72話 別れの前夜
◇
「……悩む暇もないとは、まさにこのことね」
第二部隊の事務室で、いつもの眼鏡をかけながら書類に向かう。
ペンを走らせながらふと頭に浮かんだのは――あの日、アレンと口論になった夜のこと。
あれから数日。けれど、彼と顔を合わせる時間はめっきり減った。
私の第0部隊への正式な配属日も決まり、通常業務と準備に追われる毎日。
アレンもまた、ヴァルドール王国に向かうための引継ぎに追われ、目が回るほど忙しそうだった。
「……はぁ。アレンと喧嘩するの、学生の時以来かも」
不意に思い浮かべる学生時代に、無意識に漏れた深いため息。
変なの。幼い頃の方が、喧嘩をしてもすぐに仲直りできていた気がする。
会えない時間が積み重なるほどに私の感情は複雑に絡まって、素直になれない。すれ違うだけの時間が少しずつ、確かな距離を広げていく。
「アレンがここを離れるまで、あと五日か……」
机の隅に置いてある小さなカレンダーに目をやる。指先で印をなぞると、紙の感触がやけに冷たく感じられた。
それまでに、アレンともう一度話をしないと。
「よし、おしまい」
全ての仕事を終えたことを確かめ、そっと眼鏡を外す。
作り終えたばかりの引き継ぎの資料を、丁寧に机の上へ並べた――その時だった。
「リネットちゃん、お疲れ様ぁ!」
突然背後から声がして、首元にふわりと腕が回される。
驚いて振り返ると、そこには満面の笑みを浮かべたマルチダ先輩の姿があった。
「ま、マルチダ先輩……!」
思わず声が上ずる。
その後ろには、第二部隊の仲間達がずらりと並んでいて、誰もが少し照れくさそうに笑っていた。
手には小さな花束と、色とりどりの寄せ書きが書かれた色紙。
「今日が最後の勤務って聞いたから、ちょっとしたサプライズよ」
マルチダ先輩がウインクを飛ばす。
すると、他の隊の皆も続くように、次々と言葉をくれた。
「リネット、今までお疲れ様!」
「リネット先輩、今まで本当にありがとうございました!」
「第0部隊でも、リネットなら大活躍間違いなしさ!」
「皆……」
胸の奥が、じんと熱くなる。
たくさんの言葉が並んだ色紙と花束を受け取る手が、少しだけ震えた。
「ありがとうございます。皆のおかげです。私、第二部隊の皆が家族みたいに……大好きです」
笑顔を作ろうとしたけれど、目の奥が熱くて、うまく笑えなかった。
色々なことがあったけど、いつも第二部隊の皆は、私の味方でいてくれた。それがどれほど心強かったか……
「リネットちゃん、第0部隊が辛かったら、いつでも戻っていらっしゃいね!」
「……はい!」
それから、仲間達が笑顔で事務室を後にしていくのを、私は最後まで見送った。
誰もいなくなった部屋に、少しだけ余韻が残る。胸に抱いた色紙を眺めると、温かな気持ちで満たされた。
この場所に、もう自分の席はなくなるのだと思うと、すぐに立ち去る気にはなれなかった。
第二部隊で過ごした日々。
その全てが今日で一区切りついたのだと思うと、胸の奥がじんと熱くなる。
窓の外に目をやると、空はすっかり夜の色に染まっている。
「……そろそろ帰らないとね」
席から立ち上がると、花束と色紙を大切に持って、部屋を後にした。
夜の空気はひんやりとして、肌を撫でる風が静かに通り過ぎる。石造りの回廊を歩くたび、靴音が控えめに響いた。
……そんな静寂の中、何かが動いた気配がして、顔を上げる。
石造りの回廊の向こう、騎士団の制服を纏った人影が、少し慌てた様子でこちらへ向かってくる。
見覚えのある姿だった。
「クリフ様」
こんな遅い時間に……とはいえ、騎士団には夜に任務に就く者もいる。
それ自体は珍しいことではない。けれど、わざわざ私のもとへ駆けつけてくる様子には、ただならぬ気配があった。
「リネット! アレン殿下が出立の準備をしている!」
「え……?」
思わず聞き返す。
今から? カレンダーに印をつけた日まで、まだ時間は残っていたはずなのに。
「予定を早めたようだ。正式な命令ではないが、アレン殿下の判断だと聞いている」
「……どうして、そんな急に」
「誰にも告げずに行こうとしている。君にも、何も言わずに」
薄々、気づいてはいた。
忙しいとはいえ、これほどまでに顔を合わせないのは不自然だった。きっと彼は、私を避けていたんだ。
「今、アレンはどこにいるんですか」
「本部の厩舎だ。馬車が出る準備をしている」
「分かりました。……クリフ様、ありがとうございます」
「礼はいいから、さっさと行け」
息を呑み、そのまま駆け出した。
心臓が激しく波打つのも手伝って、静まり返った通路に、私の足音だけが鋭く響き渡るように感じられた。
「――アレン!」
「……リネット」
馬車の傍で振り返った彼の瞳が、驚きに見開かれる。
ほんの一瞬、その表情が揺れた。
「はぁっ……はぁっ……このまま、一人で行くつもりだったんですか?」
全力で走ったせいで、息が上がる。
体力のない私には致命的だけど――それでも、間に合ってよかった。
「……貴女の顔を見たら、決意が鈍ってしまいそうだったので」
「決意って、そんな言い方……」
言いかけた言葉が、喉の奥で途切れた。彼の瞳の奥に、揺るぎない覚悟が滲んでいたから。
私を見つめながら、アレンは静かに息を吐いた。
「……あの時はすみませんでした。リネットを傷付けるつもりはなかったんです」
「謝らないでください。謝られると、余計に……」
彼の言うことは、何一つ間違っていない。
だからこそ、苦しかった。分かってる。私では、何の力にもなれない。
「リネットが気に病む必要はありません。これは俺が引き起こした問題です。貴女を巻き込みたくないだけなんです」
「……巻き込む、なんて。これは私の問題でもあります」
「いいえ。俺が勝手に決めて行動したことです。リネットには何の関係もありません」
その言葉は静かで、確かな決意に満ちていた。
私には、それが「拒絶」のように響いた。
守ろうとしてくれているのは分かる。でもその優しさが、私との距離を静かに広げていく。触れられないほど遠くへ――
「リネットも、明日から第0部隊に配属でしょう?」
「……はい」
「なら俺のことは気にせず、そちらを優先してください」
「でも――」
思わず反射的に言いかける。否定したかった。けれど彼は、その言葉を遮るように続けた。
「母親に会える異能を探すのがリネットの夢でしょう? 俺は、貴女の夢の『足枷』になりたくありません」
「――」
一瞬、言葉を失った。
自分の言葉をそのまま返されたこともだが、ずっと追い続けてきた夢の部隊に入隊することが、あと一歩で叶う。
その事実に――胸の奥で小さな迷いが生じたのは確かだ。
私の心の揺れを機敏に感じ取ったアレンは、困ったように微笑んだ。
「ずっと、子供の頃から描いていた夢じゃないですか。それを簡単に手放そうとしないでください。俺なら大丈夫ですから」
「私は……」
少しだけ息を吸い、まっすぐに彼を見つめる。
「……私は、私の夢も大事です。でも、アレンを犠牲にしてまで叶えたくはありません」
心からの言葉だった。
夢は諦めたくない。でも、大切な人を蔑ろにしてまで叶えたくない。
私の視線を受け、アレンの瞳がわずかに揺れた。何かを言いかけたようにも見えたが、すぐに目を伏せる。
「リネットは優しいですね。ですが、俺が貴女を支えることはあっても、貴女が俺に縛られることは、俺自身が許せそうにありません」
「そんなの、勝手です!」
「そうですね。そう思います」
私の言葉を否定するでもなく、受け流すでもなく、静かに頷くだけのアレン。
「……アレン――」
「必ず帰ります。だからリネットは――自分の夢を追っていてください。自由に輝いて生きる貴女こそが、俺の帰る場所なんです」
それ以上、彼は何も言わせてくれなかった。
私の気持ちも、選択も、何一つ聞かずに告げられた一方的な約束。
どれほど時間が流れたのだろう。
アレンはそっと目を伏せると、静かに背を向けて馬車へと歩き出した。
「いってきます」
「まっ……!」
呼び止めたい。
本当はもう一つだけ言いたい言葉があった。「行かないで」と。けれど、言えなかった。
心地よい風が頬を撫で、夜の匂いが胸に沁みる。
月明かりの下、アレンの背中は静かに、けれど確かに遠ざかっていった。一度も立ち止まることなく、私を一人残して――
ゆっくりと馬車が去っていくのを、私はただ見送るしかなかった。




