉貴も、あいつも……!
あいつ?
俺はいったい何を言っている?
「つらいのねжжжくん……」
突然、コータをかき抱いた俺の背中から聞こえてきた、鈴を振るような澄んだ声。女の声。
「жжж……!?」
ちがう。あいつじゃない。
振り向けば目の前に立っていたのは、知らない貌。一人の少女。
纏っているのは辺りの闇に溶け込むような真っ黒なセーラー服。
夜風に靡いた長い黒髪。月光を銀色に反射する白磁の肌。真っ赤な唇。まるで人形のような美貌。
「ううう……!」
わけもなく強烈な不安に襲われて俺は呻く。
初めて見る貌なのに、どこかで会ったような貌。
少女が俺の方に、滑るように歩いてくる。
「でも大丈夫、今からだって、まだ遅くないわ……」
そう言いながら少女が、俺の目をまっすぐに見つめる。
黒珠のような瞳の奥には、チロチロと燃えるような緑色をした煌き。
「遅くないって?」
思わずつられて、そう繰り返す俺に、
「そうよ。全ては、あなたの内に在るのだもの」
一体、こいつは何を言っているんだ?
「死んだ人は一人もいない。終わった事なんて何一つない。何も始まっていないのよ。жжжくん……」
夜の空をうっとりとした表情で仰ぎながら、彼女が続ける。
「жжжくん……」
少女が再び俺を向いた。切れ長の眼の奥には吸い込まれそうな緑の焔。
草原でコータを抱える俺に向かって、彼女が真っ白なその手を差し伸べてきた。
彼女の冷たい指先が俺の頬を撫でる。彼女が俺に貌を寄せて、俺の眼を覗き込む。
「好きな時に願い事をして頂戴。どんな願い事でも現実になる……」
願い事? いや、待て。
「ただし、一回だけだから、よく考えて決めてね……」
いや、待て。
頭の中に直接響いてくるような、彼女の声。緑の焔。
きりきりと頭蓋が軋む。
待ってくれ。待ってくれ。
俺は頭を抱える。
この声、この台詞。前にも聞いたことがある。
けれども一体、何時、何処で!?
「うああ!」
恐怖に駆られて、少女を振り払い、草原に転げて夜空を見れば、いつのまにか空いっぱいに点在する、星ではない何か。
藍に、橙に、紫に、グルグルと無数の不吉な渦巻模様。
いいわ。願いは聞き届けた。
頭の中に少女の声。
待ってくれ、願い事なんてしていない!
ぐにゃり。突然に視界が歪む。
星が、闇夜が、渦巻き模様が、俺の目の前に、空が落ちてくる。
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「うおわ!」
何か強烈に嫌なイメージが頭をよぎって、せつなは悲鳴を上げて飛び起きた。
「ここは……!」
せつなは、汗だくになりながら辺りを見回す。
彼が居たのは二十畳敷の大広間。寝かされていたのは布団の上だった。
「せっちゃん! 目を覚ました?」
そう言って心配そうに彼を見つめて、畳に座していたのは一人の少女。
燃え立つ紅髪を揺らした、冥条琉詩葉だった。




