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第74話 VSケライノ[後編]

前回までのライブ配信。


 シャザードが去ったのち、空から地上まで達する魔術をまとうハルピュイアの『黒雲(こくうん)』ケライノがアイリスに向かってくる。


 ケライノを迎え撃つため、アイリスは敵だった剣闘士第六席のカクギスと協力することになる。


 ケライノとの地上での戦いの後、アイリスはカクギスを身体に乗せてケライノと空中戦を行う。そして、カクギスの剣がケライノの片翼を切り離したのだった。

 片翼(かたよく)を切られたケライノが落ちていく。

 悲痛な声が響き渡った。

 あまり良い気分ではなかったけど、気持ちを切り替えていく。


 落ちていったカクギスさんは大丈夫だろうか?

 彼を見ると、自分で風の魔術を使って落下するスピードを遅くしていた。

 ちゃんと大の字になって空気抵抗を受けやすい体勢になっていた。


 それに向かっているのが川の近くだ。

 水面に落ちれば、多少スピードがあっても助かるからだろうか?

 何か手慣れてるな。


 ただ、完全に落下スピードを殺すことはできなかったみたいなので、ボクも追いかけて魔術の加勢をさせてもらった。


 ケライノもそのまま墜落したりせず、地面スレスレに不時着したように転がっていく。


 その後、ボクとカクギスさんは無事に着地できた。


 着地した場所は大きな川の近くで、野営地や鉱山奴隷たちが居た場所から遠い。

 背の高い草が生い茂っていたけど、着地するときに使った風圧でなぎ倒れていた。


「ケライノはまだ戦う意志は残ってるでしょうか?」


 カクギスさんに話しかける。


「恐らくな。あやつ、翼以外は刃物が通らんほどだ。地面を転がった程度ではダメージは少ないだろう」


「なるほど。あ、でも風を集中してケライノのお腹に当てたら何か吐いてましたよ」


「ふむ。それはまた(むご)いことを。――どうした?」


「話の途中ですみません。ちょっと気になることが起きてます」


 空から地面まで広がっていた魔術がケライノに向かって吸い込まれていく。

 少し遅れて耳障りな声が聞こえてきた。

 唸るような悲痛な声だ。


「――この辺り一帯にあった魔術の霧のようなものが彼女に集まっていってます」


「ほお? どうなるか分かるか?」


 カクギスさんはケライノの居る方向に視線を向ける。


「分かりません。ただ、悪い予感はします」


 魔術が集まりきったように見えた。

 辺りが静まりかえっている。


 次の瞬間、濃縮された光が目の前に移動してきた。


「――ガグァ!」


 あまりのスピードに不意を突かれる。

 見えたのは鳥のような爪。

 突風の魔術を発動したけど間に合ってない。

 剣で防御したけど、その剣がボクの兜に当たり、上半身が一瞬で地面へ向かった。


 発動していた突風の魔術の場所を移動させて、頭が地面にぶつかるのを回避する。


 ボクは吹き飛びながら上も下も分からないまま転がっていった。

 草むらで草が雨で塗れていたからかダメージはそんなにない。

 意識もはっきりしている。


 強い光がすぐ近くに見えた。

 恐怖から突風の魔術を放つ。

 でも、さっきと同じように効果はなく、背中を踏みつけられた。


「かはっ」


 肺の空気が押し出され、声が漏れる。


「イーリースー」


 しわがれた不快な声が聞こえた。

 なんとか声の方に目を向けると、恨みのこもった顔がボクに向けられている。

 突風の魔術を放ってみるが、彼女の近くでは風の勢いが消えた。


 武器を探したけど、剣もいつの間にか手放してしまったみたいだ。

 ナイフを取ろうと思ったけど、踏みつけられてる上に、鎧が邪魔して腕が動かせない。


 草と土の匂いでむせそうになる。

 神経に電気を通して筋肉を無理矢理動かしてみるけど、身体を起こすことすら出来なかった。


「アタシの翼をよくもやってくれたねぇ」


 ≫えっ、これハーピーがしゃっべってるの?≫

 ≫声がやばいな……≫


 ボクを踏みつけている強い光――ケライノから声が聞こえてきた。

 この強い光はどこかで見たことがある。


 ――あ。

 こっちの世界に来た日の夜、暗闇の中で見た左手のことを思い出す。


 ルキヴィス先生の左手。

 義手だったのかな?

 そういえば電気を扱っていた。


 電気?

 あの義手は金属?

 ここにも金属があれば……。

 いや、あれ?

 ボクの鎧って金属か。


 ボクは電子を鎧の踏まれている場所に全力で集中させた。

 雨で塗れているからか、辺りの電子も集められそうだったのでそれらも集める。


「死んで詫びな!」


 ボクは一気にケライノの足に電子を移動させた。


「ギャァー!」


 ケライノの隙を狙って起きあがり、腰のナイフを抜く。

 そして、ナイフを――。

 効かないと分かっていながら、太股に突き刺した。


 生きている者の胴体にナイフを突き刺す勇気はボクにはない。


 ナイフの刃はカクギスさんが言ったとおりに通らなかった。

 刃の先が硬い皮膚を突き抜けず滑る。

 不思議な感覚だ。


 そこにいつの間にか駆けてきていたカクギスさんが剣を振るう。

 残っていたもう1つの翼の上半分を切り取った。


「グギャァ! ガァ!」


 カクギスさんはケライノに瞬間的に距離を詰められた。

 彼女は風と一体になって動いている。

 カクギスさんは彼女の爪を剣で受けるが吹き飛ばされた。


 でも、吹き飛ばされたカクギスさんは、自身の圧縮した風を2度使ってダメージなく着地する。

 すごい。

 風の魔術を使った受け身を使いこなしている。


 ≫あれ、相当訓練してるな≫

 ≫訓練でああいうことが出来るのか?≫

 ≫普通の受け身でも数やれば条件反射で出るぞ≫


 その後、カクギスさんはピタリとケライノの背中に着いた。

 激しく動きながら、翼の生えていた腕の付け根の部分に剣を振るう。

 ただ、それらは全て避けられていた。


 しばらくして、カクギスさんがボクの近くまで吹っ飛ばされてきた。

 カクギスさんと目が合う。

 すると、ボクの目の前にカクギスさんが持っていた剣を投げられた。


「正面から攻めろ。あやつのいずれかの目が、あやつの鼻で隠れる位置に動け」


 指示の意味は分からないけど、剣を拾う。


 ≫目が鼻で隠れる位置ってなんだ?≫

 ≫分からん≫


 カクギスさんの目の前にケライノがやってくる。

 彼は足の爪で蹴られた。

 でも、その攻撃に対して、いつの間にか持っていた短剣を突き立てている。


 ≫鼻って誰の?≫

 ≫ハーピーだろ。鼻の死角に入れってことだよ≫

 ≫片目のみの死角って何か意味あるのか?≫

 ≫分からんが何かあるんだろ≫


 ケライノから離れるカクギスさん。

 交代するように、ボクは突風の魔術を使ってケライノとの距離を詰める。

 剣には電子を集められるだけ集めてあるのでバチバチと鳴っていた。


 剣はケライノに爪で受けられる。

 その瞬間、ボクは電子を彼女に流す。


「グェ!」


 彼女が硬直したその瞬間にケライノが発した突風がボクに直撃した。

 吹き飛ばされて転がる。


 ≫武術家だが片目の意味は少し分かるぞ≫

 ≫鼻の死角に隠れるのは片目だけでいいはずだ≫

 ≫視覚を片目だけにすれば盲点が使える≫

 ≫盲点? 単語だけは聞いたことあるな≫

 ≫見てる場所の15度外側から5度は見えない≫

 ≫その5度の間を盲点と言う≫

 ≫両目だと盲点は使えない。片目だと使える≫


 ボクはコメントを横目で見ながら立ち上がった。

 今はカクギスさんがケライノを攻めている。


「それって使われると姿が消えますか? さっきカクギスさんと戦ったとき、一瞬彼が消えたように見えました」


 ボクは話しながら剣に電子を集めた。

 すぐに突風の魔術でケライノに迫る。


 ≫マジか≫

 ≫消える。俺も片目相手なら実現した≫

 ≫だが実戦想定では実現できなくてな≫

 ≫相手が片目だけで見る状況を作れなかった≫

 ≫鼻に隠れるという方法があったか≫

 ≫なんつーかヤベー人だなw 嫌いじゃないが≫


 剣をバチバチ鳴らしながらケライノを威嚇する。

 そしてケライノの鷲みたいな長い鼻に隠れるために左方向に駆けた。


 ケライノの目を見ながら移動していく。

 そういえば、カクギスさんと戦っている最中、彼もボクの目を見ていたときがあったっけ。

 なるほど、ボクの目が鼻に隠れるのを確認してたのか。


 ボクの後ろにカクギスさんがピタリとついた。

 ここから15度外側に移動するのか。


 でも、よくあれだけの指示でボクが実行すると思ってくれたな。

 ボクを信じてくれてるということか。

 コメントがなければ意味が分からなかったので過大評価なんだけど。


 ただ、このままだとスピードが足りないな。

 風の魔術でボクとカクギスさんを押す。

 その瞬間、ボクの視線からケライノの右目の黒目が見えなくなった。


 ボクは前に飛び出し、身体を伸ばして右手だけで剣を振る。


 カクギスさんはボクの後ろから更に左に飛び出していた。

 剣はケライノに避けられたが電子を飛ばし、バチッという音と共に彼女を僅かに硬直させる。


 そのボクの脇からカクギスさんの影が飛び出している。

 ケライノは気づく様子さえ見せない。

 そして、カクギスさんの短剣がケライノの左目に突き刺さっていた。


 一瞬の静寂。


「ギャァー!」


 悲鳴が響き渡る。

 ケライノは暴れるが、カクギスさんはすでに離れていた。

 ボクも下がって剣を構える。


 ケライノは暴れ苦しみながら倒れ、しばらく叫びながらもがいていたがそのまま動かなくなった。


 ≫終わった?≫

 ≫死んだのか?≫


 油断せずにケライノを見る。

 彼女は動かない。

 様子を見るために近づいたその時、魔術が爆発的に広がった。


 ケライノを中心に液体のような濃い魔術が地面に広がり、突風が乱れ吹く。

 ボクは吹き飛ばされ、そして舞い上げられていた。


 魔術は荒れ狂い、嵐になっている。

 周りが黄土色で何も見えない。

 上も下も分からない。

 三半規管はぐるぐるを感じているので、身体は回転している気がする。


 ≫おい、配信の画面おかしいぞ≫

 ≫どうなってんの?≫

 ≫おま環かと思ったら違うのか≫

 ≫うちもだ。お前の環境だけじゃない≫


 地面の場所を、空間把握で探ろうとするけど全く分からなかった。

 身体の回転だけでも止めようと突風の魔術を発動しようと思ったけどなぜか使えない。

 魔術無効のときと同じ?


 地面に落ちる可能性が頭をよぎりゾッとする。

 魔術が使えない状況で、この舞い上げられている風がなくなったら地面に落ちて死ぬしかない。

 飛行機から飛び降りてパラシュートを持ってないことに気づくようなものだ。


 ボクは恐怖で何度も突風の魔術を使ってみる。

 でも、魔術は一切発動した様子がなかった。


 え、これで終わり?


 助かる方法を考えようとしてみるけど思考が空回る。

 落ちて死ぬイメージしか浮かばない。

 そのうち、こっちの世界に来てからのボクの記憶が急になだれ込んできた。


 マリカと円形闘技場(コロッセウム)で会ったこと。

 キマイラリベリと戦ったこと。

 ミカエルに襲われ窓から逃げたこと。

 深夜のローマ市街。

 円形闘技場(コロッセウム)の地下の巨人に感じた恐怖。


 マリカやルキヴィス先生たちと仲良くなったこと。


 魔術の検査、訓練、巨人たちとの戦い。

 突風の魔術。

 お風呂の湯に対して魔術が使えて水を割れたこと。


 ドラゴンとの戦い。

 皇妃に包帯兵になれと言われたこと。

 マリカとの約束。

 討伐軍に参加してからのこと。


 ――いろいろあったな。


 思い出が同時進行で浮かび続ける。

 浮かぶ記憶に浸る感覚に安らぎを感じていた。

 でも、左目に流れていくものがあった。


 ≫おーい≫

 ≫無事なのか?≫

 ≫無事ならOKサインしてくれ≫

 ≫アイリスー≫

 ≫ラキピー!≫


 流れていくコメントが速くなっていき、いつの間にか流れる記憶ではなくコメントだけを見ていた。

 すぐに親指と人差し指をくっつけてOKを左目に見せる。


 ≫おお!≫

 ≫生きてたー≫

 ≫どういう状況?≫

 ≫配信がおかしいって訳じゃないのか≫

 ≫まともな状況じゃなさそうだな≫

 ≫とにかくがんばえー!≫


 配信に向けて大きな声を出してみるが、聞こえたような反応はなかった。

 相談もできないし魔術も使えない。

 絶望的な状況は変わってない。

 でも、元気はもらった。


 無理かもだけど、助かる手段を考えてみよう。

 助かる手段は大きく分けて2つあると思う。

 突風の魔術が使える状況になるか。

 それとも、死なない場所に落ちるか。


 でも、死なない場所ってどこだ?

 大きな川が近くにあるはずだけどそういう所?


 そもそも、高いところから水面にぶつかったらコンクリート並に硬いんだっけ?

 深さが足りなければ衝撃を吸収しきれずに川底にぶつかって死ぬだろうし。


 相談できないのが辛い。

 魔術を使ってみる。

 やっぱりダメだ。

 そう思って、持っている剣の先に電子を集めてみる。


 バチッ。


 あ、剣には魔術使えるのか。

 気体以外には魔術が使えるということかな?

 それが分かったところでどうしようもないけど。

 あとは魔術が使えるとしたら体内か。


 ボクはどうにでもなれと開き直って実験を始めた。

 どこなら魔術が使えるかという実験だ。

 思いついたことを次々に試していく。


 そうしている内に、兜の内側の頭との隙間にある空気には、魔術が使えることが分かった。


 使えるときの条件はある。

 兜全体に魔術を発動している間は、内側の空気に魔術が使えた。

 兜に魔術を発動してなければ内側の空気への魔術は無効化される。


 それならと、兜を脱いでお腹の辺りに抱える。

 鎧の胸のでっぱり部分がちょうど支えになる。


 兜全体に魔術を発動させ、中の空気を圧縮する。

 あれ?

 最初は、兜に元からあった空気だけを圧縮したので、大したことはなかった。


 でも、すぐに圧縮した空気の圧力を維持しながら、更に兜に入ってきた空気を追加で圧縮すればいいと思いつく。


 圧縮した空気を逃がさないようにしたまま、何度も魔術を広げたり縮めたりして密度を上げていく。

 すると、兜がほんのりと暖かくなってきた。

 空気って圧縮すると熱を持つんだっけ?


 圧縮した空気を解放してみると衝撃は強かった。

 でも、身体は移動しない。

 圧縮が足りないかな?


 それから、圧縮量を増やして身体が空中を動くくらいにはなった。


 圧縮に数十秒掛かる上に衝撃はかなり強いのに、少し身体が動く程度だ。

 感覚だと2メートルくらいだろうか。

 飛ぶのはもちろん、風に逆らうこともできそうにない。


 あとは近くの川の場所が分かればいいんだけど。

 そう思っても、周りが全く見えない。

 上下の感覚すら掴めない状況で地上の様子なんて分かるんだろうか?


 空間把握に切り替えてみるけど、これは広い空間から何かを探すのには向いてない。


 カクギスさんは察知できるみたいだけど、どうやってやってるんだろうか。

 聞いておけばよかった。

 魔術なら察知できるんだけどな。


 ――あっ。

 ふと思いつく。

 今はケライノの魔術が空間を荒れ狂ってる。

 その魔術を見れば、地面の様子も分かるんじゃないだろうか?


 魔術を見るように意識を切り替える。

 ムンクの絵のように渦巻く魔術。

 空間把握が望遠鏡とすると、広がっている魔術全体を見るのは目視に近い。

 魔術の存在を通して全体がある程度把握できる。


 地上の場所はすぐに分かった。

 たぶん100m以上はある。

 渦巻いた魔術が地面からあふれるように立ちのぼっていた。

 風が上昇気流になってるのはだからなのか。


 川の位置も分かった。

 思ったよりも近い。

 真下ではないけど、十分移動できる距離だ。


 カクギスさんは無事なんだろうか?

 希望が見えてきたからか、人の心配をする余裕も出てきた。

 でも、あの人の場合、この程度のトラブルで死ぬとは思えないんだよな。


 ボクは渦巻く魔術を見渡しつつ、圧縮した空気の力で移動する。

 そうして風が収まるのを待った。


 川や地上までの距離が分かっているからかなり気持ちは楽だ。

 ただ、兜をかぶってないので、泥が顔や髪にたくさんついた。

 早く養成所に帰ってお風呂に入りたい。


 渦巻く魔術が弱くなってくる。

 すると風も弱くなり、身体が落下しはじめた。

 いつかは落ちると分かってたけど恐怖はある。

 突風の魔術が使えるか試してみたけど、やっぱり使えなかった。


 兜に空気を圧縮しては解放し、少しでも川の真上から離れないように身体の位置を調整する。


 ただ、思ったより身体の調整がうまくいかない。

 落ちるスピードは速くなっていき、地面が迫る。

 ボクは兜の空気をギリギリまで圧縮し続けた。

 兜が熱いけど、気にしていられない。


 と、地表からの風にあおられた。

 落ちるスピードが緩む。

 あ、この辺はまだ魔術が濃いのか。

 ボクは今しかないと直感し空気を解放した。


 解放と同時に兜を支えにして腕力も使って飛ぶ。

 剣はさっき手放した。

 届け!


 ザシャザシャザシャー!


 水しぶきを立てながら落ちる。

 水圧で受け止められる形になって、勢いは止まった。

 でも、鎧の重さに引きずられて沈む。

 まずい、溺れる。


 ボクはさっきの走馬燈で出てきたお風呂の湯を分けたことを思い出す。

 川の水分子の衝突を捉えて一気に左右に開いた。


 バシャーという音と共に、目の前の水全てが左右に飛び散った。


 はい?

 一瞬、息は吸えたけど、すぐに後ろからの水流に飲まれる。

 おっぷ。

 今度は上流と下流に向けて水を分ける。

 かなりの勢いで水は上流と下流に吹き飛んだ。


 なんだこれ?

 水分子の動きってこんなに速いんだっけ?


 そんなことを考えている暇もなく、何か回転している物がこっちに向かってきていた。

 よく見ると物じゃない、人だ。

 あれは言うまでもなくカクギスさんだろう。

 川まで届くかは微妙なところだった。


 ボクは水を吹き飛ばしながら川底を走り、可能なだけの量の水をカクギスさんの下方にぶつけ続けた。

 カクギスさんはすぐに身体を広げ、水を受け止めてそのまま地面に落ちる。


「大丈夫ですか!」


 カクギスさんに近づくと彼は苦しそうに呻いていた。


 ≫このオッサンも苦しそうにするんだな≫


「――助けられた。礼を言う。あやつがどうなったか分かるか?」


 あやつというのはケライノのことだろう。

 魔術の気配を探ると、すぐに場所が分かった。

 淀みの中に、熱を持った七輪の赤のように暗く輝く魔術の塊がある。

 戦っているときと比べてかなり弱い。


「あっちにいるみたいですね。生きているかどうかは分かりません。見に行ってきます」


「剣はあるか?」


「いえ」


「そうか。目が回ってしばらくは動けん。これを持って行け」


 ≫目が回ってたのかw≫


 彼は鞘から剣を抜いて、柄の部分をボクに向けて突き出してきた。

 ボクはその剣を受け取る。


「お気遣いありがとうございます」


 ボクは頭を下げてケライノの元へと向かった。

 地上ではまだ風がむちゃくちゃな方向に吹いている。

 顔を手で覆うようにして姿勢を低くした。

 試しに突風の魔術を使ってみたけど使えない。


 ≫アイリスの状況教えて。声は聞こえてるから≫


「あ、そうですね」


 ボクは空に舞い上げられたことや、風系の魔術が使えないことなどを簡単に話した。


 ≫水を吹き飛ばしてなかった?≫


「水分子の衝突を使って二方向に進むようにしたらああなりました。使ったボクが驚きました」


 ≫それだけで吹き飛んだのか?≫


「はい」


 ≫水のブラウン運動ってそんなに速いのか?≫

 ≫秒速100mと教わったな≫

 ≫時速だと360kmかよ≫

 ≫新幹線のぞみのN700Sに近いな≫

 ≫ちな、水蒸気は秒速585mらしいぞ≫


 秒速100m!

 それなら、一瞬で吹き飛ぶのも分かる。

 さすがに空気の5分の1くらいだけど、液体でもそんなに速く動いてるのか。


 そんなことを話している内にケライノの元に着いた。

 地面付近の魔術の渦もかなり薄れてきている。

 ボクは警戒しながら近づいていった。


 彼女は全く動いていない。

 魔術の反応だけが暗く(かす)かに輝いている。

 翼が切られ、横たわったまま動かない姿は痛々しかった。


 カクギスさんが短剣を突き刺した左目は、うつ伏せになっていて見えない。


 ≫死んでる?≫


「分かりません。魔術の反応だけは僅かに見えます」


 ≫神話だと神は基本不死のはずです≫

 ≫放置しとけば復活するってこと?≫

 ≫神話と同じならそうかも知れません≫

 ≫復活はすぐにするの?≫

 ≫プロメテウスの話では肝臓が一晩で治ります≫

 ≫一晩ってジョバンニかよw≫

 ≫神話と同じかは不明ですけどね≫


「このままにしておいていいんでしょうか?」


 ≫どういう意味?≫


「死んでいるにしても、一晩で治るにしても、野ざらしのままでいいのかな、と」


 ≫その話の前に、あまり余裕はないと思います≫

 ≫なんの話だ?≫

 ≫南門側のローマ軍が危ないかも知れません≫


 丁寧語さんは続けてその理由をコメントした。

 根拠は弱いと前置きしながらも、ボクとシャザードさんの会話の中でそういう意味に取れる箇所があったらしい。


 ≫そんな話あった? やべえ覚えてない≫

 ≫シャザードが言っていた話だよな?≫

 ≫『目的は果たせている』という言葉ですね≫

 ≫どういうことだってばよ?≫

 ≫意味は分かるがなぜ早く言わなかった?≫

 ≫いや、言ったらアイリスが集中できないだろ≫


 その後、シャザードさんの言った『目的は果たせている』についての議論が巻き起こった。

 ボクはその言葉がローマ軍の危機を示しているということに思い当たる。


 これは、『戦術上の目的を果たせている』ことを意味していると思った。


 彼と話していたときは、すでに援軍の農奴や鉱山奴隷を無力化されていたはずだ。

 その上で、シャザードさんがボクと話しているだけで『目的を果たせている』ことになる。


 つまり、援軍を救うことやボクに戦って勝つということは『目的』に入っていない。


 ボクの足止めだけを意味しているはずだ。

 戦術上ということは、ボクの足止めがシャザードさんたち反乱軍の勝利条件と考えられている。


 すぐにでも南門側に行かないとまずい。

 ボクは横たわっているケライノを見た。

 暗く微かではあるけれど、魔術の反応は見える。


 これなら近くに来ればどこからでも発見できるはず。

 事が済めば戻ってくればいい。

 ボクはそう決めた。


「どうだ? その怪物は生きておるか?」


 いつの間にかカクギスさんが近づいてきていて話しかけられた。


「分かりませんけど魔術の反応は残っています。再生して復活するかも知れません」


「ふむ。力のある怪物が故に、再生しても不思議ではないか。(とど)めを刺しておくか?」


 ≫ケライノはポセイドンの愛人って話があるな≫

 ≫それマジか。ポセイドンに怒られない?≫

 ≫そちらは別のケライノという説が有力ですね≫

 ≫ほう。というと?≫

 ≫ディアナに(つか)えるプレイアデス7姉妹です≫

 ≫同じ名前なのか。ややこしいなw≫

 ≫ただ、ユーピテルに怒られる可能性が……≫

 ≫主神に怒られるのかよw≫

 ≫ケライノはユーピテル配下な説がありまして≫


 その後、ポセイドンはローマ神話ではネプトゥヌスという名前になっているみたいな話が続いた。

 ポセイドンはギリシア神話での呼び名らしい。

 更にネプトゥヌスの英語読みがネプチューンみたいで、もう訳が分からない。


 ゼウスとユーピテルもそうだけど、この辺のギリシア神話とローマ神話の呼び方の違いって分かりにくいな。


「どうした? 止めを刺すのは反対か?」


「えーと、ケライノはユーピテルの配下という説があるらしいので、むやみに殺すわけにも放置するわけにもいきません。片をつけたら戻ってくるのでそれまで様子を見ていて貰えませんか?」


「――ふむ、片か。いいだろう。ただし刻限は日が沈む前までとさせて貰うぞ」


「十分です。ありがとうございます」


 カクギスさんは軽く頷くと、ケライノを見た。

 ボクは「では」と一礼して、野営地に向けて走り始めた。

 風はかなり弱くなっていた。

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