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木之本美園は母子家庭で育った。
小学校にあがる前に両親は離婚していたため、父の顔はほとんど憶えていない。母は父のことを口にすることはなかったし、父がいない分まで美園を愛してくれた。それでも自分に父がいないことを寂しいと感じたこともあったが、美園もそれを口にすることはなかった。母が傍にいてくれれば、それで幸せだと考えていた。
そんな母の癌が発見されたのは、美園が中学に入学したばかりの頃だった。
すぐに入院をして詳しく検査を受けたが、既に手術不可能の状態に陥っていた。もちろんそのことを母はすぐには話してはくれなかったし、きっとすぐに元気で帰ってきてくれるものと美園は思い込んでいた。
しかし、美園の願いに反し、母の病状は日に日に悪くなっていった。
痛みをおさえるために強い痛み止めを打つようになり、美園が見舞いに行っても朦朧とする意識の母と曖昧な会話しか出来ないようになっていった。
あの日、いつものように授業が終わってから急いで病院に向かった美園を待っていたのは状態が急変した母の姿だった。
呼吸が荒くなっていく母親の姿に戸惑う美園に、医者は延命治療をするかどうかを尋ねた。すぐにそれを美園は拒否した。それが母の希望だと美園は考えたからだ。
それから間もなく母は息を引き取った。
泣いているような余裕は美園にはなかった。母の葬儀や後始末を美園一人でやらなければならなかった。
葬儀が終わり、一段落してから美園はふと考えるようになった。
延命治療を行わない。それは本当に母の願いだったのだろうか。自分がそう思い込んでいただけではないだろうか。
あの日から、美園は自分を否定するようになった。
* * *
自分が母を殺した。
いつしか美園はそう考えるようになっていた。
「最後に母の命を絶ったのは私です。もし、延命を決めていたら母はもう少し生きられたかもしれない」
綾女たちが見つめる中、美園は淡々と答えた。
「あなたが自分を責める気持ちはわかります。でも、それは仕方ない選択です。あなたが殺したわけじゃありません」
綾女の言葉はただの優しさであって、美園にはそれを素直に受け入れることができない。
「それはただの理屈だ」
突如、玉藻前が口を挟んだ。「その娘にとって、罪は過ちではない。その娘は罪を背負うことで生きていられる。いいか、娘。ならば、その罪と共に歩み続けろ。それが母親と共に生きるということだ。それがお前の選んだ道なのだ」
「お母さんと一緒に?」
「お前はその選択を後悔しているのか?」
「……私は……」
「おまえはそれを迷っている。しかし、その迷いはお前自身から生まれたものではない。誰かからの言葉から生み出された迷いだろ? 自分の心を見つめろ。自分の心に嘘をつくな。そうすれば迷いは消える」
玉藻前の言葉に昔のことを思い出す。
あれは葬儀の時だ。
――一人娘を残して死ぬなんて、心残りだったろうね。何があっても死にたくなかったと思うよ。
そうだ。誰かがそう慰めてくれた。
慰め。
それが優しさからくる慰めであることはわかっている。
だがーー
(私は生きようとしていた母を殺したのだろうか)
そんな小さな疑問が心の中に芽生えた。そして、その思いが日に日に強くなっていった。
「おまえは母親を今もまだ背負っている。そして、それは一生続いていく。それがおまえの望みだったのだ。あの瞬間の気持ちを思い出せ。悲しみを感じろ」
玉藻前の言葉が胸の奥へと届く。
それは不思議な言葉だった。なぜか、その言葉を聞いた瞬間、今まで重荷となっていた心の枷が消えていくような気がする。
(これは妖かしの力?)
心が溶ける。
頑なに自らの罪を責めてきた心が解けていく。
泣いて良いのだ。悲しんで良いのだ。
気づくと涙が頬を濡らしていた。
母が亡くなってから、母を思って泣くのは初めてだった。
「どうして……私の気持ちが?」
涙の向こうに玉藻前の顔が見える。
「私はお前のなかにいたのだ。そのくらいのことはわかる」
「……ありがとう」
「礼などいらん。さあ、もういいだろう。私は行くぞ」
玉藻の前はすっくと立ち上がった。
「待って。待ってください」
美園は思わず声をかけた。
「まだ何か用なのか?」
「あなたはそれで良いんですか?」
「ん?」
「あなたは玄野さんを好きだったんじゃないんですか?」
美園の言葉に玉藻前の表情が変わる。
「何を言い出す? お前に心配されるようなことではない。そもそも玄野響と恋仲になったのは小鳥遊籠女という女だ。それは私ではない」
「いえ、あなたです」
「何? おまえに何がわかる?」
玉藻前のピリピリした感情が強く伝わってくる。それでも美園は喋り続けた。
「私にはわかります。私にだからわかるんです。だって、あなたは私の中にいたんです。あなたが私のことをわかるように、私にはあなたの気持ちがわかります」
「何か記憶しているのですか?」
と、背後からそっと芽夢が訊く。
「あ……いや、記憶はしてないけど……でも感じたんです。あなたが彼らをどんなふうに思っていたのか。百花の皆はあなたの影響を受けていました。小鳥遊籠女さんだったあなたの影響です。あなたは誰よりも人として存在したかった。あなたはまだ小鳥遊籠女さんの魂を持ち続けているんです」
「やめろ」
「さっきあなたは私に言ったじゃないですか。自分に嘘をつくなって」
「やめろと言っているだろう。それはおまえのことで私のことじゃない。私は妖かしだ。お前たちのような人間とは違う」
「同じです」
「黙れ、小娘!」
その恫喝が響き渡る。だがーー
「同じだよ。その子の言うとおりだ」
その声に美園たちは振り返った。それは月下薫流だった。「でも、キミはそれを気にして自らを消した。だからボクも人を捨てた」
薫流はまっすぐに玉藻前を見つめている。
「人を……捨てた?」
美園は薫流の言った言葉を思わず繰り返した。
「ボクももう人ではない。この体だって借り物だ」
「いったい……あなたは?」
「さっきから君たちも話しているじゃないか。玄野響、その魂とでもいうのかな。ボクが人間だったときの身体がそこにある。なんか変な感じだ」
そう言った直後、パタリと月下薫流がその場に倒れた。その身体から白い靄のように霊気が溢れ出してくる。
さっき美園に起きたのと同じことが目の前でもう一度起こっている。月下薫流の身体から煙が立ち上るように霊的エネルギーが抜け出してくる。
そして、そのエネルギーが一つにまとまり一人の若者がそこに姿を現した。それが玄野響であることは美園にもわかった。
「どうして?」
玄野響を見て玉藻前がたじろぐ。
それでも玄野響はまっすぐに玉藻前に近づいていく。それを見て玉藻前が後ずさる。
「ボクが最後に残した術はボク自身のためのものだ。ボクがキミと同じ姿になるための術だ」
「そんなこと私は望んでいなかった。私のことなんて忘れてあなたには生きてほしかった」
「キミのためじゃない。ボクのためだ」
いつしか玉藻前の姿が変化していた。それは美園たちと同じくらいの年齢の少女に見える。それが小鳥遊籠女の在りし日の姿だということに美園は気がついた。
「私とあなたとは違う」
「違いなんてない。妖かしと人間も同じだ。命のあり方が少し違っているだけだ。今のボクは人間でもない。キミと同じだ」
「……私は」
「一緒に行こう」
玄野響がそっと手を伸ばす。その手に籠女が触れる。
その瞬間、大きな衝撃が生まれた。
閃光が弾け、霊的エネルギーが強い風を巻き起こし、思わず美園はその場に蹲った。それは美園だけが感じたものなのかもしれない。
気づいた時、玄野響も小鳥遊籠女の姿も見えなくなっていた。




