エピローグ
駅に向かってゆっくりと歩く。
ふと立ち止まり、木之本美園はぼんやりと空を見上げる。
雲ひとつない真っ青な空。
小鳥遊籠女と玄野響がどうなったのか、それは美園にはハッキリとはわからない。栢野綾女もそれについては説明してくれはしなかった。
二人の魂は共鳴しあってこの世界から消えたのかもしれない。今でも妖かしとして、この世界のどこかに存在していのかもしれない。この青くどこまでも広い空を飛び回っているのかもしれない。
いずれにせよ、全ては終わったのだ。
月下薫流はあれからすぐに目を覚ました。彼は宮家陰陽寮とも桔梗学園とも無関係の高校に通う学生だった。ある日、突然、『身体を貸してほしい』という声が聞こえ、それを引き受けたのだそうだ。
「面白い申し出だと思ったんだ」と、薫流はニコニコと笑顔を見せながら言った。そして、玄野響と小鳥遊籠女とが共に消えた場面を見ることが出来なかったことを残念がっていた。
芽夢はこちらで後始末をすることがあるため遅れて帰ることになっている。
「今回、一番騙されたのは私じゃないですか。この借りは返させてもらいます」
しばらくの間、芽夢は一条家に居候と決め込むようだ。
いったい何をするつもりかはわからないが、芽夢は一条家で何かしらの仕事をするつもりらしい。
雛形静香は綾女の指示によってすでにこの街を離れている。
「あなたに何かあれば、それこそ彼女は立ち直れなくなってしまったかもしれません。そのため先に帰らせたのです」
と綾女は話してくれた。
美園自身、あまり感じていないが、それなりに危険な状況だったそうだ。
「あなたのなかにいた小鳥遊籠女の魂は非常に強い力を持っていました。一つ間違えばあなたの魂が吸収されていたかもしれません。あなたを救うためには、あなたと小鳥遊籠女の魂がそれぞれ自分を取り戻そうとしなければいけなかったのです。それが出来なければ私たちの力によってあなたたちを分離しなければなりませんでした。そうならなくて本当に良かった」
そう言った綾女は少し残念そうな表情に見えた。それでも綾女が美園たちのことを心配してくれていたのは本当のことだろう。
綾女は美園にもう少し一条家に残ったらどうかと言ってくれた。
確かにまだ不安は残っている。
自分のなかにいた小鳥遊籠女が消えたとはいえ、本当にもう大丈夫なのかどうか自分ではよくわからない。
それでも今は静香に会いたい。
一日も早く会って全てを謝りたい。
思わず駅に向かう足が早まる。
「木之本さん」
その声に美園は足を止めて振り返った。そこに立っていたのは田代進次郎だった。
「先生」
「思い出したんですね」
田代がホッとしたような笑顔を見せる。
かつて田代は私立桔梗学園で教師として働いていた。生徒からの信頼も厚く、美園が慣れない陰陽術によって『妖かし化』した時、彼が顧問をしていたサークルの仲間たちに彼女を助けようと声をかけてくれた。それが『百花』だった。
彼らは日々、古い資料を調べさまざまな術式を研究するのが日常だった。
そんな田代が命を取り戻す術を見つけたかもしれないと教師仲間と興奮気味に話すのを耳にして、美園はその術を使いたいと切望するようになった。
母を蘇らせたいと強く願った。
もちろんそんなことを頼んでみてもそれが叶わぬことであることはわかりきっていた。人の命を蘇らせるという術が禁忌とされていることは高校入学後すぐに教えられることだったからだ。
深夜、美園は雛形静香と共に学校に忍び込み、百花たちが使っている資料室を捜し出しすぐに術を発動させた。
それが事件の始まりだった。
「先生は皆を見守るために、皆を助けようとして学校を辞めたんですね」
美園がそう言うと田代は静かに首を振った。
「そんな立派なものじゃない。せめてもの罪滅ぼしだよ」
「栢野さんが詳しい事情を知っていたのは先生が話したからですね」
「ボクには何もすることができなかった。一条家がボクの相談に乗ってくれて助かった」
「先生は何も悪くありません」
「ボクが間違った情報をキミに教えてしまった。それがすべての始まりだ」
「私が勝手に勘違いしたんです」
「木之本さんのことが心配だった。だが、あの頃の木之本さんをどう扱っていいかがわからなかった。だから木之本さんのことは局長に任せることにした」
「先生はこれからどうされるんですか?」
「前にも話したけど、今はこっちの塾で講師をしているんだ。一条家からの紹介でね。川北君意外は皆、帰っていったからもうこっちにいる理由はないんだけどね。だからといって、今更、学校に戻るのもどうかと思って」
「まだ責任を感じているんですか?」
「責任がないとは言えないよ。でも、だから戻らないってわけじゃないよ。今回のことでわかったことがある。陰陽術は人の命に関わることだ。興味本位で迂闊に近づくものじゃない」
「先生がそんなこと言うなんて少し驚きました」
「そうだろ。僕も驚いている」
そう言って田代は笑った。「でも、陰陽術に興味を失ったわけじゃないよ。皆の『妖かし化』が解けたからといって、全てが解決したわけじゃない。百花の皆の心のなかには今回のことで傷が残るかもしれない」
「心配性ですね」
「ただの興味かもしれないよ」
「でも、私はもう大丈夫です。先生も自由になってください」
「ありがとう」
田代は深々と頭を下げた。
きっと田代は自由にはなれないだろう。彼はきっとこれからも百花の皆の今後を心配していくに違いない。それは美園が母への罪を背負っているのと同じことなのかもしれない。
田代と別れ駅へと向かって歩く。
ふと、空を見上げ、あの日見た大きな鳥のことを思い出していた。
あの日、身体の中に溶け込んだ羽。
羽が未来を指し示してくれる。
未来に歩み続けていくだけだ。
了




