混沌の荊
「甲賀衆。『学園』との戦いで二人斃れたか、大儀であったな……約束通り報酬は払おう。もう、去んでよいぞ!」
少女が人形のような貌を焔を向けて、尊大な口調でそう言った。
「二人……だと! それにまて! なぜ、お前が状介の魚を遣っている!」
裂花から後ずさる焔。彼女の顔が猜疑に曇った。
なぜ『依頼主』が焔の下男、陀厳状介の術を用いているのか。それに……
くんくん……。焔の鼻が辺りの空気を嗅ぐ。
「その剣! 弦之助様の匂いがする!」
焔が怒りに目を見開いて、裂花の携えた短刀を指さした。
焔にはわかるのだ。月光を反射して輝いた水晶製の刀身からは、拭ってもなお芬々たる、血の香り。
「あらあら、流石は忍者。鼻が利くこと……」
裂花は小首を傾げて、嫣然と嗤って焔にそう言った。
「お前……? 弦之助様に、一体何を!」
愕然とする焔。
地上最強の忍者である空我弦之助が、まさかあのような娘に後れを取ったと?
だが間違いない。美貌の少女の水晶刀から香るのは、焔ら甲賀衆が首領の血の香。
「おのれ『すきすま』! さては我らを謀ったなぁ!」
焔の怒号。匕首を構えて、裂花に飛びかかろうとする焔だったが、
がしり。焔の背中から、何者かが彼女の手足を抑えつけた。
「なにぃ!」
焔は愕然として辺りを見渡す。
いつのまにか、裂花の率いた魚人の群れが十重に二十重に焔たちを取り囲み、彼女の身体を背後から捕えたのだ。
「く、くるなー!」
「どわー! 気色悪い!」
せつなとメイアも同様だった。魚人たちに囲まれ捕われ、身動きが取れないのだ。
「まったく、さっさと消えていればいいのに……」
裂花は、捕えられた焔にツカツカと歩み寄ると、怒りに燃える彼女の顔をジッと見つめた。
「このまま殺してもいいけれど……あなた、結構可愛い貌ね……!」
何かいいことを思いついたという様子で、裂花は妖しく嗤った。
「いいわ、丁度一匹、使い魔が欲しかったの。私のペットにしてあげる!」
そう言って裂花は、口元から長く伸びた犬歯で、自分の唇を噛み裂く。
つ……裂花の唇から一筋滴る真っ赤な血。
その唇を、忍者少女のあどけない貌を寄せるなり、
ちゅ。
彼女に唇を重ねて、己が血を焔の口に含めたのだ。
「ひぐう!」
焔の貌が、恐怖と恥辱に歪んだ。
「んう~~! んう~~!」
驚愕の焔は顔を真っ赤にしながら裂花に抗うが、魚人どもに手足を抑えられて身動きが取れない。
震える焔のうなじを白い指先で撫でまわしながら、裂花の冷たい舌先が執拗に焔の口中を這いまわった。
「んくっ! うくっ!」
こくん。
口をふさがれた焔の喉が小さく上下した。
否応なしに裂花の血を、嚥下してしまったのだ。
と、次の瞬間、
ぽんっ!
焔の身体が白い煙に包まれて、
「にゃにゃにゃ?」
なんということか。煙の中から姿を現し、裂花の白い指先に首根っこを掴まれていたのは、背中から蝙蝠の羽を生やした、一匹の黒い子猫だった!
「にゃぎゃ~~~~! にゃんに゛ゃにょにゃ~~~!」
子猫になった焔が、そう鳴き叫ぶと怒りに燃える目で裂花を睨んだ。
ジタバタ前足を振り回して裂花に爪を立てようともがく焔だったが、爪は虚しく空を切るばかりだ。
「あら……」
裂花が少し驚いた様子で、切れ長の眼を見開いた。
「私の聖体を拝領して、まだ私に歯向かうなんて。やっぱり忍者って、面倒くさいわ……」
裂花は邪険にそう言うと、もう興味ない、といった様子で子猫をポイと校庭に放り捨てた。
「夕霞さん……! あなたは、いったい……!?」
緑の光に全身を包まれながら、目の前で起きた惨事に肩を震わすエナに、
「私は裂花。夜満ちる海。そしてエナちゃん。あなたは世界に生じた『原初の綻び』。現世に無を穿ち異界の主に至る門。さあ! その肉体を捨て去って、更なる力を私に頂戴!」
裂花はそう答えて、水晶製の短刀の刃先を、ゆっくりとエナの方に向けた。
「あなたの心臓に燃える炎! 元々は私のものだった! いいえ、今でもそうよ!」
裂花がわけのわからない事を叫ぶと、短刀を構えて、エナに近寄っていく。
「エナ! 危ない! 逃げろーーー!」
魚人に取り押さえられたせつなが必死でエナに叫ぶが、
「あ……! あぁ!」
恐怖で足が竦んで、エナはその場から動けなかった。
裂花の刃がエナに迫る。
だが、その時だ。
ばさあ。
裂花とエナの間にいきなり、何かが立ち現われた。
ローブだった。先ほど裂花が、自身の正面に脱ぎ捨てた灰色のローブが、突如地面から盛り上がって夜風にたなびいたのだ。
ローブの中に、何か、いる。
「やめろ! 夕霞裂花!」
灰色頭巾の奥から、声。少年の声だ。
「あぁ……!」
せつなは驚きと安堵の入り混じった溜息を洩らした。
頭巾を上げて、内から現れた顔は、せつなの親友、ツンツン頭の時城コータだったのだ。
大地と同化して忍者少女焔と戦ったコータ。
焔の『爆焔拳』で手傷を負って、戦線から消えたかに見えた彼だったが、せつなとエナの危機に、いま再び大地からその身を起して裂花の前に立ったのだ。
「どきなさい、コータくん。あなたには興味ない。死ぬわよ」
冷然とそう言いながら歩を進める裂花に、
「裂花、理由は知らないけど、エナや、せつなに、こんなことやめろよ! クラスメートだろ……!」
コータは一歩も引かなかった。
「クラスメートですって? コータくん、本当にそう思っているの、つくづくお目出度い頭ね……」
「なんだって?」
裂花の言葉に訝るコータ。そして次の瞬間。
たっ! コータの懐に裂花が飛び込んできて、
ずぶり。裂花の水晶の短刀が、灰色のローブごとコータの脇腹を貫いた。
「夕霞裂花、なんで、こんなことを、それに、俺に刃物は効かないんだ……」
級友の凶行に、コータは悲しく呻いた。彼の両手が裂花を取り押さえる。
自在に大地と同化する可塑性を有したコータの体にとって、短刀の刃は致命の武器足りえないのだ。
だが……
「コータくん、何度言わせるの? つくづく、お目出度い!」
裂花が口の端を歪ませてコータから刃を引き抜いた。
「があああああ!」
コータの苦悶の声が校庭に響いた。
強烈な苦痛が脇腹を焼く。
コータは口から赤い血を溢れさせて、校庭に突っ伏した。
その脇腹からもまた、鮮血が溢れて校庭を紅黒く染めていくのだ。
「そんな! コータくん!」
背後のエナもまた悲鳴を上げた。
「私の『破邪の晶剣』に、貫けないものなんてないの。コータくん、あなたも一緒よ!」
裂花が、冷たく嗤ってコータを見下ろした。
「さあエナちゃん、今度はあなた!」
苦痛にもだえるコータを尻目にして、裂花が再びエナの方を向いた。
「うあぁあああぁ! コータ! コータぁあああ!」
エナが夜空を仰いで絶叫した。その時だ。
びゅうう……
エナの全身を覆っていた緑色の燐光が、彼女の左胸に集うと、そこから、これまでの数十倍の眩しさが迸った。
胸から噴きあがった光の奔流がエナの周囲を、裂花を、せつなを、メイアを、子猫になった焔を、そして、せつな達を取り押さえた魚人達の間を渡っていく。
「うああ!」
「め、目がぁ!」
せつなとメイアは、緑色の閃光を正視できずに顔を覆った。
「ギョギョギョーーー!」
突然、光に晒された魚人たちに異変が起こった。
魚どもの体が、みるみるうちに、ねじくれ黒ずんで、悲鳴を上げながら、ボロボロと崩れて、汚らしい土塊へと変わっていくのだ。
「エナちゃん、『力』を解放してるのね! いいわ……凄く……強い!」
裂花はうっとりとした表情で、崩れゆく魚人達を踏みしだきながら、一歩、一歩とエナに近づいて行く。
「おまえぇぇぇぇ! 許さない!」
緑に燃え立つエナが、凄まじい形相で裂花を睨んだ。
彼女の胸から噴き上がる光が、裂花の体を包み込んでいく。
だが、裂花は動じない。美貌の少女がかざした真っ白な左手の掌のなかに、エナの放った光の奔流が、まるで栓を抜かれた風呂桶の湯のように渦巻きながら、吸い込まれて行くのだ!
「素敵よエナちゃん……! もっとよ、もっと頂戴。さあ、一つになりましょう!」
整った口元を恍惚に歪ませて、エナの『力』を吸い取りながら、裂花は右手に晶剣を構えてエナに迫っていった。
だが、その時だ。
ごそり。
光を飲み込む裂花の左手が、前触れもなく唐突に、地面に、もげて落ちた。
「な……!」
裂花の美しい貌が、困惑と苦痛に歪んだ。
「うそ、私の身体が、エナちゃんの『力』に耐えられないなんて!」
戸惑い、失われた左腕に手を伸ばす裂花だったが……
拾い上げようとした自身の腕が、真っ黒に変じるとグズグズと崩れ、四散して宙に舞った。
「そんな……私が、毀れる。私が、灰になる……!」
裂花の眼が驚愕に見開かれた。
ぼおお。異変は腕だけに留まらなかった。
少女の体から、もげた左腕の創口から、緑色の炎が噴き上がったのだ。
「あぁあああああっ!!」
裂花の悲鳴。
「うぐぅ!」
せつなは思わず顔をそむけた。
なんという凄惨な光景だろう。
エナの体から噴き出した光の奔流に弄ばれながら、緑に燃えさかる炎にその身を焼かれて、ねじくれ、溶けて、校庭に崩れ落ちていく少女の姿は。
そして見ろ。燃え落ちた裂花の残骸。黒い灰燼が、逆巻く夜風に舞い上がりながら、幾つもの、何かの形に、寄り合わさっていく!
それは蝶だった。
少女の残骸が、何百頭もの黒翅の蝶へと姿を変えると、まるでエナから流れ出る緑の炎を厭うように、ハサハサと校庭から舞い上がって満月の夜空に消えていくのだ。
「裂花……! あいつ、何だったんだ……!?」
せつなは、彼女の消えた夜空を見上げ、茫然とそう呟いた。
「コータ!」
絹を裂くようなエナの悲鳴に、せつなは我に返って地上のコータとエナを見た。
「コータ、待ってて、今、『これ』で助けるから、コータ!」
裂花を焼いた後もなお、エナの『力』が収まる様子はなかった。
エナは、胸から噴きあがる緑の光を、愛しげに自身の両手に掬い取りながら、傷ついたコータむかって歩いていった。
「だめだ、エナ、落ち着くんだ! その『力』は、使っちゃいけないモノなんだ!」
校庭に突っ伏したコータが、エナを見上げて苦しげにそう言うが、
「やだよ。コータ!」
ツインテールを震わせ、顔を伏せながら、エナはコータにきっぱりとそう言った。
「コータ、やっと会えたんじゃない。もう、離れないよ……」
ぽつり、エナが呟いた。
「エナ……」
エナを見上げたコータは、驚愕に息を飲んだ。
地面のコータに向かって歩み寄りながら、彼を見下ろして、エナは悲しげに微笑んでいたのだ。
眼鏡の奥のその瞳は、ボンヤリと血の色に、光っていた。
そして、その左胸から湧き上がっていたのは……!?
しゅるるるるるるるる……
エナから吹き上がる光が、何かに変じた。
「エナ! 何を! うおぉ!」
二人に駆け寄っていくせつなだったが、その何かに、足を取られて前に進めない!
ざわざわざわ……
『それ』は、エナの胸から生え出て地をうねり、せつなの足を絡めとりながら、月夜に向かって伸びあがり、エナとコータの二人の姿を半球状に覆っていった。
荊だった。
ぼんやりと緑の燐光で闇夜を染めて、無数の荊が、校庭に、生え、茂り、エナとコータを包んでいく!
「コータ! エナー!」
荊を踏みつけ、振り払い、必死で二人のもとに這っていくせつな。
だが、
「如月くん……」
生い茂る荊の中から、傷ついたコータに傅き彼を抱き寄せたエナが、一瞬、せつなの方を向いた。
「ごめんなさい、せつなくん! あたし、また、ダメだった!」
荊の向こうに姿を消すその寸前、エナが悲しそうに、せつなにそう言った。
ぞわあ! 幾重もの荊の茂みが、せつなからコータとエナを隔てた。
「うおおおおおお!」
イマジノスアームで無理矢理に荊を切り払い、二人を助けようとするせつなだったが……
ぐりゅんっ! せつなの足に、何かが巻き付いた。蛸足だった。
「はははぁ! 如月くん、もう無駄だ! 楔は抜き放たれた。無粋なことはしなさんな! 見ものだぞお! 狭間が広がり、世界の理が変わる!」
なんと、声の主は、大月教授だった。
エナに爆砕されたはずの頭部はいつの間にか元通りに再生し、その体を校庭からもたげると、無数に生えた触手でせつなを阻んでいるのだ。
「うるせー教授! 知ったような事ばっか言いやがって! 放せよーー!」
目に涙を溜めながら教授に怒号を上げるせつな。
二人を助けないと、二人を助けないと! でも教授が伸ばした触手が幾重にも彼の体に絡みついて、身動きがとれない。
だがしかし、その時だ。
しゅらん。キラキラと白銀のメスが宙を舞って、せつなを縛った蛸足が切り払われた。
「探偵! 事情は分からんが、教授はあたしの獲物だ! お前は二人を助けろ!」
メイアだった。魚人の拘束から逃れたJC刑事が、教授の前に立ち、メスで触手を切り払ってせつなを援護したのだ。
「ああ、すまない! メイア!」
互いに嫌いあって、敵対していたはずの刑事に礼を言い、再び荊に向かったせつなだったが、
「させんぞ! 如月! 甦れぇ! めぇるぅもぉおおおおおおおおお!!!!」
教授がせつなを睨んでそう叫んだ。すると、
「教授! 了解しましたの!(^o^)」
地面の方から声が聞こえて、
「にゃ! にゃんにゃんに゛ゃーー!」
校庭で毛繕いをしていた黒猫の焔が、戸惑いの鳴き声をあげた。
むくむくむくむく……
焔が猫の背中に背負っていた藍色の巾着袋が、見る見るうちに膨れ上がると、
ぼわっ
巾着を破って中から飛び出してきたのは、焔に握りつぶされて絶命したはずの、せつなのiPhone。
いつの間にか何百匹にも分裂、増殖していた、萌えメールの『めるも』だった。
ぶわーーーーん!
ピンクのレオタードに身を包んだ何百匹もの虫翅の少女たちが、せつなに飛びかかると、一斉に彼の体に集って、銀色の錫杖で彼を突き刺してきたのだ!
「せつなさま! 裏切ってごめんなさいですの!(^o^)」
「でも、教授のご命令ですの!(^o^)」
「死んでもらうですの!(^o^)」
「もらうですの!(^o^)」
「ですの!(^o^)」
「ですの!(^o^)」
「ですの!(^o^)」
「ですの!(^o^)」
「ですの!(^o^)」
「デスノ!(^o^)」
「ですの!(^o^)」
「ですの!(^o^)」
「ですの!(^o^)」
「ですの!(^o^)」
「うぎゃーーーー!」
せつなが絶叫する。
その先端には電流が流れ、何かの麻痺毒が塗布された錫杖に全身を刺し貫かれて、せつなの意識が遠くなっていく。
「ぐぐうっ!」
たまらず地面に膝をつき、校庭に倒れたせつなの眼前に、暗黒が降りてきた。




