第175話 種蒔き
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アイリスはコモド流本部道場で総師範ネブロと試合をして実力を示す。ソフィアもネブロやカミラと手合わせを行う。ウルフガーの幼少期の恩人がユミルであることが判明し、ウルフガーとネブロの面会が明後日に決まるのだった。
着替えてオプス神殿から出る。
私はその足でゼルディウス道場へと向かった。
前に行ったときは親衛隊のラピウスと名乗っていたけど、今日はアイリスとして訪ねる。
髪は艶やかに手入れされたままだし、印象はかなり違うので誤魔化せるだろう。
目的は、私がアイリスとして行くことで話題になり、行方不明でないことを知らしめることにある。
その上で、裏社会にも通じているナルキサスさんに情報を聞いてみるつもりだった。
彼はマリカのお兄さんだし協力してくれるのではという甘い考えもある。
大きな道に出る。
人通りが多い。
「視聴者の皆さん。これから人とすれ違うときに首を振ってスリッピングアウェーの練習をします。画面を見ていると酔うかもしれないので、気をつけてください」
≫OK≫
≫了解≫
≫ついに始めるのか≫
私は歩きながら人がパンチの間合いに入るたび、顎を少しだけそらした。
遅れて髪がかすかに揺れる。
空間把握しながらスリッピングアウェーしていったけどかなり意識的にやらないとダメだな。
条件反射で出来るようになるには時間が掛かりそうだ。
焦りはじめてきた。
毎日少しの時間だけでも練習した方がいいかもしれない。
特に対戦で使うつもりの左フックは本気で取り組もう。
ゼルディウス道場に近づくと人が少なくなってきた。
「皆さん、少し相談させてください」
≫任せろ≫
≫何の話だ?≫
「幼い頃のウルフガーさんの恩人がユミルさんだったという話です。ユミルさんというのは、簡単に話すと、皇妃の付き人です。悪い人ではないと思いますが、皇妃の命令は絶対的に聞く人、という印象です」
≫それ悪い人では?≫
≫どんなことしたの?≫
「私は少なくとも娼館へ売られそうになりました」
≫うわぁ≫
≫そんなことがあったのか≫
≫懐かしいな≫
「問題は、ユミルさんの後ろに皇妃がいることです。ネブロ師範の力添えでも、ウルフガーさんが裏社会との関わりと断てない可能性が出てきました」
≫皇妃の方がコモド流総師範より影響が上か≫
≫皇妃となると権力があるからな≫
≫武闘派の数やコネでは押せないか≫
「はい。その場合は、ウルフガーさんに関わるとデメリットが大きいと裏社会側に思わせるしかなさそうです」
≫実力行使に近い形か≫
≫結局、最終手段になるのか≫
≫先のことを考えすぎても仕方ない≫
≫まずは明後日だな≫
≫彼がネブロ師範に気に入られないことにはな≫
「そうですね。先走りすぎました」
それからすぐにゼルディウス道場にたどり着いた。
近くの練習生に声を掛ける。
「こんにちは。すみません。私、アイリスを申しますが、ナルキサス様はいらっしゃいますか?」
声を張り上げると、何人かに振り向かれた。
目があった練習生に頭を下げる。
その練習生の彼が近づいてきた。
私より少し年上だろうか。
「ナルキサスなら道場長と出ているが」
少し身体を見られた。
「そうなのですか。お2人はいつ頃、お戻りになりますか?」
「あんた、名前は」
胸を見て聞かれた。
「アイリスと申します」
「ちょっと待ってろ」
彼は一度仲間たちのところに戻った。
≫アイリスって言ってるのに気づかれてない?≫
≫まあ、気づかんだろ≫
それから何かを話していると思ったら、急に慌ただしくなり、私を見てきた。
会釈をしておく。
しばらくすると、赤毛のガッチリ体型の男性が呼ばれてこちらに向かってきた。
ルフスさんだ。
「お久しぶりです。ルフスさん」
「お前か。自分なんかの名前覚えてるんだな」
「はい」
笑顔を向けておく。
「おい、お前ら! 間違いなくあのアイリスだ」
後ろに向かって大声をだす。
「すみません。突然、押し掛けて」
「全くだ。つーか、倒した奴の道場にくるなよ」
「申し訳なく思っていますが、用事があったので……。こちらで待ちます」
「こんなところで待たれる方が迷惑だ。入れ。奴らならそろそろ戻ってくる」
「そうですね。分かりました、お邪魔します」
私はルフスさんに連れられて、道場の中に通された。
入ると、作りは養成所やコモド流の本部道場に近い。
練習場が中庭のようになっていて建物に囲まれている形だ。
私が入っていくと注目を浴びた。
「適当にこの辺で見学でもしてろ」
彼は手を振って練習場に足を向けた。
ここで放置!
「――ありがとうございました」
言葉を飲み込み、お礼だけ言う。
周りの視線を浴びている中、こそこそと見学することにした。
イスはないし、地べたに座る訳もいかないので立ったままだ。
しばらくすると、視線も減り、各々練習を再開し始めた。
剣術の訓練と違って話す距離とかも近い気がするな。
練習内容は様々だ。
打撃の練習や立ったままの関節の練習など。
1人、魔術の光を宿した人物もいる。
『闘神』ゼルディウスさんの息子。
マルティウスさんだったか。
彼とは以前、親衛隊員のラピウスとして戦ったりもした。
彼も私のことが気になるようでチラチラを見てくる。
父親を倒した人間のことは気になるだろう。
そうして見ていると、3人組が近づいてきた。
目的は私のようだ。
嫌な予感しかしないけど、今更動くのも不自然だし、私の名前は覚えてもらう方がいい。
「あんたがアイリスでいいのか?」
「はい」
「――だってよ」
後ろを向き嘲笑するような笑い。
後ろの2人も同じように笑う。
「あんた、道場長より強いんだって?」
「どうでしょうか」
「勝ったんだろ?」
「トーナメントという枠組みでは一応、勝利いたしました」
「じゃあ俺たちにも勝ち方を教えてくれよ」
「今は見学してるだけですので」
「なんだ。逃げるのか。それとも、その身体を差し出して勝ちを譲ってもらったのか?」
嘲笑される。
たぶん、挑発されているんだろう。
でも、彼らは後ろから近づいてきているマルティウスさんに気づいていない。
「そのようなことはございません」
「いいから教えろよ」
先頭にいた彼が私に近づき、腕を掴もうとした。
捕まれる瞬間に動く。
彼の手が空を切った。
今のでもお尻はバランスをとろうと動くんだな。
「おい」
再び捕まれそうになる。
「何やってるんですか、先輩方」
3人が一斉に振り向く。
「マルティウス」
彼はすでに強者としてのオーラがある。
17歳だったか。
マリカと同じ歳のはず。
「繰り返します。何をやっていたのですか?」
「お前には関係ないだろ」
「関係あるかどうか確認するためにも、何をやっていたのか教えてください」
「教えてくれと頼んでただけだ」
「何を頼んでいたのでしょう」
「どうやって道場長に勝ったかだよ」
「聞いてどうにかなるものと?」
マルティウスさんの雰囲気が変わった。
圧が強い。
「うるせえな。もういい。いくぞ」
彼らは去っていった。
ばつが悪いのか、ここから見えないところまで移動する。
「助けてくださり、ありがとうございました」
笑顔でマルティウスさんにお礼を言う。
「いや」
彼は私から目を反らした。
「申し遅れました。私はアイリスと申します。本日は、ナルキサス様に用事がありお伺いしました」
≫言葉遣いが清楚!≫
≫侍女経験のせいかお嬢様度が増してるな≫
≫言葉遣いって大事ね≫
「マルティウス。ただの練習生だ」
「マルティウス様は勇気のあるお方なのですね。繰り返しになってしまいますが、ありがとうございました」
彼は私から目を反らしながらも困惑しているようだった。
「いかがされましたか?」
「貴女がウチの道場長に勝ったという事実が結びつかない」
「もう1度対戦したらどうなるか分かりませんし、剣術の対戦でしたから」
「違う。もっと圧的な話だ」
「圧ですか?」
「本気の奴の前に立つと動けなくなるか、恐怖で向かっていくことになる。そういう圧にあらがえる姿が想像できない」
「お話を伺うと、平気だったことが私自身不思議に思えてきます」
「奴に勝てる者などいないと思っていた」
「ゼルディウス様は剣術を練習されているのですか?」
「いや、見たことはない」
「剣なしでは私は相手にならなかったはずです」
「最後は絞め技で倒していなかったか?」
考える。
そういえば、脳への血流を止めて勝利したんだった。
「あれは絞め技に見えたかもしれませんが、魔術です」
「魔術?」
「その前に腕を捕まれたときも魔術で無力化しています」
「貴女が腕を捕まれたときは、他人のことながら生きた心地がしなかった」
「それほどのことなのですか?」
「奴に捕まれたら最後。例外なく終わる」
「助けていただいたお礼、という訳ではないですが、捕まれても大丈夫な魔術をお見せしましょうか?」
「見せる?」
「実際に体験してみないかということです」
「なに? 是非、試させてもらいたいが、いいのか?」
「もちろんです」
笑顔を向ける。
「分かった。どうすればいい?」
「では胸ぐらを掴んでみてくだ――」
「お、お、女の胸ぐらなど掴めるか!」
みるみる顔が真っ赤になっていった。
父親のゼルディウスさんとは違うんだな。
「はしたなかったですね。配慮が足りていませんでした。では、私の腕を掴んでみてもらえますか?」
「う、腕か」
腕すら躊躇している。
「私を対戦相手だと思って掴んでください」
「分かった」
少し表情が変わり、私の手首付近を掴んでくる。
「もっと強く!」
私の声で彼は思いっきり握ってきた。
その彼の手首を逆の手で掴み、神経を流れる電気の邪魔をする。
「何?」
彼の手から力がなくなり、私の手首に乗っているだけとなった。
ゆっくりと手首を引き抜く。
だらんと彼の手が垂れ下がった。
「これが捕まれても相手を無力化できる魔術です」
私は魔術を解き、彼の手に力が戻った。
「な、何が起きた。自分の手じゃなかったようだ」
「手に力を込めるとき、力を出せという命令を送っているのですが、それを魔術で届かないように邪魔いたしました」
「命令? 魔術で届かないように? くそっ、何を言っているのかさっぱり分からない」
頭を抱えている。
感情表現がオーバーな気がする。
「細かなことは分からなくても大丈夫です。力の強い方に捕まれても抜け出せる魔術があることを見せたかっただけなので」
「そうか」
あからさまにガッカリしている。
「もしかしてこの魔術に興味がありますか?」
「――そうかもしれない」
「かもしれない?」
「分からないんだ。戦いで魔術を使ってもいいものか。だが、奴に近づけるのならという思いもある」
「1つお聞きしますが、ゼルディウスさんは魔術を使っていないとおっしゃっていたのですか?」
「そうだ」
「そうでしたか。ご本人の話はともかく、ゼルディウスさんは魔術っぽいものを使ってますよ?」
「はぁ?」
「彼の身体には剣の刃が通りませんよね? あれは魔術的な力を使っています」
「な、なに!」
「ですのでゼルディウスさんが理由なら私は魔術を使ってもいいと思います。決めるのはマルティウス様ですが」
マルティウスさんは考え込む。
「魔術を使うかどうかはともかく、使うことができるか確認してみますか? マルティウス様には才能があると愚考しております」
「どうして分かる?」
「なんとなく察せられるとしかお答えできません。マルティウス様は他の方より力が強くありませんか?」
「そうだ」
警戒を解かずに言ってくる。
「才能のある方には力が強い傾向があります。よろしければでいいのですが、マルティウス様の魔術に対するイメージを聞かせていただけますか?」
「あまり良い印象はない。なんの役にも立たないといったところが本音だ」
「風を使う魔術のことですか?」
彼は頷いた。
「ありがとうございます。もう少しこのままお時間をいただけますか?」
「いいが」
「では、失礼して風の魔術を使います」
私は彼の周りでいろいろな風の魔術を次から次へと使っていった。
普通の風から吸い込むタイプ、真空のように特定の場所から追い出すタイプ。
上空、広い範囲、細い風。
中でも彼を魔術で包み、緩やかに風を送り込んだものに良い反応があった。
風が当たっている頬ではなく発生している額の辺りを気にしている。
今度は頬辺りから風を発生させ、首元に風を送り込んでみた。
首ももちろん気にしているけど、頬も気にしている。
今度は風を当てないで、左腕から風を私の方に向けて発生させてみた。
それで左腕が気になるようだ。
「今、なぜ腕を気にされていましたか?」
「いや、風が……」
「風が当たっていますか?」
「違う。当たってはいない」
「では、風の魔術を認識できています。マルティウス様は風の魔術を使える可能性が高いです」
「なに?」
心底驚いている。
マルティウスさんは原理を理解することなく風の存在を察知した。
もしかすると、魔術の光を宿している者は、理解ではなく感覚で魔術を捉えられるのかも。
「少し腕を濡らします」
彼の腕を濡らした。
「これが分かりますか?」
すぐに電子を彼の手首側に集める。
「うわっ?」
彼は腕から身体を離し、手を振るった。
「何が起きました?」
「ぞ、ぞわぞわしたものが何か」
「驚かせて申し訳ありません。今ので、マルティウス様も無力化の魔術を使えそうなことが分かりました」
「は?」
「ゼルディウスさんに捕まれたとしても、大丈夫になるかもしれないということです。マルティウス様自身に大きな才能があると私は考えます。ゼルディウスさんとは違う道になりますが」
彼は口をパクパクと開けたり閉めたりしている。
≫何が起きた?≫
≫電気の魔術を確認させたのでは?≫
≫一度に情報量が多すぎて処理しきれてないな≫
≫手加減してやれ……≫
≫俺も何が起きているのかよく分からん≫
でも、もう時間切れだ。
少し前から大きな魔術の光が近づいてきている。
こうして久しぶりにみると、やっぱりゼルディウスさんの魔術の光は特別だな。
神々を除いてだけど。
「もし、興味があるようならナルキサスさんを通して、私を頼ってください」
「どうしてそこまでしてくれる?」
「助けていただいたお礼とでも思っておいてください」
「おお! いたか!」
結構遠くから大きな声がした。
言うまでもなくゼルディウスさんだ。
その声だけで場の空気が一変してしまう。
巨大な岩が近づいてくるような不思議な雰囲気。
その後ろからナルキサスさんが涼しげについてきている。
「お久しぶりです。ゼルディウスさん」
「私に用事かね」
「僕に用事ですよ、道場長」
「どうしてかね」
「聞いていたでしょう? 彼女がそう伝えたからです」
「ふむ」
私を見てくる。
「ナルキサスさんのおっしゃるとおり、今回は彼に用事があってお邪魔させていただきました」
「だそうですよ」
ゼルディウスさんは何も言わずにそのまま去っていった。
相変わらず自由な人だな。
「さて、奥の部屋に行きましょうか。秘密の話ですよね?」
「はい」
話が早い。
「あと、マルティウス様が私に連絡付けたいとおっしゃられた場合には、ナルキサスさんが間を取り持っていただけますか?」
「お安いご用ですよ」
細い目を少しだけ開けてマルティウスさんをみる。
「それではマルティウス様。失礼いたしますね。助けていただきありがとうございました」
「――あ、ああ」
≫完全に情報がオーバーフローしてるな≫
≫かわいそうなマルティウス君!≫
私たちは中庭をあとにして通路に出る。
ナルキサスさんについて移動していった。
「彼に助けられたってどうしたんですか?」
「練習生に絡まれたところをマルティウスさんが止めてくれました」
「なるほど。彼らしいですね」
「彼はこの道場で孤立してるんですか?」
「孤立の傾向はありますね。でも安心してください。強い者からは可愛がられていますよ」
「ルフスさんみたいな?」
「そうですね。こちらです。どうぞ」
私は一室へ案内された。
「防音の魔術を使ってもいいですか?」
「ええ」
周りに人はいないけど、念のため使う。
「使いました」
「話は貴女とマリカを探している人物がいる、という件でよろしいでしょうか?」
いきなり切り出してくる。
ナルキサスさんは知っているのか。
さすがというか怖いというか。
「話が早くて助かります。ちなみにマリカは元気にしてると聞いてます」
マリカのことを伝える。
「そうなんですね。感謝します」
「はい。ところで、その私やマリカを探している人物についての心当たりはあります?」
「探ってもらってはいますが、まだ分かりません」
裏社会にそういう伝手があるということか。
「私は次の対戦相手のレオニスさんが怪しいと思っていますがどうですか?」
素直に話してみる。
「ここだけの話、同意見です。確証はありませんよ?」
ふふふと聞こえてきそうな笑みを見せる。
「ところでなぜここへアイリスの名で来たんですか?」
前にここへ来たときは親衛隊員のラピウスとして来てるからな。
「私が行方不明のままだとレオニスさんが余計な行動をするかもしれないと考えたからです」
「余計な行動ですか」
「皇妃と手を組むといったような行動です」
「なるほど。貴女の行方が全く掴めないと何をしでかすか分からないという訳ですか。確かにそれは避けたい話ですね」
薄い笑みを浮かべる。
そうなった場合の可能性を考えているのだろう。
特に妹であるマリカへの危害について。
この人も怒らせると怖いんだろうなあ。
「そういえば、マリカが剣闘士になるような事態のときはどうして助けられなかったんですか?」
「そのときはまだ妹が彼女だと知りませんでしたからね」
妹がいるのは知っていたかのような口振りだ。
「なるほど。ただの興味本位なんですけど、妹がいるのはいくつくらいから知っていたんですか?」
「8歳くらいでしたね」
言いながら珍しく素で微笑んでいるような気がした。
「どうしたんですか?」
「僕にもそんな頃があったなと思い出しまして」
「マリカに話してあげてください」
「それも良いかもしれませんね」
もう彼の本心は見えない。
「はい、是非。話を戻しますが――」
アイリスとしてゼルディウスさんの道場に来たことで、私がローマにいると知らしめる目的はある程度果たされたと伝える。
「ただ、私を探してこの道場によからぬ人たちがくるかもしれません」
「その点についてはご心配に及びませんよ」
ノータイムで表情も変えず宣言された。
「分かりました。お任せします」
「貴女がゼルディウス道場へ来たことも伝手を使って広めておきます」
裏社会に情報を流してくれるということだろう。
「そうして貰えると助かります。マリカに関しては数少ない人物しか居場所を知らないので今のところは大丈夫だと思います」
漏れる可能性があるのはミカエルの侍女周りか。
彼女たちが現在裏社会と接点あるとは思えないから今のところは問題ないと思う。
「僕もマリカの居場所は掴めませんでしたからね」
「ナルキサスさんでそれなら尚更問題なさそうですね」
「ふふ。買い被りですよ」
「そんなことはないと思うんですけどね。ところで今回のことでお世話になりますよね? 私がナルキサスさんに協力できることとかはありませんか?」
「ソムヌスを倒していただけただけでも十分なんですけどね」
「ソムヌス?」
誰だっけ?
知っている、とは思う。
「もしかして忘れているのでしょうか?」
「いえ、知っているはずなんですけど思い出せないというか……」
≫それを忘れていると言う≫
≫誰だっけ?≫
「ふふ。やはりアイリスさん、あなたは最高ですね。くくく。ふふふ」
「すみません。あっと、たぶん『蜂』の皇帝と呼ばれて方な気がするのですが記憶が」
更にツボに入ったのかナルキサスさんはずっと笑っていた。
「ああ! はっきりと思い出しました。あのソムヌスですね」
彼が暴走したところを屋上から飛び降りて倒したんだった。
そのあと、彼の弟のモルフェウスさんと話して、昔は真っ直ぐな人間だったと聞かされた。
ナルキサスさんの実の父親でもある。
その、ナルキサスさんはまだ笑ってる。
ちゃんと思い出したのに。
「追撃とはやりますね」
「追撃したつもりはないんですけど」
「裏社会を恐れさせ、『蜂』の者たちすら恐れていたあのソムヌスを忘れていたわけですからね。こんなに面白いことはないですよ」
「う……」
返す言葉がない。
確かにマリカが誘拐されたときは怒りも沸いたけど、あまり印象にないんだよなあ。
「そうですね。彼のことはどうでもいいです。ただ、彼を倒していただけたことには感謝しているんですよ、本当に」
複雑な気持ちだ。
ソムヌスは殺すつもりで剣を突き刺したので、あまり良い記憶じゃない。
「分かりました」
それだけ言った。
「貴女が来たと広める以外には、何かしておいた方がいいことはないのですか?」
「何かですか?」
≫練習頼んだら?≫
≫こいつって強いんだっけ?≫
練習か……。
そういえば、ナルキサスさんってルキヴィス先生と戦って無事だったんだよな。
ゼルディウスさんとも対等に付き合ってるし、かなり強いのかもしれない。
「あまり関係ないのですが、私の次の対戦での課題があります」
「聞かせてください」
「はい」
私は、レオニスさんが相手の剣を飛ばす技が得意らしいということを話す。
その上で、剣を飛ばされたときのために左フックを練習しているがあまり上達していないと話した。
「面白そうですね。攻撃を避けることは多少できるので練習にお付き合いしましょうか。アイリスさんは本番に強いタイプでしょうか?」
≫本番タイプだろうな≫
≫どちらかと言えば本番タイプ≫
「自分ではよく分かりませんが本番タイプのようです」
「でしたら素手で僕と戦ってみましょう」
「え?」
「ほんのお礼なので遠慮しないでください」
「いえ、遠慮とかではなく」
「それはよかった。人を呼んできますね。防音の魔術を解いてください」
「はい」
彼は出ていった。
話を聞いてない。
いや、彼ならちゃんと聞こえてて、敢えてそう振る舞っているか。
しばらくすると、彼はマルティウスさんを連れて戻ってきた。
「お、おい」
マルティウスさんは抗議の声を挙げているが「大丈夫ですよ」と笑顔を返されている。
何が大丈夫か分からない。
完全に詐欺師の口振りだ。
「これをつけてください。子ども用なので大丈夫だと思います」
綿の入ったグローブだ。
「ありがとうございます」
覚悟を決めるか。
私はそのグローブをつけた。
紐がついているので、外れないように結ぶ。
指の部分は割と生地が薄く、結ぶには問題なかった。
グローブ自体も少し大きいけど問題はない。
軽く左フックしてみる。
「準備できました」
「魔術での直接攻撃はなし、寝技はなし、くらいでいいですか。疲れるか強い攻撃が入ったら終わりくらいですね」
あまり緊張感はない。
ただ、油断はできない。
私は肩の力を抜き、胸の重さを感じた。
「はい」
「では、マルティウス。始めの合図をお願いしますね」
「いったいなんなんだよ……。始め!」
ナルキサスさんが地面を蹴る。
速い。
ほぼ身体がブレない状態からの蹴り。
これも速い。
スピードそのものというより、間が速い。
蹴りを後ろに移動して避けると、風圧すら鋭い。
左フックを打つために一歩踏み出す。
そこへカウンターの右が来る。
避けながら顎へ左フックを打つが、肘を上げられて不発に終わった。
私のボディへ膝。
身体を捻って避け、後ろに下がった。
直後に足の先が私を追いかけてくる。
反射的に首を傾けて避けた。
無茶苦茶強いな。
よく分からない速さと、攻撃の組み立てが上手く、封殺しきれない。
「練習になりそうでしょうか?」
「もちろんです」
彼の強さが私の集中力を高める。
一歩沈んだ感覚があった。
ボトン、と水中に沈んだように静かになる。
空気に溶け、基本身体に任せ、攻撃は電気を使う。
風。
速い。
拳。
避けたところに拳。
避けると今度は膝。
彼の膝に手を当てながら電気を直接使って左フック。
当たったが逸らされた。
スリッピングアウェーに近い。
ルキヴィス先生ほど瞬間的じゃないけど、反応して威力を殺されている。
更に沈む。
私は空気の流れと一体化した。
攻撃は速いが関係ない。
流れ全体に身を任せ、風の隙間に身を置く。
入る。
溶ける。
自然と笑みが漏れる。
それでも彼の攻撃の組み立てが上手く、完全には避けられず身体の部位を使って逸らす必要がある。
カウンターで彼の顎に左フックを置くが、当たりはするものの有効打じゃない。
直感的に肩の位置で距離を計る。
どんな場合でも彼の顎と私の肩の距離は一定のはず。
精度は上がった。
同じ場所へ電気を使うことで、拳のコントロールはかなり正確だ。
それでも彼は当たりながらも避ける。
連打じゃないと難しいか?
いや。
タイミングだ。
彼の神経の電子が走った同時に、私は左フックの電気を起こす。
拳に引っかかるような手応え。
ただ、その手応えは最後まで到達せずに彼は首を捻った。
これすら避けるか。
――と、ナルキサスさんがパンチを打とうとした瞬間、カクンと膝を落とす。
そのまま手を床につけた。
隙はない。
「まともに食らってしまいましたか」
「だ、大丈夫ですか?」
「足が動かないだけでしばらくすれば元に戻りますよ」
「そうなんですね」
「道場長以外からは食らわないんですけどねえ」
「最後も微妙に逸らされました」
「倒れるというのは食らったということですよ」
「な、何が起きた」
今まで硬直していたマルティウスさんが声を震わせながら近づいてくる。
「アイリスさん。説明をお願いしてもよろしいですか? 彼の参考になるでしょうし、僕も興味があるので、貴女の視点で聞かせてください」
「私の分かる範囲でなら」
「それで問題ありません」
「分かりました。まず、ナルキサスさんは攻撃の間や組み立てが上手いです。ナルキサスさんより速い人はいますが、そういう人はタメがあったりして避けやすかったりします」
タメがない攻撃といえばモルフェウスさんか。
暗闇で彼と戦ったときは絶望したもんな。
ナルキサスさんは彼の影響を受けているのかもしれない。
「なんだか恥ずかしいですねえ」
照れてる。
演技だと思うけど。
「私は避けること自体は比較的得意なのですが、ナルキサスさんの攻撃は避けきれなかった。そこで戦い方を変えました」
「変えた? 戦い方を?」
マルティウスさんが聞いてくる。
「はい。攻撃を1つずつ避けるのではなく、全体の流れの隙間に身体を置くようにしました。それでも間に合わなかったので、肩とか手で逸らすことになりましたが」
「興味深いですね。左フックしか使わない相手にあそこまで避けられるとは思いませんでした」
「左フックだけとはどういうことだ?」
「そもそもさっきの試合のようなものは、私の左フックの練習でした」
その練習目的は、顎からの肩の距離を掴んだことで果たしたといえる。
「ナルキサスに左だけで勝ったというのか」
「試合ではないので」
「僕は本気でしたけどね。あー、悔しい」
わざとらしく悔しがって見せている。
「その本気はあくまで競技としてですよね」
私が言うと、彼は薄く微笑んだ。
怖い笑みだ。
「最後は、カウンターのタイミングを変えました。これまでは雑なタイミングでカウンターを打っていたのですが、それだとナルキサスさんに避けられていました」
一呼吸入れる。
「そこで、ナルキサスさんが攻撃を開始すると同時にカウンターを発動するようにしました」
「こ、攻撃と同時に」
「なるほど。それでフックを食らってしまったわけですか」
「普通はそこまでしなくても当たるんですけどね。最後は思いつきが上手くいった形です。それでも少し避けられてしまいましたが」
「差し支えなければ、タイミングについて教えてくださいませんか」
「攻撃の直前にシグナルがあり、それが私には分かります。そのシグナルから一瞬遅れて実際の攻撃が始まります。その打ち始めに合わせてこちらも左フックを打ついうのが具体的なタイミングです」
「打ち始めですか」
「はい」
「僕の直感ですが、相手の攻撃の始まるタイミングに打ち始めるのではなく、攻撃の開始に攻撃を当てた方がよくないでしょうか?」
攻撃の開始時に攻撃を当てる?
「相手の攻撃の開始を予想して、ぴったりのタイミングで攻撃を当てるわけですね。今のタイミングより僅かに遅くなります」
筋肉を動かす瞬間は他の筋肉が動かしにくい、というのが元の発想なので、ナルキサスさんの案の方がいいか。
「確かにその方が良さそうですね」
「試してみましょうか」
彼の言葉に甘え、軽く実験してみた。
ただし、当てるのは顎ではなく、彼の手だ。
彼に好きなタイミングで攻撃してもらい、私の左フックが彼の手のひらに当てられるかどうか試す。
そうすると、ナルキサスさんが提案してくれたタイミングだと彼の手にまともに入った。
逆に私のタイミングだと、少し動き始めた直後に当たることになる。
「ありがとうございました。ナルキサスさん提案の方が良いですね」
「お役に立てて何よりです」
マルティウスさんが無言で一歩出てきた。
何かを迷っているようだ。
「気になることがあるのなら言ってみるのが良いですよ。アイリスさんはとても懐の深い方ですので」
≫確かに許容する範囲は広すぎるくらいだ≫
≫基本なんでも許すからな≫
「大丈夫ですよ。言ってみてください」
「いや、その。俺も試してみたいと思っただけだ」
「手のひらに左フックを当てることでしたら、喜んで試させてください」
「あ、ああ」
≫思春期の青年っぽくていいな≫
≫ゼルディウスの息子とは思えん≫
向かい合い、彼が自分の手のひらを顎付近に置く。
彼の攻撃に合わせて、まずはナルキサスさんには動かれてしまったタイミングで攻撃する。
パシッ。
彼は身動き1つできずに私の左フックを手のひらに受けた。
何度やっても結果は変わらない。
普通はこのタイミングでも十分なんだろう。
ナルキサスさんが異常なだけだ。
彼が事前に動いてしまったケースもあったけど、それも調整して当てた。
指摘すると素直にそうだったかもしれないと素直に認めていた。
一方で彼はショックを受けていた。
安易な慰めの言葉は掛けないでおこう。
こういうのは時間を掛けてでも受け入れるしかないと思う。
「アイリスさん。彼に何か希望を与えていただけますか?」
≫人間、希望がないと生きていけないからな≫
≫パンドラの箱か≫
パンドラの箱は最後に希望が残ったとか聞いたことはある。
「マルティウス様さえよければ喜んで」
そのマルティウスさんはじっと下を向き、何かを考えているようだった。
「分かった。教えて欲しい」
「はい。先ほど体感していただいた腕がぞわぞわする魔術がありましたよね? あの魔術を使うことが出来れば攻撃は察知でき、捕まれても無力化できます」
「な! あれが?」
「はい。そして、マルティウス様にはあの魔術の才能があります」
「ど、どうすれば……」
「身体を動かす直前に、あのぞわぞわするものが腕の中の糸のような場所を通ります。それが見えるようになれば相手の行動は読めるようになります」
「そんなことが」
「アイリスさんは相手の攻撃をその魔術で読んでた訳ですか。でも、いいんですか? そこまで話してしまって」
「マルティウス様がゼルディウスさんに勝つとなれば必要ですから」
「ふふ。そんなことが言えるのは貴女くらいのものですよ」
「勝てるのか。俺が奴に」
「勝てるかどうかは分かりません。身につければ勝てるかも、と、ちょっぴり考えられる程度かと」
「まさに『希望』ということですね」
「いや、それだけでも十分だ。俺もそちら側へ踏み入りたい」
マルティウスさんの歯が食いしばられ、身体に力が入る。
「そちら側ですか?」
思わず口から言葉が漏れた。
「本気の奴の前に立てる側。化け物の領域だ」
「僕やアイリスさんは化け物という訳ですか」
ナルキサスさんは本気のゼルディウスさんの前に立てるのか。
「化け物だろう? もちろん、良い意味でだ」
この状況でわざわざフォローするなんて性格が良いんだろうな。
「アイリスさん、どうでしょう? 彼がなりたいという化け物への足がかりを用意できそうですか?」
「きっかけぐらいなら」
「いいですねえ。私も道場長に偶然出会ったことで様々なことが変化しました。マルティウス。今、あなたもその状況だと思いますよ」
ナルキサスさんって身内には優しさを見せるときがあるんだよな。
そのマルティウスさんは険しい顔をしていた。
しばらく無言の時間が流れる。
数分の後、マルティウスさんが急に両膝をついた。
そして、両手のひらを上にして私の膝へ向ける。
「アイリス様。是非私にお教えください」
≫なんだ?≫
≫ローマの正式なお願い作法?≫
≫ある意味面白いなマルティウス君≫
「普通にしててください。ありがたいんですけど、大げさなのは苦手で……」
「素直にアイリスさんの気持ちを汲んだ方がいいと思いますよ」
ニコニコ顔でナルキサスさんが促した。
「では、失礼します」
彼が立つ。
「手短に教えますね」
「僕も聞いていてよろしいのですか?」
「もちろんです。覚えておいてサポートしてくださると助かります」
私は彼の手首を包み、彼の指を動かした。
指を反らせたり、指を握らせたりを私の魔術で行いながら、それを認識してもらう。
やっぱり、彼は魔術を掴むのが早かった。
すぐに私の使った電気を関知することに成功。
続けて自ら起こしている神経の信号――神経を出たり入ったりする電子の動き――の流れを掴んだ。
末恐ろしい。
これが神の因子を宿す者か。
マリカもそうなんだよな。
「これで『化け物』への足がかりは掴んだことになります。筋肉への命令を確認できる部位を少しずつ広くしていき、自分だけでなく他人の命令も見られるようにしてください。それで攻撃も直前に読めるようになるはずです」
「化け物への足がかり……。実感が湧きません」
「私なんて未だに実感ありません。少しずつ当たり前にしていくと、誰かからそう呼ばれる日がくるかもしれませんね」
「分かりました」
「無力化については、まずは自分の筋肉への命令を魔術としてコントロールできるように挑戦してみてください。できなければまた教えます」
「魔術は使ったことがありません」
「ナルキサスさんって風の魔術使えましたっけ?」
「使えますよ」
「マルティウス様は風の魔術についても才能があります。ナルキサスさんがご負担でなければ、教えていただけると助かります」
「楽しそうですし教えてみましょうか。僕がその筋肉の命令を使えるようになっても構わないんですよね?」
「はい。他人への無力化として使うには工夫が必要ですけどね」
「工夫ですか」
「工夫といってもそれほど難しいものでもないですよ」
自分の身体で相手の部位を包むだけだ。
「魔術を覚えるのは、風の魔術でも大丈夫なのでしょうか?」
マルティウスさんが聞いてくる。
「はい。魔術を使うという意味では、風の魔術と『電気の魔術』は同じです。電気というのは雷の成分ですね」
「あの魔術の正体は雷と同じだったのか、いえ、同じだったのですか」
「はい」
そんな感じで会話しているとゼルディウスさんがこの部屋に近づいてくる。
彼とは試合することになりかねないので、時間を理由に話を切り上げた。
マルティウスさんには助けてもらったお礼を、ナルキサスさんには練習に付き合ってもらったことと、私の噂を広めてくれるお礼を言う。
そして、すぐに部屋を出た。
マルティアスさんは入り口まで見送ってくれるようだ。
途中、ゼルディウスさんと出会う。
「お邪魔しました」
「君はこれはやるのかね」
拳を突き出してくる。
格闘技をやるかということだろうか。
「いえ、剣だけです。時間がないのでこれで失礼します」
丁寧に頭を下げ、足早に去る。
彼に関わってはダメだ。
一瞬、良い練習相手になるかもと思ってしまってけど。
道場の入り口でマルティウスさんと別れの挨拶をして、私はウァレリウス邸に戻っていった。
彼も私の噂を広めてくれるらしい。
良い子だ。
帰り道。
急いで歩きながらスリッピングアウェーの練習をする。
日はすでに傾いていた。




